キリストを信じるということはオカルトじみたことを言い出すことではない その②2015/05/25 19:25:42

わたしが礼拝で愛用している文語体聖書
前回の続きを。

かくいうわたしも、ノストラダムスの大予言なるものを真顔で信じていた過去があるゆえに、偉そうなことは言えない。言えないが、愚かな経験をしたと思っているからこそ、こういった謀略論に対して冷静に疑問を抱けるのだ。

キリストを信じるということは謀略だのこの世の終わりの策略だのとオカルトじみたことを言い出すことではないはずである。
恥ずかしい消したい記憶であるけど、ノストラダムスの大予言なるものを真顔で信じていたころのことを思い出す。
ふりかえってみれば、ああいう予言なるものを信じて、世の中を変えようとかなにかしようとか思っていたのだろう。子どもであったけれどそれなりに世の中への疑問や、どうにかしようという使命感を抱いていたのは間違いない。しかし、それを正しく用いるだけの力がなかったし、それ以前に、世の中をヘンに斜めに見ていたふしがある。シニカルといえば聞こえがいいけれど、実際は独りよがりな、前のめりになっているだけ。自分たちだけが救われるのだという傲慢さである。そしてその独りよがりさゆえに、社会活動、この世地上での生活活動をなおざりにしてしまいかねないこわさがある。

なによりもオカルトよりもキリストの救い、神がいかなる状況においても、たとえあす世界が終わりを告げるだろうとしても、わたしたちを導いてくださる、主にゆだねて、いまという一瞬一瞬を精いっぱい生きる生ききるということをする、そこにこそ真の生きる道がある。それが信仰であり宗教の示すべき道なのだけど。

謀略論や陰謀論を主張する人たちは、聖書を引用しているけれども、それは聖書のつまみ食い、都合いい解釈をしている読み方であって、基本としての聖書の読み方ではない。
時代背景も人物も状況も、2000年以上前と現代とでは全く異なるのに、それを見ないで書かれていることだけを取り上げて、自分たちの考えに当てはめてしまう。それは基本としての聖書の読み方ではない。文脈や時代背景をも含めて全体から読むのが基本であるからだ。
基本に基づいていないから、書かれたことの因果関係や過剰な意図の読み込みをしてしまい、自分たちの思いに合っているかいないかだけで判断してしまう。
それはさらに突き詰めれば、非常に単純でわかりやすい。わかりやすいから広めたくなる。わかりやすさは疑うことをしない。疑わないから、疑いを排除してしまい、冷静さを欠いた思考に陥ってしまう。独りよがりのスパイラルである。

結局は、基本を欠いた独りよがりなものでしかない、ということだ。
先日のここに書いた、「基本を見直すということが大事」という言葉をかみしめたい。見直すということは立ち返るということでもある。
あくまでも神に立ち返ること、人間の都合よくつまみ食いするのではなく。