自戒していかなくてはならない。信仰があるからこそなお!2015/06/01 23:35:33

クリスチャンがよくやらかす失敗、というのがある。
これはすべてのクリスチャンに知っておいてほしい知っておくべきことだと思うのだが、日本にキリスト教がなかなか広まらないのは、文化の違いということもあるけれど、それ以上に、上から目線で「導いてやろう」「悪いところを直してやろう」ということを、敏感に感じさせるからなのかもしれない。そこが、嫌われる原因かもしれない。いくら神の導きだとしても、わたしたちもまた神のもとに罪あるものなのだから、たとえ信仰で罪赦されたものとされたとしても、ごう慢さが出てしまいかねない。
こちらにその気がないとしても、牧師や信徒の言葉の端々、言動に、そういうところを感じさせてしまうから、聖書に親しみを抱いてもそこからさき、教会に行くというにはならないのかもしれない。

今年に入って関西から関東の16都府県48寺・神社に油がまかれる事件があった。なかには国宝や重要文化財も含まれている。
けさ、新聞朝刊やインターネットニュースで、キリスト教系だと標ぼうしている宗教団体の牧師という、在米の医師がこの事件に関わっているとして建造物損壊容疑で逮捕状が出されていることがわかった。午後にはこの宗教団体についてもネット内外で明らかになった。

油をまいた牧師と自称している男性は「日本の人たちを救うため」「日本の寺社を油で清め、日本人の心を古い慣習から解放する」などと語っているそうだ。それを「霊の戦い」だと言っている。
だが、これは明らかにごう慢以外のなにものでもない。自分たちが優れている正しい、だから日本の人たちの古い慣習から救うのだ、神がわたしたちに命じておられるのだ、という、自分の主張を神と同じレベルにおいているという点で、思い上がりでしかない。ひらたく言ってしまうなら、イスラム国が世界遺産を破壊しているのと同じ論理である。

わたしもキリスト者として30年生きてきた。
30年生きてきたからといって自分がえらいとか優れているとかなどとは一度も思ったことはないし、口にも出したことはない。むしろ本当の信仰の持ち主なら、自分を正しいなんて、まして古い慣習から解放するとはとても言えない。神の前に自分も、またこうべを垂れるべき存在であるとするしかないのだ。

この、寺社寺院に油がまかれる事件を知ったとき、どう考えてもこれは愉快犯ではなく、宗教がらみの確信をもった人物によるものだと思っていたが、まさにドンピシャ、である。
とても腹立たしいし、彼らがキリスト教を名乗るなら、こんな愚かな行為はとてもできないはずなのだが。
まったくごう慢としかいいようがないが、それもまた人間の愚かさである。
これはカトリックプロテスタント問わず、とくにプロテスタントにとっては自戒していかなくてはならない。

独りよがりにならないように2015/06/02 23:55:16

広島・長崎の原爆投下が日本の降伏、ひいては日本本土での米軍兵士の多数の犠牲を防いだ――。
これまでも言われ続けていたが、アメリカではいまなお、この「原爆神話」を主張する人がいる。

第2次世界大戦終結50年目、つまりわたしがアウシュビッツを訪れたその年、ワシントンDCのスミソニアン博物館で、原爆を広島に投下したB29「エノラ・ゲイ」を広島と長崎の被爆資料とともに展示するという企画に、退役軍人らが反対して企画そのものが中止になったという出来事があった。
あの戦争を生き抜いてきた、当時存命だった退役軍人らにとっては、第2次世界大戦は「よい戦争だった」と信じていた。それは彼らが戦争に赴いた意味づけ理由づけであり、それを否定することも否定されることも含めて許してしまうと、彼らが信じている「物語」が根底から崩れてしまうからだろう。だから、東京大空襲も含めて非戦闘員市民が多く犠牲になったことを正当化するために、彼らは「原爆神話」に固執し続けてきた。それは敗戦国である(わたしは個人的にも終戦という言葉が嫌いで、使いたくない。日本が負けたという事実ははっきりしており、終戦という言葉でごまかすことは歴史への冒とくであると考えるからだ)日本にも言える。同じように自分たちを正当化する発言がこの国の政治家にもみられることに、はっきりおかしいといわなくてはならない。

