補聴器の修理、子どもたちを相手に絵本の読み聞かせ2017/05/20 22:44:08

午前中に新宿へ、補聴器の点検のため行ってきた。昨年のがん入院まえから補聴器のハウリングがみられるようになり、手術退院でやせたためにイヤモールドの耳穴が合わなくなったからではないかと思ったためだ。1時間ほどかけてみていただいた結果は、イヤモールドの切削はせず、本体の設定を変えて本体とイヤモールドを結ぶチューブを交換しただけだった。

午後から立川へ。
はーとふるはんどのメンバーが参加している、同市内の子どもを対象にした、絵本読み聞かせの会の見学が目的だった。

初めて行くところだったから遅れるわけには行かない、と市内のインドカレー店でランチをすませてタブレットの地図を頼りに歩くこと6分ほど。会の開始にまにあい、子どもたちと一緒に絵本を楽しんだ。

正直、音声を聞き取るのはきついのだけど、子どもが楽しそうに集中しているのをみてこちらも楽しい。
わたしだったらこういうふうにやってみたいとか読んでみたいとかいろんな思いをいだきながら、またの見学のときを楽しみに、夜の手話サークルへ移動した。

そろそろこちらも朗読台本の作成にとりかかる。

「第12回コスモス朗読会」台本候補を読んでいます2017/05/06 22:41:30

今日は「朗読のレッスン」と、終わってから手話サークルで教えてくださっている手話通訳士から手話の個人レッスンを受けました。例文表現では、わたしが実生活で経験したことも使われていて、妻ともども、例文を見て( ̄∀ ̄)笑ってしまった。もちろん笑うだけではなく、手話表現上のポイントもあり、なるほど、と感じるものがあったのはいうまでもない。

今年9月30日に開催予定の「第12回コスモス朗読会」台本を来月中に完成させるため。いま鋭意どこを読むか、何度も読み返しながら絞っている最中。読んでいてジーンとこころにしみてくるところばかりだ。
先月からいろいろああでもないこうでもないと、書店に入っては手当たり次第に新刊小説を立ち読みしたりしてみたが、ピンとくる、読みたいなと琴線に触れるようなものがなかったため、ゆっくり気長に待ちましょう、としていたところに、「おっ」という作品を見つけた。
来月中に朗読クラスの講師、手話通訳士それぞれに台本を提出するがどんな作品を読むかはまだナイショ(笑)。

来月中にはここでも発表できると思う。

「コスモス朗読会」の日時はまた詳細がわかり次第、ここなどでお知らせご案内します。今年も多くの方に、ろう者難聴者手話がわかる方にも来ていただきたく思います。

デリカシーとは、小さなやさしさのことだ2017/03/18 23:46:00

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ううむ、まだまだ腹痛が治らない。

さて今日は朗読のレッスン、2016年度最終日。テキストは奥田英朗著「ワーキングマザー」(集英社文庫『ガール』所収)。

発表会はいつものように、からだの向きを変えたり声のトーンや台本を読むときに間をとったり、いろいろ工夫してみた。聴こえる人と同じにはできない耳が聞こえないぶん、違うところでいろいろやっていかないと。

この作品のなかにこういうくだりがある。
「弱い側はささいなことで傷つく。弱者救済を声高に叫ぶつもりはなくても、気づいてくれるとうれしい。デリカシーとは、小さなやさしさのことだ」
「子育てしてるとね、ときどき、こっちは大役を果たしてるんだっていう傲慢な気持ちになるの。ベビーカーを押してそのへんを歩いている主婦がそうでしょ。守られて当然って顔をしているのが大勢いる」

発表会の前週、つまり今月4日のことだ。
このくだりをきっかけに、講師から、受講生を前に、わたしの耳のこと、実際の耳の聞こえ具合、補聴器をつけた時と外した時の違い、がんになったあとのこと、ヘルプカードをつけて街を歩くようになってからのこと。いろいろわたしは質問を受けた。そのひとつひとつに丁寧に答えていくなかで、あるテーマが出た。つまり弱者救済のようでいて実は傲慢な社会、ということだった。

