「あらゆることを喜べるように」2017/05/26 22:52:14

「ニューヨークの物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている作者不詳の詩」というのを知った。

-----ここから詩 開始-----

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、
権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

-----ここで詩 終わり-----

なるほどなあ。

ちょっと横にずれる。
わたしはクリスチャンでもあり、ろう者でもある。
日本の全人口数にしめるクリスチャン数は年々減少傾向にあって200万人とも。一方、中途難聴、ろう者を含む聴覚障がい者数は600万人だと以前聞いたことがある。

みんながみんな強じんなからだや健康が与えられるわけではない。
むしろこういうやっかいなからだを与えられたことは、この詩にあるように、健康を求めるのではなく、なにかわからないけど、大きなことができるようにやっかいなからだを与えられたということなのかもしれない。その「大きなこと」は「世の人々の賞賛を得」るものではなくて、「権力を求め」るものでもなく、「神の前にひざまずく」弱さからはじまるのかもしれない。こういうやっかいなからだであることで、「あらゆることを喜べるように」なれたらと思う。

今日も朝晩、おなかの内側からチクチク痛みを感じた。
それが、「あらゆることを喜べるように」つながればいいな。

雑感2017/05/22 21:41:02

キリスト信仰を持ったから自分が正しいとか自分の信仰が絶対であるとかいう思い上がりこそがまちがっている。
そしてそれはカルトであり、自分を神に等しい位置に置くことなのだ。自分が熱心なキリスト教徒であるならば、なおさら他宗教を信じる人はもちろんのこと、それらを尊重しそこに生きている人を尊重すること。

多様性多様な文化を受け入れられない人もいる。
もちろんそれにはそれなりの理由があろう。

けれども自分がよって立つところに強い確信を抱いているならば、同じように確信を持っている人のそれもまた尊重されるべきである。その相手が自分を攻撃したり否定しようとしない限りにおいて。

あくまでも自分が正しい、神にも等しいと言い張るところに問題があるのだ。

与えられたことに精いっぱいこたえていく2017/05/14 22:01:25

われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が人生の意味を問われているのであり、答える責任があるのだ。(ヴィクトル・フランクル)

キリストの教会にとって、最大の脅威は、偽善でも無関心でもヘタな説教でも不道徳でも弱い信仰でもなく、未成熟な信仰ではないだろうか。キリスト者の成熟とは、クリスチャン歴何年といったこととは関係がない。キリスト者の成熟とは、神のことばと神の霊に絶えず浸っているいのちが結ぶ実である。知識の量ではなく、成長しつつある識別力によって測られる。キリスト者の成熟のしるしは、有能であることや優れた賜物を持っていることではなく、謙遜さと清い愛である。キリストにあって成熟していく秘訣は、どれだけ多くのクリスチャン的な活動をするかではなく、キリストに信頼していかに自らを委ねていくかにある。(あるクリスチャンサイトから)

このブログを読んでくださる方の中にはクリスチャンではない方もいらっしゃる。
信仰の押しつけととられては不本意だけれど、思いをつづりたい。

わたしはどこに行っても普通に話せる者だ。そして手話と音声・書き言葉の両方で日本語ができコミュニケーションができる。
少数者としてのややこしい立場であり、がん患者になった。
そのことが、ようやく、フランクルの言うところの「人生の意味を問われているのであり、答える責任」を自分のこととして意識させられる。
次に、キリスト者として、自分の正しさやクリスチャン的な活動ではなく、自分が少数者であり、「人生の意味を問われているのであり、答える責任」ゆえにこそ、キリストに信頼をおく、委ねていくこと。

キリスト者であるということはそれだけでも日本では少数者である。さらにろう者で話せて、がん患者。
きついけれどこの与えられたことに精いっぱいこたえていく。それがわたしの生きる使命なのかもしれない。

