基本に立ち返って2015/05/17 22:45:49

昨年から浦安教会青年会として『福音の再発見』The king Jesus Gospel The Original Good News Revisited Scot McKnight(スコット・マクナイト著 中村佐知訳 キリスト新聞社)を読んでいる。はじめは教会に来ていた神学生といっしょに、今年はわたしと牧師だけの学びになってしまった。そもそももうわたしも50歳になろうとしているのに、青年会とはこれいかに? という思いなのだが、まあそれは横に置いておくとして。

たしかに難解なところはあるし、イラストも絵も写真もないからとっつきにくい印象をもたれるかもしれない。
けれど読んでいて、いまのキリスト教会が直面している問題、もっとはっきりいえば、プロテスタントクリスチャンの信仰が変質してしまっているのはなぜか、ということを考えさせられる。
つまり福音とはなにか、福音といいながら、個人的な救い、個の救いということに変質してしまっているのはなぜか? ということだ。

昨年春から読み続けてきて得心がいったのは、

① 旧約聖書を学んでいないこと。新約聖書だけでキリスト教信仰が完結してしまっていると思い込んでいる。新約が成立する前、もっとわかりやすく言ってしまうなら、イエスがなぜ宣教されたのか、その根底にある旧約聖書を学んでいない。

② 福音が「個人的な救い」にすりかわってしまった。これは旧約にしろ新約にしろ、聖書を読むときの基本である、「文脈や時代背景を考えて読む」ことより、霊的に示されたこと、自分に指し示されたこと、という、一見分かりやすいようでいてその実、独りよがりだったりその場その場の都合の良いかたちで聖書をつまみ食いしたりしてしまうから、福音がすりかわってしまったのだ。あくまでも聖書は誤りがない。だが読む側に誤りがあったり、誤った考えで読んでしまったら、本来の意味とは大きく外れてしまいかねない。

わたしは30年以上教会に通い続けているけど、いまもまだよくわからないところがある。しかしだからといって人間の目で都合よく聖書を読みたいとは思わない。信仰は自分に引き寄せすぎて読むと、かえってつまみ食いや独りよがりになってしまう。
あくまでもそのような姿勢を排除し、文脈や時代背景を考えて読むこと。教会に連なるにしても、そういう姿勢で、人間中心的、個の救いを重んじるようなところにはかかわりたくない。

夜、先日の福井旅行中に故障がわかったミニノートパソコンをメーカーに引き取ってもらうためにゆうパックで送った。
代わりに私用スマホを解約してタブレットに替えようかと思案中。
近くにあるメガネ店で聴力検査をしてもらって、やはり左右とも100デシベルオーバーのろうに近いわたしに合う補聴器を調べてもらった。
いまはずいぶん高機能なものが増えた。アプリをダウンロードして、スマホと組み合わせて幅広い音が聞こえるものもあるらしい。

ゆっくり思案していこう。

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