わたしもヘルプカードをつけているけど、これみよがしになにかしてもらいたいとは思わない。守られて当然という顔をするのもいやだ。しかし現実には、ヘルプカードを見ても気に留めないどころかなんの反応もしない人までいる。
「ワーキングマザー」はバツイチで子どもを育てている女性社員と、独身女性の仕事上の対立を描いているようでいて、立場は違っていても合わせ鏡のような、女性の置かれた状況、さらには独身既婚子どもいるなしに関係なく、お互いへの思いやりということの大切さを描いている。

結婚して女性の大変さを感じるとともに女性同士の怖さも妻から教えてもらったこともある。
同じようにろうであり話せてがん患者であるからこそ、守られて当然って顔をしないように気をつけつつ、弱者であることを伝えていく、弱者でも生きる価値生きる意味があることを、いろんな活動を通して伝えていく。朗読もその一つ。

難しい問題であるけど、挑戦しないことには風穴はあかないだけでなく、あとに続く人たちの道もひらけない。
弱者だからこそ小さなやさしさを忘れずに生きていきたいと思う。

やりとり部分を入れ替えて読んでみる2016/11/19 22:36:08

朗読のレッスン、2016年最後のテキストは、清水義範氏の『苦労判官大変記』。

この人らしい皮肉のきいた文章、と評価されているように、読んでいてニヤリとさせされる部分が多い。
昔わたしが小学校のころによく見た、源頼朝の画像。冠をかぶりひげをたくわえた精悍な男の画像。近年の研究では、どうも源頼朝本人ではないのではないか、という学説があるらしい。

頼朝、尊氏、信玄 肖像画が別人だった理由を教科書会社解説
http://www.news-postseven.com/archives/20141123_285285.html

『苦労判官大変記』は、頼朝の弟、義経は本物ではなく、武蔵坊弁慶が京都にいた、名も知られぬあるチンピラをつかまえて偽物、偽義経に仕立てた。仕立てた武蔵坊弁慶が、実は義経本人だった、という小説。
実際、弁慶についていろいろ言われている話は『義経記』を中心とした後世の物語を基にしたもので、史実の弁慶についてははっきりしない部分があるようで、実在を疑う意見もあるとも。

そんなこんなは横において。
義経(偽義経)と弁慶(実は義経)のやりとり部分を、2人で交互に入れ替えて読んでみるとまたおもしろい。
掛け合いの妙であったり、感情の出し入れ、間合いであったり強弱であったり。
こういう読み方もおもしろいものだとあらためて感じたのだった。

お越しくださいましたみなさん、ほんとうにありがとうございました!2016/10/01 23:07:04

2016年10月1日、下北沢の「しもきた空間リバティ」で第11回となる、コスモス朗読会がひらかれました。
わたしは大トリとなる一番最後の演技。いもとようこ作『かぜのでんわ』を。

次に演じる人がいないというのは、ある意味プレッシャーがかかります。第1部からずーっといい流れで来ていたのが、最後の最後でなにかあったらすべて台無しになりかねない。一方でわたしのあとにやる人がいないのは時間など気にせずに思いっきりやれるということでもあります。

前々回から、舞台演者と作品紹介を舞台出演者が担当することになり、わたしの担当を別の方がアナウンスしてくださいました。
おぼろげにかすかに聞こえてくるそのアナウンスを聞きながら、わたしはいろんな思いが去来しました。

熊本震災直前にこの作品を読むと決めてからおよそ9カ月。
どうにか終えることができて、ホッとすると同時に次回もまた楽しんでもらえるものを、と思っています。

お越しくださいましたみなさん、ほんとうにありがとうございました!