ノストラダムスブームを経験した苦い思い出2017/05/09 23:38:14

中学時代のころ、『ノストラダムスの大予言』シリーズを熱心に読んでいた時期があった。

「世界の終わりが来る来る」って大騒ぎしていかにも、自分が世界のすべてを知っていたかのような、壮大な思い上がりに浸っていた経験だった。幼稚だったともいえるし、背伸びしていたともいえるし。

1999の7の月が終わっても21世紀のいま、わたしはがんになっても生きている。がんはさておくとして、あまり世界の終わりだとかキリストが再臨するとか空中でキリストと会うとか、未確認生物だとかUFO発見だとか、いかにもそれくさい話には飛びつかないことにしている。

① 9・11はアメリカ政府の自作自演だ
② 3・11東日本大震災は地震兵器が起こした
③ アポロ11号は本当は月に行っていない

いまでもネット内外でこういうことを平気でいう人がいるらしい。

そしてこういう陰謀論だとか、いかにも知っていると言わんばかりのことを真顔で言う人ほど、疑うことを知らないしない確かめようとしない。だまされていることに気づかない。疑うことは悪いことなんだと思い込んでしまう。
はっきり言ってしまうとカルト宗教と同じである。物事を見る態度姿勢がそっくり同じということが言える。

信仰もそう。幼稚な未熟な思い上がりのようなところから、もっと成熟したものへたどりつきたい。それこそが大事であり賢明な姿勢だから。

いま一度立ち止まって考えてみる2017/05/07 23:05:08

キリスト者となって30年あまりになる。
念願であった同じクリスチャンの妻を迎えることができた。それはいいのだけど、はたと立ち止まって考えてしまう。

「わたしたちははたして他者からどう見られているのだろうか?」

よく日本人は海外に出ると「日本人らしさとは何か」を考えすぎてしまうとか、外国人からどう見られているかということを極端に、いい意味でも悪い意味でもとらえてしまいやすい。
それはまた別の機会にゆずるとして、日本社会でキリスト者はこの30年、全人口の1%前後と言われ続けている。少子高齢化が進んでいるいま、爆発的な人口増加も難しいだろう。

クリスチャンとして考えなければならないことは多岐にわたるけど、一番考えなければならないことは、自分の姿勢を見つめることに欠けていないか、という内省というか自分を見つめることではないだろうか。
周囲への伝道、家族や両親への伝道ということを考えると、私はどうしても自分のやってきたことに疑問を抱く。つまるところ、クリスチャンではない人たち、キリストを知らない(いかにもこういう言い方をするところにごう慢さを感じるのだけど)人たちに対して自分は知っているんだ、神に知られているんだ、教えてやろう、というような思い込み思い上がりがないか?
そういう、外からの目に気づかない気づいていないまま、かたくなに自分の姿勢を他者に押しつけようとしていないか?

わたしはどうだろうか。
いま一度立ち止まって考えてみることも大事だろう。

汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか2017/01/12 22:26:19

やっぱり昨日の疲れはいかんともしがたく、今日は終日自宅で休養にあてた。

さて久々に聖書、それも旧約聖書をひらいてみた。ヨシュア記5:13~14。

エジプトを出て放浪するユダヤの民のひとり、ヨシュアという人物が書いたとされる文書であるが、5章13節からの記事は、エリコにいたときにヨシュアが聖なる所へと足を踏み入れてしまい、サンダルを脱ぐよう「主の軍の将軍」に命令されるという内容である。
だが、ヨシュアの前に立った人物は、抜き身の剣を持っていた。それをみたヨシュアはこう語った。「汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか」と。それに対して彼は「否我はエホバの軍旅の将としていま来たれるなり」と答えた。
ヨシュアが「お前は敵か味方か」と自分を基準、自分を中心に相手を峻別し、選別したのに対して、剣を持った男は、自分は「主の軍の将軍である」と答えたのだ。どういうことだろう。
わたしは思う。自分を中心に自分を基準に置くごう慢な思い上がりではなく、「わたしのための神」「わたしの」ではなく、まず初めに「神が」おられ、「神のためのわたし」であることに気づくべきだ思いをいたすべきだ。

