わたし自身もまた、変わらなくてはならないと2009/08/23 08:34:04

難聴という障がいがあるわたしは、コミュニケーションに不便があるため、できたら手話で会話をしたいなあと思う。楽しいこともうれしいことも悲しいことも悔しいことも怒りも。友人とでも、いつか出会う新しい家族とでも。

とまで書いて、ふと思う。それは相手に対して自分の思いや願いや願望や希望を一方的に押し付けているだけではないか。自分が障がいのあるからだだからといって、それを一方的に押し付けているのではないか、と。

いっぽうでわたしはクリスチャンだ。クリスチャンではない方もいらっしゃるのを承知で、聖書から引用したい。よく教会の結婚式で朗読される個所である。

  
  愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
  礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を
  喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
         (新約聖書 コリントの信徒への第一の手紙 第13章4~7節)

このごろ「愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」ということについて、自分に問うている。

ほんとうに相手が聞こえる人でも聞こえない人でも、背が高くても低くても年収が上でも学歴が上でも、それらの逆であっても、生涯ずっとわたしのそばにいてほしい。だったら、「礼を失せず、高ぶらず、恨みを抱かない」ものであるべきではないか。 わたしに対しても、大切だと思う人に対しても。

どんなことがあっても最後に残るのは、「一生、この人と生きたい。この人のためにならどんな苦労も喜びも受け入れられる」ということではないだろうか。
とすれば、わたしは、わたし自身もまた、変わらなくてはならないと思うのだ。 三堀ではなく長野さんに、いやキリストに近づけるように。