2つの説教(備忘録)2017/01/01 22:36:38

朝、浦安教会。夜、銀座教会で、それぞれ新年の礼拝に出た。順にまとめてみた。

「スプリングボード」(使徒言行録 28:30~31)
かねてから言われていることだが、ルカ福音書と使徒言行録はひとつながりの文書として理解すべきなのではないか。この2つの文書は冒頭、ローマの高官と言われるテオピロという人物に宛てたと両方の書き出しにある。さらには使徒言行録のみならず、4つの福音書で最初に書かれたとみられるマルコ福音書も、終わりしめくくり方が不自然なかたちだ。そこから考えられるのは、イエスの、そして弟子たち、教会の宣教伝道はいまだ完成していない。継続されているということ。もちろん聖書が書かれた2000年前と現代では時代背景も社会構造も文化もわたしたちの置かれた状況も、まったく異なる。しかし、聖書が語る救いのメッセージは基本的本質的に変わらない。わたしたちが置かれている状況や生きている社会がかわり異なっているのだ。スプリングボードというのは体操競技で跳び箱や鉄棒、平均台の前にある踏切台のこと。このいま置かれた状況、社会の中で、わたしなりにキリストを伝えあかししていこう。

「よろめかない」(詩篇37:23~40)
「何とかなるさ」という言葉がある。「ケ・セラ・セラ」とも。これらの言葉を世間一般では「自暴自棄」「無責任」というイメージ理解があるが、キリスト者キリスト教会ではそのような理解はしない。また、自分の力でなんとかしよう、がんばろうというのも信仰上、あまりよろしくない。詩篇に出てくる「よろめかない」という言葉は、頑なに、我を張る、頑なに気持ちを強く保つ、というのとは正反対の、柔和で従順な、主への信頼、倒れそうであるいは倒れてもそこで終わりではない。キリストが支え、手をとり、引っ張り、あるいは下から支えて下さる。

先月30日。
ベストセラーエッセー『置かれた場所で咲きなさい』などで知られたカトリックシスターの渡辺和子さんが亡くなられた。89歳だった。
昨日教文館に行ったとき、彼女の著作が置かれた一角を目にしたけど、まだ亡くなられたことを書店の方は存じないらしく、帰り際に亡くなられたこと、追悼コーナーを設けてはとお伝えした。
ろうで話せて(銀座教会で手話サポートをしてくださった姉妹からも「きれいに話せる」と言われた)がん患者であるわたし。
このことは正直つらいし、きついし、できれば捨てたい。しかし神が与えてくださったものならば、そこに意味があるのだろう。仕事もはーとふるも朗読もASLもギターも家庭や信仰生活も。わたしなりのかたちで、生から死へキリストをあかししていくものにしたい。がんになったことをスプリングボードとして、自分の力でなんとかしようとするのではなく、主に対するしなやかな信頼をもって。

渡辺和子さんが、主のみもとで安らかにおられますように。こころからお祈りいたします。

コメント

_ 井出静江 ― 2017/01/04 17:18:09

新木君、ガンなの?久々にサイト見てびっくりしてます。

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