前置きが長くなってしまったが、本題は歴史が主題ではない。
昨日ニュースになった、寺社仏閣への油まき事件である。

ネットでは逮捕状が出された人物について特定するような内容がいくつもあるが、ことは彼の出自ではなく、どういう信仰を持っていたか、それこそが大事なことである。彼の出自を必要以上にアラ探ししてしまうと本質が見えなくなってしまう。もちろん彼の両親が出た祖国のキリスト教、キリスト教を標ぼうする団体の中に、いかがわしいカルトのようなものがあることは否定できない。そのカルト宗教を問題にすべきであって、彼の出自を必要以上にあげつらうのには同意しかねる。

問題は「霊の戦い」を主張して他の宗教施設や文化財を壊してもいいのだ、それが日本を救うのだという主張である。
聖書にはどこにもそんな考えは書かれていない。たしかに油をそそぐという表現はあるけれども、だからといって油を注ぐという行為が宗教行為として聖書から理屈づけはできるが自分たちの内輪だけでしか通用しない思考行為でしかないのではないだろうか。
戦いというけれど、勝者が誰なのか敗者は何なのか、説明できていない。

イエスは福音書で、商売をしていた人を追い出したと、福音書にある。けれどもそれは多数の人が見ているさなかで行われたことだっただろう。けっして誰も見ていないところで勝手に一人騒いで行ったわけではない。それだけ、周囲からの非難や批判も覚悟の上で行った行為だったと思う。
だが今回の行為は夜中に勝手に入り込んで行った、自分たちこそこの世の人々を救うのだ、という独りよがりの行動だった。そこに彼らは気づいていない。自分たちさえよければそれでいい、という考えだろう。

はじめに書いたように、自分たちが確信しているもの信じているものを否定することも否定されることも含めて許してしまうと、彼らが信じている「物語」が根底から崩れてしまう。それはいつの世にもどんな宗教にも思想にもあった。三浦綾子さんが戦争直後に教科書を墨で塗りつぶしなさいと教えたとき、それまでの軍国主義からまったく違う考え方に変わって苦しんだとおっしゃられた。
キリスト教も、有名な人や牧師先生の考え方に心酔しすぎて、自分で考えることができなくなってしまったり、聖書を読むときもそういうナントカ先生の言葉に影響を受けすぎて都合よくつまみ食いした読み方をしてしまうこともある。
カルト宗教だけではなく、キリスト教もまたカルト化しやすいわながある。カルトから脱出した方がとても苦しむのは、それまでの「物語」が根底から崩れてしまうことへの葛藤があるからだ。
そこに陥らないように、もっとはっきり言えば独りよがりにならないように、常に気をつけていかなくてはならない。
信仰は人を生かすためにある。だからこそ美辞麗句で化粧したような言葉に惑わされないように。

手話表現を知ってもらう機会になれば2015/06/03 23:19:54

「手話は言語」着実に浸透 4月に条例施行の群馬県
http://www.asahi.com/articles/ASH5R7RJ7H5RUHNB00Q.html?iref=comtop_list_edu_n02

全国で手話を言語と認める条例が施行されている。群馬県でも4月に施行されてから手話が広まりつつあるのだそうだ。

健聴者が日本語の文を理解する時と、ろう者(手話を使う聴覚障害者)が手話の文を理解する時では、いずれも左脳の同じ場所が活性化することがわかり、脳の働きなどから科学的にも「言語」と立証された、というくだりは説得力がある。
わたしもそうだが、手話を使っているときは顔の表情も入れている。まゆを上げたり下げたり、手の位置、目線を変えたりあごを引いたりと変化をつけること。それが手話の文法のひとつだ。さらには、「、」と「。」をつける。といっても書き言葉とは違い、「、」はうなづき、「。」は両手を前にそろえることで表す。
手話は「思考力が育たない」「文法的に劣ったもの」との偏見から手まねなどと呼ばれて人前で使うことさえ禁じられていた時代が長かった。さきの手の位置、目線の変化、顔の表情などの表現も「まね」のように低く見られていたために、手話への偏見となって、ろう者に口話表現を押しつける結果となってしまった。手話についての科学的知識がなかったことがその大きな理由だ。

この9月のコスモス朗読会と、7月の札幌でひらかれる「カルチャーナイト」というイベント、高校時代の恩師の前で手話つき朗読を演じるが、声だけではなく手話をつけて語るときには、顔の表情の変化も交えてやる。実際はとても大変難しいのだけど、恩師も含めて一般の人たち、聴者に手話を知ってもらう、手話でも語ることができる、手話表現を知ってもらう機会になればいいな、と考える。