そこで思い出すのは、現地時間で11日、メディアの前で大統領選挙後初めての記者会見を行った、ドナルド・トランプのことだ。
そこでは「中国やメキシコや日本がアメリカに敬意を示すようになるだろう」「わたしがアメリカを偉大な国にする」など、「わたしが」「わたしが」のオンパレードというか、自分がアメリカを復活させるのだといわんばかり。これだけアメリカを分断させたことや、多くの人に支持を受けたことへの感謝や謙虚さなどはまるで感じられなかった。そればかりではない。メディアを分けて、ゴミだのと名指ししただけではなく、質問を受け付けないという態度まで見せた。

尊敬も敬意も、自分から口にするものではない。
ふだんの振る舞いや言動や何気ない行動からにじみ出るものである。
その前日にお別れ演説を行ったバラク・オバマ大統領は、登壇するなり多くの聴衆から拍手で迎えられ、拍手をやめるようにうながしたあとで「ごらんなさい。わたしがレームダック(死に体)だということがおわかりでしょう? だれもわたしの言うことを聞かないから」とユーモアを込めて演説を始めたのと比較すれば一目瞭然であろう。政策のよしあしや評価はともかく、どちらが人物として尊敬できるかというものだ。

トランプに話を戻す。
まさに「汝は我等を助くるか、はた我等の敵を助くるか」という反知性主義思考、二元論思考であり、敵と味方を分ける、自分に意の沿わないものは敵だ、ゴミだという自分中心である。こういう人物が権力を持つとどうなるか。過去の歴史がいくつも証明している。
アメリカ大統領というのはCommander-in-Chief、アメリカ軍の最高司令官であり、たしかに強大な権力を持つ。だからこそ自分に課せられた権力や職務の重みを自覚しているべきなのだ。だがトランプにはそんな姿勢や考えがないのだろう。あくまでもビジネスであり自分が中心なのだろう。

これから先のアメリカそして世界がおもいやられる。

2つの説教(備忘録)2017/01/01 22:36:38

朝、浦安教会。夜、銀座教会で、それぞれ新年の礼拝に出た。順にまとめてみた。

「スプリングボード」(使徒言行録 28:30~31)
かねてから言われていることだが、ルカ福音書と使徒言行録はひとつながりの文書として理解すべきなのではないか。この2つの文書は冒頭、ローマの高官と言われるテオピロという人物に宛てたと両方の書き出しにある。さらには使徒言行録のみならず、4つの福音書で最初に書かれたとみられるマルコ福音書も、終わりしめくくり方が不自然なかたちだ。そこから考えられるのは、イエスの、そして弟子たち、教会の宣教伝道はいまだ完成していない。継続されているということ。もちろん聖書が書かれた2000年前と現代では時代背景も社会構造も文化もわたしたちの置かれた状況も、まったく異なる。しかし、聖書が語る救いのメッセージは基本的本質的に変わらない。わたしたちが置かれている状況や生きている社会がかわり異なっているのだ。スプリングボードというのは体操競技で跳び箱や鉄棒、平均台の前にある踏切台のこと。このいま置かれた状況、社会の中で、わたしなりにキリストを伝えあかししていこう。

「よろめかない」(詩篇37:23~40)
「何とかなるさ」という言葉がある。「ケ・セラ・セラ」とも。これらの言葉を世間一般では「自暴自棄」「無責任」というイメージ理解があるが、キリスト者キリスト教会ではそのような理解はしない。また、自分の力でなんとかしよう、がんばろうというのも信仰上、あまりよろしくない。詩篇に出てくる「よろめかない」という言葉は、頑なに、我を張る、頑なに気持ちを強く保つ、というのとは正反対の、柔和で従順な、主への信頼、倒れそうであるいは倒れてもそこで終わりではない。キリストが支え、手をとり、引っ張り、あるいは下から支えて下さる。