とてもやりきれない。2016/07/15 23:33:54

いつもよりちょっと早いかな。仕事を終えて今年10月1日にひらかれる第11回コスモス朗読会のテキスト「かぜのでんわ」(いもとようこ作)の手話訳ができあがった。
とはいえ、これでもう終わったわけではなく、できあがった手話表現を何度もビデオで見たり修正したりしてよりよく仕上げていかなくてはならない。

けさ飛び込んできた、フランス南部・ニースで起きたトラック突入事件は、テロ事件の可能性が高い。子どもを含む84人が亡くなったという。

あまりにも悲しい。事件を起こした人物は射殺された。
事件にあった人たちは、生きたかっただろう。こんなかたちで人生を終えるとは思っていなかっただろう。
とてもやりきれない。

「かぜのでんわ」の物語をあらためて考えながら読み手話で表したい。

第11回コスモス朗読会の台本2016/04/16 23:46:29

今日は朗読のレッスン日。
レッスン後、先生にお預けしていた、聞き取り用マイクを受け取りに行って先生から「今回あなたが選んだテキスト選択はとてもいいね」と、おほめをいただいた。
2週間前に、今年10月1日に予定されている、第11回コスモス朗読会の台本を提出した、そのことについてのお話だった。

今回選んだ作品は、わたしにとっては初めての、絵本である。

「かぜのでんわ」 (金の星社刊 いもとようこ 作・絵)。
岩手県大槌町にある「風の電話」。この電話には、実は線はつながっていない。しかし、この電話の受話器をとって電話をかける人がいる。それはどうしてだろう……。

連載「風の電話をたどって」
http://www.asahi.com/topics/word/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%A6.html

ベルガーディア鯨山
http://www4.plala.or.jp/bell-gardia/

14日の震災発生から2日がたった。けさも大地震があってさらに犠牲者が増え、被害も大きくなってきた。
大切な家族、愛する人を失った悲しみはとても大きく、簡単に消えるものではない。
5年前の震災もそうだし、今回も、ほんとうに胸が張り裂けんばかりの痛み悲しみを感じる。
だからこそ、少しでも悲しみをいやすというより、いやされるというより、悲しみの中でも少しずつゆっくり、ゆっくり、こころの復興につながっていったら。

そんな思いでこのテキストを選択した。
来月から5カ月、手話訳と舞台表現に取り組んでいく。

今も昔も変わらないはずの魅力2015/11/12 23:43:03

図書館ってなんだろうねえ。
わたしは子どものころから本を読むのが好きでいまも、たくさん本を読みたいと思うくらいだ。
もう亡くなった、軍事評論家だった伊藤正徳さんの第2次世界大戦の記録や、偉人の伝記物などを図書館でよく借りたものだ。
何が楽しみかというと、蔵書の見返し部分に、借りた日付をスタンプしてあると、日付がたくさんある本ほど多くの人に読まれているんだなあという思いと、わたしもまたさらに多くの本を読みたいとますます意欲をかきたてられた。

いまは本だけではなく電子図書やパソコンで閲覧できるなど、昔とは様変わりしてきた。
新しい部分があってもいいし、時代にあったものでなくてはならないとおもうけれど、時代がどんなに変わっていったとしても、そこに行けば知識がえらえる、いろんな視野で学べる、という魅力は変わらないはず。変わって欲しくない。

はじめての手話通訳つき『三浦綾子読書会』2015/06/07 20:42:22

http://yotei.miura-ayako.com/?cid=3
6月6日(土) お茶の水クリスチャンセンター4階ナビゲーター集会室
/090-6226-9102または メール(長谷川)/ 無料(自由献金)
東京手話 10:30~12:30/「氷点」/ 長谷川

昨日、朗読のミニ発表会の前に、お茶の水にあるクリスチャンセンターで、『三浦綾子読書会』がひらかれた。
ただしこれはいままでの形式とは違う。「東京手話」とあるように、聴こえない人、ろう者むけに手話通訳をつけて、講師である長谷川与志充先生(東京JCF&所沢ミレニアムチャーチ牧師)が語り、手話通訳を介して学ぶ、というものだった。