もうひとつのフットボール・ワールドカップ2015/06/04 23:32:56

いま、フットボールワールドカップと書いて、3つを挙げる人が多いだろう。
FIFAのスキャンダル。ロシア大会出場をかけた日本男子代表。この6日に開幕する、女子代表「なでしこジャパン」。ちなみに開催地はカナダ・バンクーバーだが、CFLカナディアンフットボール・リーグ、ブリティッシュ・コロンビア・ライオンズの本拠でもある。本来は自然芝だが、女子サッカーワールドカップでは人工芝が使用されるという。

と、ちょっと待て。
もうひとつのフットボールのワールドカップが、今年7月に開催される。
オハイオ州キャントン、アメリカンフットボールの名誉の殿堂があるところだが、第 5 回 IFAF アメリカンフットボール世界選手権アメリカ大会が開催される。
Tom Benson Hall of Fame Stadium(収容 22.375 名)
Earl Schreiber Cir NW,Canton,OH 44708

出場国はホスト国アメリカ、フランス、メキシコ、オーストラリア、ブラジル、そしてアジアからは日本と韓国、以上7カ国。当初カナダも出場予定だったが辞退したため、日本はグループAでメキシコ、アメリカと対戦することになっている。グループBのフランス、韓国、オーストラリア、ブラジルは実力的には日本より下とみていい。

先日、そのアメリカ代表チーム45人が発表になり、わたしも興味をそそられて調べてみた。
http://usafootball.com/blogs/u.s.-national-team/post/10339/usa-football-selects-45-player-roster-to-represent-united-states-at-fifth-ifaf-world-championship-

そのなかにおや、と思わせる人名が出てきた。
Dylan Favre QB 5-10 195 Tennessee-Martin Martin, Tenn.
Tennessee-Martin Martinテネシー大学マーティン校は、NCAAディビジョン1、FCSに属している。チーム名はスカイホークス。

で、Dylan Favre。どこかで聞き覚えがある。
元グリーンベイ・パッカーズ、ニューヨーク・ジェッツ、ミネソタ・バイキングスなどでプレーした「鉄人」Brettのおいにあたるのだそうだ。

将来のNFL入りはどうかわからないが、全米代表に選ばれたのだから実力はあるのだろう。ワールドカップの活躍とチームの成績次第では、NFLから声をかけられることもあるかもしれない。ドラフト外でも。
こういう選手が入っているということだから、アメリカは本気で自国開催の名誉をかけて、ワールドカップ優勝を狙っているといっていい。

こちらのフットボールの方がわたしにとっては興味をそそられる。

高齢になるということに対して希望を抱けない施策2015/06/05 23:22:26

けさの新聞各紙1面に出ていた記事。
有識者でつくる民間研究機関「日本創成会議」(座長・増田寛也元総務相)が、今後10年で東京など1都3県の「東京圏」の介護需要が45%増えて施設と人材の不足が深刻になるとの推計を発表。対策として、高齢者の地方移住などを提言、医療・介護に余力のある26都道府県の全国41地域を挙げた、というもの。

これは一面、なるほど、と思わせる内容だ。都会はこれ以上は施設と人材が不足するから、余力がある地方に行ったら、いいサービスが受けられるよ、というのだ。
しかし、そのバラ色のような案は、逆にかえって地方にしわ寄せがくることになり、東京圏の問題を地方に押しつける結果にならないか、という不安、はっきり言えば危ぐが大きい。

妻の故郷福井県も、わたしの故郷北海道も、介護に余力がある地域だと挙げられたが、ちょっと待ってほしい。
たしかに余力があるだろうが、移住しなさいと言われた高齢者の立場や気持ちは置き去りにされていないか?
不慣れなところにいきなり移って住みなさいというのは押しつけであろう。

4年前の震災や、ついこのあいだの口永良部島の噴火で避難を余儀なくされた人たちを考えてみよう。
自然災害であり、望んで移ったわけではないところで生活を営むというのは、かなり大きなストレスがかかる。知人がいなければ生活のための移動や買い物さえもままならない。あの大震災の被災地では、長期の避難生活で心身を崩し、将来に希望が見いだせずに、自ら命を絶った人さえもいるのだ。
都会では車の免許も車も持っている人はいるが、移動は可能に思えても、都心部と地方では道路に慣れるのは楽じゃない。第一交通量が違う。東京ではまず運転することがない妻は、福井に帰ってハンドルを握るのも緊張するとボヤいていたくらいだ。

