講演会のお知らせ2019/09/04 06:22:02

ずいぶん間があいてしまいましたが、久しぶりの書き込みです。

シカゴ在住のキリスト教書翻訳者、中村佐知さんの講演会が来月25日(金)にひらかれます。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeaV4JZ99Ndtnpo0ELGZxQrlR1Xdx3V8IaCFCuLdbdjwevugA/viewform

中村さんとはお会いしたことがありませんが、中村さんのブログをいつも読んでおりました。今回講演会を開催されるとうかがい、手話通訳をつけて、とご相談しましたところ、わたしの旧知の手話通訳士や結婚式で手話通訳をしてくださった方が来てくださることになりました。

まあそのことはわきにおいて。
ぜひみなさんのご来場をおすすめいたします。

信仰も手話も奥が深いなあ2019/04/06 23:54:56

自宅に、結婚直後に知り合った手話仲間、それも昨年洗礼を受けたクリスチャンを招いて、礼拝で使うという聖書の個所の手話表現について、聖書注解書や聖書をはさんで、いろいろ語り合ったり検討したりした。

ひとつだけ言えるのは、信仰も手話も奥が深いなあということ。文脈や時代背景や聖書理解を抜きに、書かれていることをそのまま手話に直すだけではダメ。下手をすると間違った理解につながってしまうということだった。

こういう学びも大事だし楽しい。

「山路越えて」 いろいろ発見があって面白い2019/01/28 22:47:32

ここ最近、訳あって賛美歌「山路越えて」(旧賛美歌406番、賛美歌21 466番)を調べている。成立年代、作者、原曲、原歌詞など。いろいろ発見があって面白い。

元歌は「GOLDEN HILL」という1817年の「Kentucky Harmony」に収録された賛美歌だそうだ。だが作者名が複数あってはっきりしない。また、賛美歌メロディーのあとに続く別メロディーがある。元の歌詞も「山の中を歩いてきた孤独感」を歌っている感じではない。音符も原曲と旧賛美歌、賛美歌で違う。

ともあれ、こういうふうに賛美歌について調べてみるとまた違った楽しみや理解、さらには信仰が深まる。独善ではない、満たされた思いだ。

苦しみは今日一日限り2019/01/24 23:49:21

ついつい、体調が良くないのを知っているのに賛美歌「山路越えて」に関する記事をサーチしてしまった。

今日は往復ともにほとんど席に座れず、心臓の動悸もあってきつかった。
まあきつい一日だったけれど、苦しみは今日一日限りと、神さまにゆだねましょう。

今年最後の礼拝2018/12/30 22:29:39

2018年最後の礼拝を、バプテスト希望の家教会で迎えた。
牧師夫人の手話通訳を読み取り、若い人たちとの会話を手話を通して楽しむ。
音声だけでは聞こえないわたしにとって手話が必要なのだ。

「幸せなら手をたたこう」2018/12/24 23:53:35

クリスマスイブを礼拝で過ごす。
寒い中、教会近くの駅前で賛美歌を歌い、駅から教会へ徒歩で歩き、そのあとに礼拝へ。
「荒野の果てに」などスタンダードなクリスマス賛美歌を手話も入れてひとり歌い、礼拝後の交わりのひとときで、「幸せなら手をたたこう」のゲームに興じていると、ある信徒がわたしに「この歌の手話を教えて。みんなでやってみようよ」と。

もちろん断るつもりはなく、手話表現を一つずつ教えてみんなと一緒に歌って過ごした。

こういうひとときは楽しいねえ。

新しい希望2018/04/29 21:30:02

妻の故郷、福井市にある、希望の丘バプテスト教会で礼拝をまもる。

人口減という問題は宗教の世界にもさまざまな影響をもたらしている。
ひとつの例をとると、僧侶や牧師神父といった宗教家のなり手が少なくなっていることが挙げられる。都会ならまだしも、地方となると寺院や教会の僧侶や牧師が高齢化している、という問題がある。僧侶や牧師だけではなく信徒も高齢化している。

驚いたことに、今日訪れたこの教会では明日まで、将来の牧師となるための学びをしている神学生を受け入れていた。それもひとりやふたりではなくなんと15名もの大人数だ。
東京や大阪など人口が集中している都市部ならともかく、福井という地方でこういう取り組みがあるのは驚きである。さらに驚きうれしかったのは、彼らの中に手話を学んでいる方が2名いらっしゃった。礼拝後のBBQで、手話で語り合えたのがとてもうれしかったのはいうまでもない。

この国で牧師となるのはたいへんなことだけど、彼ら彼女らが用いられる、成長していくことを願わずにはいられない。

考えさせられた。2018/03/14 22:27:55

仕事をしているあいだは外に出ることがないのだけど、今日も日中、暖かい気温だったようだ。

いのちについて、生きるとは死ぬとはどういうことか、と考えさせられた。

今晩、仕事のあとに教会で聖書を学び祈る会に妻と一緒に行ってきたのだが、90歳を超えた方が30年ほど前にがんをわずらい、そのとき「もし自分のいのちがそこで終わるならそれも運命だ」と受け止めていたという。
わたしもがんと心臓の病気を持っているから、ひとごとではない。

希望をもってというが、簡単に言えるものでもない。

しかしひとしくみな、いのちは限りがある。
いまというときを見つめているかいないか。

病気をもったことで、生と死という、簡単に出せる答えのない問題と向き合えた。
きついことだけれど、向き合っていくことでしか出せないものなのだ。

できるだけ距離をおいてみる2017/12/14 23:11:22

信仰における確信というのは、その信仰を持たない人からすればただの思い込みである。けれど信仰を持っている人にとってはやはり救いである。

問題はそれを強調しすぎるとどうなるか。
わたしは強調しすぎたり熱心になりすぎるものほど、やっかいだと思う。
そういうものからはできるだけ距離をおいてみている。

バランスというか一歩ひいてみること。
それはけっして不信仰ではないと思うのだけど。

ずっと前向きに、しかしわずかでもいいから2017/12/06 21:39:57

この星で生きていって、つらいことも苦しいこともある。
でも、それでもわずかでもいいから、生きてきてよかったといえるほうが、よりずっと前向きでありそれこそが神さまに喜ばれることだと思う。

一日を終えるときに「よかったね」と感じられるものを思い出せるように。