いままでにも私は妻と一緒にこの読書会に参加したことが何度もあるし、独身時代には朗読部門にも参加したことがある。講師だったプロアナウンサーから「聞こえないのにうまい読み方をするね」とおほめをいただいた。彼女とはそれ以後お会いしていないが、「朗読のレッスン」のプロアナウンサー講師はよく存じている、という。
が、読書会では講師の話はやっぱり聞こえない。隣に座っている人の書き込みをのぞきながらやっとどうにか内容を把握できた。そんなこともあって、長谷川先生に相談したところ、「じゃ手話通訳をつけてみましょうか」というご提案があり、今回のこころみにつながった。

はじめての手話通訳つき読書会は、わたしを含めてろう者が3名、聴者で手話がわかる方が2名、手話がわからない聴者が1名、通訳2名と講師、計9名ですすめられた。

難しいのは、進行だった。
講師が語り、通訳が手話で通訳するわけだが、慣れている人なら、レジュメを読みながら、いったん止めるとか通訳者が合わせやすいようにするなど、工夫ができる。けれど今回は初めての試みで、講師もどうすすめていいかわからない。手話通訳者との息も合っているとは言えず、なかなか難しいものだった。
わたしたち聞こえない側に立ってみると、手話を読み取りながらレジュメプリントを同時に読むのはとても骨が折れる。いま語られているところがどこであるのか、たとえばレジュメを手渡し用とは別に、スクリーン投影にして示していく方法もあり、かもしれない。

だが決してこの試みはむだでも、やる意味がないというのでもない。
ろう者は生活の中で、本を読む習慣経験が少ない人が多い。
けれどだからといってろう者は文学と親しむ必要がないと、決めつけるのはよくない。
むしろこういう機会を通して、聴者ろう者が交流する、手話で情報を伝え、三浦文学を知る機会になれば。

聴者、ろう者、講師先生、みんなで力を合わせて手話通訳つき『三浦綾子読書会』を育てていきたい。

既視感ノスタルジーをおぼえた2015/04/18 23:27:34

「朗読のレッスン」、2015年度4月期は重松清さんの『オニババと三人の盗賊』(文春文庫「季節風 秋」所収)。

とある街の、「馬場文具店」の店主、人呼んで「オニババ」。
かつては近くの城北小学校ご用達文房具店だったが、近くに出来たショッピングセンター内の文具店にお客を奪われるなど、商売は下り坂。老体にむち打ってはいるが、息子から3世帯同居を勧められ、店も閉めたらどうだと言われるのに不機嫌きわまりない。

そんなある日、3人の少年が、毎年夏の終わりにひらいている、花火の在庫一掃セールの商品を万引きした。とっつかまえてひっぱたいて警察に突き出したい。怒りでふるえるが、突然足に痛みがはしり、倒れてしまう。一度は逃げ出した少年3人だが、文具店に戻って万引きの理由を話す。
そこから話は意外な方向にすすんでいく……。

と、このさきは本を読んでいただくとして。

読んでみると懐かしいなあ、こういう少年、わたしが子どものころにはよくみかけたような、いやわたしもそのひとりだったかもしれない、という既視感ノスタルジーをおぼえた。
レッスンの合間に考えてみたら、「ズッコケ3人組」といった少年小説だったか、こういう、どこか憎めない少年たちが昔はあたりまえだった。

いまは、と言いたいところだけどやめておこう。あまりにも時代が違いすぎるし、いまの子供たちが置かれている状況はとてもそんなのどかなものとはほど遠い。

だからこそなんだろう。こういう小説に懐かしさをおぼえるのは。

肝心の、わたしのコスモス朗読会に向けた取り組みだが、これを読んでみたいという案ができてきた。
あす以降、時間を見つけて台本づくりにとりかかろうと思う。
手話通訳士先生や「朗読のレッスン」の講師のご意見をいただいてから、手話訳や、わたしの朗読舞台構成などもはじめたい。