そういった、個人的にも社会的にもさまざまな事情を考慮すべきであるのに、地方移住などと簡単にあげてほしくない。はっきり言えば、高齢者に余計な負担をかけるだけで終わる可能性が高い施策だ。
こういう案を出したのは、地方の暮らしを知らない人の思いつきではないだろうか。

わたしも2040年には80歳になっている(はず)。
そのころ、はたして生きているかどうかわからないが、もし移住できるなら福井なり北海道なりに行ってもいいとは思うけれども、いざそのときに体力や気力がもつだろうか。
はなはだ疑問を感じる。

これでは、高齢になるということに対して希望を抱けないだけである。

カルチャーナイト2015/06/06 17:49:57

カルチャーナイト
http://www.culture-night.com/

カルチャーナイトとは
カルチャーナイトは、北欧が発祥の地。
公共施設や文化施設、民間施設を夜間開放し、市民が地域の文化を楽しむ行事です。
カルチャーナイトでは
各施設がもっている専門分野や特色を生かした文化プログラムを、その日のために提供していただきます。

ここで、東京以外でははじめて、手話つき朗読をやることになった。
2015年7月17日、札幌で2つの作品を読むことにしている。
サウンドホール心音 札幌市中央区宮の森1条6丁目2-27
http://cocoron2011.com/

高校の恩師も来ることになっている。舞台をしっかりつとめたい。
恩師は、わたしが耳が聞こえないことも手話ができることもご存知だけど、日本手話と声で朗読をしているというのは、DVDで見ただけ。生で見たことがないのだ。
先日書いたように、札幌の人たちに手話と声で表現を通してなにかが伝われば、と思う。もし来年があるなら、札幌のろう者にも観に来ていただけたらとも思う。

はじめての手話通訳つき『三浦綾子読書会』2015/06/07 20:42:22

http://yotei.miura-ayako.com/?cid=3
6月6日(土) お茶の水クリスチャンセンター4階ナビゲーター集会室
/090-6226-9102または メール(長谷川)/ 無料(自由献金)
東京手話 10:30~12:30/「氷点」/ 長谷川

昨日、朗読のミニ発表会の前に、お茶の水にあるクリスチャンセンターで、『三浦綾子読書会』がひらかれた。
ただしこれはいままでの形式とは違う。「東京手話」とあるように、聴こえない人、ろう者むけに手話通訳をつけて、講師である長谷川与志充先生(東京JCF&所沢ミレニアムチャーチ牧師)が語り、手話通訳を介して学ぶ、というものだった。

いままでにも私は妻と一緒にこの読書会に参加したことが何度もあるし、独身時代には朗読部門にも参加したことがある。講師だったプロアナウンサーから「聞こえないのにうまい読み方をするね」とおほめをいただいた。彼女とはそれ以後お会いしていないが、「朗読のレッスン」のプロアナウンサー講師はよく存じている、という。
が、読書会では講師の話はやっぱり聞こえない。隣に座っている人の書き込みをのぞきながらやっとどうにか内容を把握できた。そんなこともあって、長谷川先生に相談したところ、「じゃ手話通訳をつけてみましょうか」というご提案があり、今回のこころみにつながった。

はじめての手話通訳つき読書会は、わたしを含めてろう者が3名、聴者で手話がわかる方が2名、手話がわからない聴者が1名、通訳2名と講師、計9名ですすめられた。

難しいのは、進行だった。
講師が語り、通訳が手話で通訳するわけだが、慣れている人なら、レジュメを読みながら、いったん止めるとか通訳者が合わせやすいようにするなど、工夫ができる。けれど今回は初めての試みで、講師もどうすすめていいかわからない。手話通訳者との息も合っているとは言えず、なかなか難しいものだった。
わたしたち聞こえない側に立ってみると、手話を読み取りながらレジュメプリントを同時に読むのはとても骨が折れる。いま語られているところがどこであるのか、たとえばレジュメを手渡し用とは別に、スクリーン投影にして示していく方法もあり、かもしれない。

だが決してこの試みはむだでも、やる意味がないというのでもない。
ろう者は生活の中で、本を読む習慣経験が少ない人が多い。
けれどだからといってろう者は文学と親しむ必要がないと、決めつけるのはよくない。
むしろこういう機会を通して、聴者ろう者が交流する、手話で情報を伝え、三浦文学を知る機会になれば。

