神のなさることは2009/08/07 23:24:54

朝方、日中と暑いくらいだと思っていたら、夕方に突然降雨があったり、わたしは知らなかったのだが雷が鳴ったりしたそうだ。
いったい、ホントに梅雨明けなのかね?

手話つき朗読舞台『塩狩峠』レッスン。残すところ今日を終えてあと3回である。
まず回想場面まで、これまで教わりつくってきた手話表現をあたまからやってみた。
おおむね手話には問題がないけれど、からだを動かすとともに手話、手も動いてしまう。手を動かすのは手話だから当然だけれど、必要以上に手が動く。言い換えるならからだが動きすぎるために手も動きすぎる。そのためには、「。」で終わる文まではからだを動かしすぎない、場面転換に合わせてメリハリをつけること。

そして今日は最後の、事故現場を訪れた、信夫の婚約者だったふじ子と、ふじ子の兄であり信夫の親友である吉川の回想場面にとりくんだ。

ここは信夫は出てこないが、吉川とふじ子が出てくる。基本的に右手と左手で登場人物の表現を使い分けるのだが、両手が離れ過ぎているためにかえって読み取りにくいのだという。肩幅くらいでちょうどいい。
「不具」。三浦さんの原作にもきちんとそう書いてあるが、手話表現は「障がい者になって」とあらためてみる。差別語ではないが、時代背景からそういう表現にならざるを得なかった作者の意図を尊重しつつ、手話ではできるだけわかりやすくしてみた。

終わってからいつものように居酒屋へ移動して、いろいろ世間話や身上話などを交わした。お酒がのめないわたしだが今日はいつも以上に楽しい会話ができたと思う。
テキストのモチーフとなっている、ヨハネ福音書12章24節とキリスト教の、ひいては『塩狩峠』のメッセージである、愛と犠牲、愛するとはということについて、など思いを話すことができた。
とはいえ、自分の信仰や思いを絶対化したり、他者を見下したりすることはあってはならない。

「神のなさることは常にその人のためによいこと」
いまこうして25年前に読んだ小説を手話で読むことができる。
25年たってはじめて、キリスト教の、ひいては『塩狩峠』のメッセージをつかむことができた。
この恵みに、こころから感謝。