先月30日。
ベストセラーエッセー『置かれた場所で咲きなさい』などで知られたカトリックシスターの渡辺和子さんが亡くなられた。89歳だった。
昨日教文館に行ったとき、彼女の著作が置かれた一角を目にしたけど、まだ亡くなられたことを書店の方は存じないらしく、帰り際に亡くなられたこと、追悼コーナーを設けてはとお伝えした。
ろうで話せて(銀座教会で手話サポートをしてくださった姉妹からも「きれいに話せる」と言われた)がん患者であるわたし。
このことは正直つらいし、きついし、できれば捨てたい。しかし神が与えてくださったものならば、そこに意味があるのだろう。仕事もはーとふるも朗読もASLもギターも家庭や信仰生活も。わたしなりのかたちで、生から死へキリストをあかししていくものにしたい。がんになったことをスプリングボードとして、自分の力でなんとかしようとするのではなく、主に対するしなやかな信頼をもって。

渡辺和子さんが、主のみもとで安らかにおられますように。こころからお祈りいたします。

凡てのこと相働きて益となるを我らは知る2016/12/13 22:32:47

神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る  

新約聖書、ローマの信徒への手紙 8章28節。もちろん文語体である。

仕事を終えて明日から入院、そして今週中に手術を受けることになる。

できるなら避けたいものだと思うけど、避けられないのなら引き受けるしかない。
すべてのことが益、プラスになると確信しているから。

試練であり機会であり、貴重なものをもらえたということ2016/12/11 19:23:30

半世紀も生きてきたのだから、いろんなことがあった。
それでもなお、「え?」と思うことが起こる。

経過は長くなるのではしょるけれども、S状結腸がんという診断を得て、近々手術と入院を受けることになった。

大学時代の卒論がターミナルケアで、社会人になってしばらく、このテーマに関心をもち続けて関連書物を読んだり、聞こえないなりに講演会だとか先生のお話を聞いたりとかしてきた。
そしてン何十年かたって、今度はわたしががん患者になった。

何度も検査を重ねて医師から「がん」と診断を受けて妻と一緒にあらためて確認のため別の医師からもいわれて、納得している。
はじめて「がん」と聞いたときは正直、雲の上を飛んでいるかのようなふわふわした、それでいてどこか混乱した心境だった。もともとわたしはがんの告知に積極的な立場だったけど、実際に言われてみるとやはりショックは隠せなかった。いまは冷静に積極的に自分を見つめられる。
今日のはーとふるはんどのけいこ前にも、メンバーに報告して、入院手術、必ず戻ってくるから、とも伝えた。

クリスチャンとして。ろう者として。社会人として。夫として。

がん患者でありろう者であるということを前向きに受け止め、学生時代から考えたり学んだりしたことを、自分の身をもって構築し直したり深めたりする。
そういう試練であり機会であり、人生を大きく成長させてもらえる貴重なものをもらえたということに感謝しつつ。

がんに負けずに、生きていきたい。

相田みつをの書から学ぶこと感じること2016/12/10 23:18:21

休日の一日を妻と、東京国際フォーラムまで行って「相田みつを記念館
」でひらかれている展示会を見てきた。

クリスチャンであるわたしと妻だが、禅にひかれていたという相田さんの信仰はともかく、思想や書に、わたしは信仰の違いこそあれ、共感できる部分を抱いている。

自分が正しいとか優れているとか、人の賞賛を求めるとかいったことを持ち出すからかえって窮屈なモノに成り下がってしまっているのではないか。
シンプル単純に、クリスチャンとしてはキリストを信じていく、罪あるものであるわたしをゆるされた。だから異なる立場であっても他人をまた神の前に自然体で平等に接していくこと。それがわたしのできることだ。

なかなか思いがあってもそのようにはできない弱さと矛盾をもっている。
だからできません、ではなくて、できないことのようだけど、祈り求めていくほかないのではないか。

シンプルに単純に。