認めてもらいたいということ2014/01/09 22:37:08

地下鉄で通勤していると、7人がけの座席のうち5人くらいがずっとケータイやスマホを使っている、なんていうのはざら。座っている人全部がスマホやケータイをいじくっているなんていうこともある。

LINEだのSNSだの、いろんなツールがあるのはとても便利だろうね。
このあいだまで家に来ていた義妹の息子も、音楽を聴いているかと思ったらLINEで会話をしていたようだ。

それらを否定する気はないけれど、なんだかなあと思うのはわたしがオジサンだからだろうか。
仲間内の評判を気にしているとか、つながっていること、承認されていることを大事にしたいというのは、若いときには自然な感情だ。仲間を大事にするのはもちろんだ。
だがいつまでも仲間うちだけでいられるものではない。

社会に出てみると、認められたいつながっていたいという欲求だけでは生きていけないものだ。むしろだれも見向きもしてくれないことから始まる、といってもいいか。

あと10年くらいしかない社会人生活をみつめるとき、承認されることを望むのではなく、何を遺したかということに思いをはせる。

一度しかない人生だもの、ちっぽけでもいいから何かを遺すこと。それがあとあとになって評価や承認につながるのではないだろうか。

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