人生で大きな機会2009/08/22 23:08:18

ドレスデンの聖フラウエン教会礼拝堂
いよいよ、朗読の舞台まで1カ月を切った。来週土曜日ごろにはおそらく、舞台の出番、出演順が決まるのではないだろうかと思う。

レッスンも佳境に入り、手話訳が完全に出来上がるとともに手の位置や表現など、細かい修正をすすめながら、自宅でDVDカメラに録画したものを手話通訳士とともにチェックしている。

練習とレッスン後に場所を移して居酒屋で会話を交わすのだが、レッスンとまた違って楽しいひとときである。
今回の『塩狩峠』はプロテスタント作家の故三浦綾子さんが、1965年に発表された作品である。
わたしは大学1年生のときに札幌北光教会で洗礼を受けた。
高校から大学がミッションスクールということでキリスト教との接点があったわけだけれど、家族がクリスチャンではないために、洗礼を受けるまではもめたこともあった。
そのへんのいきさつや、カトリックとプロテスタントの違い、キリスト者としての信仰理解、『塩狩峠』の底流に流れる「犠牲と愛」、なぜ自分のいのちを捨ててまで他者の犠牲となるのか、他者の犠牲になるほどの愛とは? わたしの信仰を他者に押し付けてはいけないだけではなく、自分の信仰を優位に、上から目線で語ってはいけないけれども、25年かかってそれなりにたどりついた自分の思いや考えを、酒の場を借りてお話しした。

あらためて感じるのは、自分の正しさではなく、信仰がすぐれていることでもなく、謙虚に、目指すべき目標に向かってこれからも歩き続けたい、ということだ。
自分にできるかどうかはわからないけれども25年たって、「犠牲と愛」という『塩狩峠』の底流に流れる大きなテーマをこころから受け入れられ、キリストこそわたしの救い主であると信じることができた、ということ。
まさに手話つき朗読舞台『塩狩峠』への取り組みが、人生で得た大きな機会であり、自分が変わる機会でもあるということだ。

変わったということを証明する機会ではない。舞台上で全力を尽くすことはいうまでもないが、自分を宣伝したり主張したりすることが舞台の目標ではない。
あくまでもそれらは神さまが示して下さる。二次的三次的なものだ。

神さまのため、ついでわたしの大切な人のため、仲間や友人のために、わたしは舞台に立つ。