聴者、ろう者、講師先生、みんなで力を合わせて手話通訳つき『三浦綾子読書会』を育てていきたい。

梅雨入り2015/06/08 23:55:08

今日から関東も梅雨入りという発表があった。例年より3日遅いという。
幸い、仕事のあと帰宅時に雨が降らなかったが、毎年のこととはいえ気がめいる日が続くのだろう。

そんななかでも、わたしたちはお互いに冗談を言ったり家事を分担し合ったりして日々、充実させるようにと努めている。
助け合いながらの日々は、結婚前には考えられなかった喜びと楽しみをもたらしてくれる。

耳につけているからって……2015/06/09 22:16:39

聴覚障害者が警察官とのトラブルを投稿 補聴器をイヤホンと間違えられ
http://news.livedoor.com/article/detail/10207810/

たしかに一見しただけでは、補聴器なのかイヤホンなのか、知識があるわけではない警察官にとっても見分けはつかないかもしれない。

「出来れば外して頂けたら…イヤホンと勘違いしてしまいますし今このような出来事がまた起きるかもしれませんので」

そう言われてもねえ。言われた人も当惑しただろうなあ。
わたしも補聴器を外すとまったく音が聞こえません。歩くくらいならまあなんとかなるけどまったく音が聞こえないまま自転車を走行中だったらこわいと感じるだろう。

この夏、補聴器を買い換える予定だ。写真は昨年、福井旅行で犬にかじられたときのもの。犬の噛み跡、歯跡が残っているボディー部分はできれば残しておきたいなあと、妻と話したものだ。
どこのメーカーにするかはまだ決めていないが、妻とは冗談半分で、私が応援しているアメリカンフットボールチーム、トロント・アルゴノーツとオークランド・レイダーズのヘルメットの色を左右それぞれにしようか、と言っている。そのほうが見分けがつく、目立つだろうとも思うからだ。

実際、補聴器はこの数年、カラーバリエーションが豊富になったり本体とイヤモールドをつなぐチューブが細くなったりと、進化したり一見補聴器とはわからないものも増えた。

ともあれ、耳につけているからといってなんでもイヤホンときめつけないでいただきたい。イヤ、ホントに。

とてもやりきれないニュース2015/06/10 23:52:15

若いころ、自動車よりバイクの免許が欲しいなあと思ったことはあるが、就職で東京に出てきてからは忙しいことに加えて難聴が進行したこともあって、教習所に通うことなく、結局免許もとらずにきた。北海道や福井なら移動に必要だから取得するかもしれないが、東京では交通機関があるし、駐車場も料金が高い上、自動車税や日々のメンテナンスなどお金がかかるからなあ、と妻と話している。その妻は免許を持っているが、自動車は持っていない。

と長くなってしまったが、わたしの故郷北海道で起きた、悲惨な事故には目がつぶれる思いだ。
距離およそ30㌔、日本一長いという直線道路を、2台の車が法定速度をはるかに超えた100キロ以上のスピードを出して、交差点にさしかかった乗用車と衝突、乗っていた4人が亡くなり、さらに、1台が車から飛ばされた男性を引きずったまま死なせた疑いがもたれている。

カーレース、サーキットコースと一般道路は違う。
たしかにクラッシュ事故はあるが、サーキットはレース中、だれかがコースを見ているし、オフィシャルが駆けつけて救護にあたる。1994年5月のサンマリノGPのあのときだって、結果は残念だったけど、セナもラッツエンバーガーも助けようとした。
けれど一般道路は、対向車もいるかもしれないが、事故が起きてもすぐには救急車も医師も来られない。なによりタイヤバリアがあったりエスケープゾーンがあったりするサーキットとは、安全面がまるで違うのだ。

それを勘違いしているのか、自分たちがどんなに危険なことをしているのか、気づいていないのだろうか。

自動車を運転するというのは、一歩間違えれば人のいのちを奪いかねない凶器を運転しているということだ。高速で動いているものをコントロールするのは、プロレーサーほどの技術があるならまだしも、普通の人では難しいだろう。レースはなにかあったときには避けられる避けるだけの技術も持っているのだという、お互いの信頼があってこそ成り立つ。それでも事故は避けられない。何人も亡くなっているのだ。
けれど、技術も運転経験もまちまちな人が一緒に走っている一般の道路でムチャをしたらどうなるか、想像するだけでもゾッとする。

亡くなった一家のためにこころから祈りをささげたい。
交通事故が一つでもなくなりますように。