ごう慢さにつながる誇るような言い方をしないように2015/05/04 20:41:38

高村真理子さんの訃報を聞いたのは、2006年のこの日。
9回目のこの日、神戸の国際会議場で妻と一緒にペンテコステの「おかえりなさいジャパンギャザリング」という集会に出た。
 
ペンテコステ教会についてはいろいろ思うことがあるが、わたしたちリベラル派も含めて、気をつけなくてはと思うのは、自分たちの信仰、ひいては自分たちがキリスト者であるということから、他者、異なる立場の人たちに対してえてしてごう慢、上から目線になりがちだということだ。

たとえば「赦し」ということをあげてみよう。
家族でも他人でも、気に入らないとか怒っているとか、いろいろ不満があったりするだろう。
そのとき、怒っている相手に対して、「キリスト(のゆるしを)知らないから」「キリストに救われていないから」という言い方で、怒っているその人はキリストの赦しを知らない、罪深い人だという言い方をすることがある。

しかしわたしはキリスト教信仰のあるなしが問題だとは思わない。もちろんキリストの十字架を知っているわたしたちは、他者に対して赦しなさいと言える。キリストが他者をお赦しになられたのだからと。

だからといって相手を赦していない他者に、信仰を持ちなさいというのは、わたしたちのごう慢さであると思う。

わたしたちもまた、洗礼を受けたから赦されて完ぺきな人間になったわけではなく、生きている限りは未熟なままなのだ。 
あたかも信仰を持ったから他者より優れているとか、信仰を持たない人は劣っているのだというような言い方をするのは、自分を上に置いている言い方である。自分が神であるかのようなごう慢さにつながる。

わたしはこういう言い方にはとても抵抗感がある。とくにペンテコステの人たちがよくこういう言い方をするのを聞いていて違和感が隠せない。
善意であっても、他者に対してはこういう言い方で、信仰があるからと自分を偉い、誇るような言い方をしないように戒めたい。