カレー探索作戦 アタリ! ― 2008/08/01 23:34:26

いくぶん涼しかった今日、久しぶりに都内のカレーレストラン探索作戦(笑)を実行に移した。
訪れたのは「南インド料理レストラン ダルマサーガラ」というお店だ。
ダルマという言葉にひかれた方もいらっしゃるかもしれない。
ダルマサーガラとは、サンスクリット語で「仏法の大海」というのだそうだ。ともあれ、よく見るとチベット仏教の影響を受けたとおぼしき、落ち着いた雰囲気の店内であった。
店によると、都内にあるインド料理店は多くが北インドの料理だが、ここは南インド料理をメニューにし、油を抑えたさっぱりした味にしているという。
いただいたのはマトンとチキンのカレー。ナンを1回おかわりした。しめて1400円。
味はさっぱりしたなかにも濃厚な油と辛さがうまくミックスして、ライスでもナンでも、口に合う。強烈な辛さで汗が噴き出る感じだけれど、しつこくない。ナンがなくなっておかわりしようとおもったけれど、残ったカレールーを、スープ代わりにすすってみたが、カレールーだけでも十分おなかが満たされた。
インドからきたのか日本に住んでいる方だろうか、インドの方も多数いらっしゃったし、日本人ビジネスマンも多くみられた。
お店も味も、ビンゴ、ピッタシカンカンといおうか、アタリ! であった。
ヘアカットを月に一度お願いしているが、今日はそのカットの日でもあった。
今年もあと4回、カットをお願いすることになるのだろう。
本当に月日のたつ速さをつくづく実感した、8月最初の日である。
「南インド料理レストラン Dharmasagara ダルマサーガラ」 店舗情報
東京都中央区銀座4-14-6 銀座エイトビル2F TEL03-3545-5588
URL http://www.didisworks.com http://r.gnavi.co.jp/g981500
訪れたのは「南インド料理レストラン ダルマサーガラ」というお店だ。
ダルマという言葉にひかれた方もいらっしゃるかもしれない。
ダルマサーガラとは、サンスクリット語で「仏法の大海」というのだそうだ。ともあれ、よく見るとチベット仏教の影響を受けたとおぼしき、落ち着いた雰囲気の店内であった。
店によると、都内にあるインド料理店は多くが北インドの料理だが、ここは南インド料理をメニューにし、油を抑えたさっぱりした味にしているという。
いただいたのはマトンとチキンのカレー。ナンを1回おかわりした。しめて1400円。
味はさっぱりしたなかにも濃厚な油と辛さがうまくミックスして、ライスでもナンでも、口に合う。強烈な辛さで汗が噴き出る感じだけれど、しつこくない。ナンがなくなっておかわりしようとおもったけれど、残ったカレールーを、スープ代わりにすすってみたが、カレールーだけでも十分おなかが満たされた。
インドからきたのか日本に住んでいる方だろうか、インドの方も多数いらっしゃったし、日本人ビジネスマンも多くみられた。
お店も味も、ビンゴ、ピッタシカンカンといおうか、アタリ! であった。
ヘアカットを月に一度お願いしているが、今日はそのカットの日でもあった。
今年もあと4回、カットをお願いすることになるのだろう。
本当に月日のたつ速さをつくづく実感した、8月最初の日である。
「南インド料理レストラン Dharmasagara ダルマサーガラ」 店舗情報
東京都中央区銀座4-14-6 銀座エイトビル2F TEL03-3545-5588
URL http://www.didisworks.com http://r.gnavi.co.jp/g981500
両方の視点に立てる ― 2008/08/02 16:29:11

朗読舞台の、こちらは声のほうのレッスン日。
その前に、舞台で使用する音楽を、劇場の担当者あてと自分の予備のぶんと2枚つくった。音楽は仲道郁子さんのベートーベン、ピアノソナタ30番、31番と、昨年使ったのとは別の、ヴァンゲリスの曲「天国と地獄」。高校時代に見た、科学番組「COSMOS」で番組冒頭部に使用された曲だ。音楽はトータルで8分くらいあると思われる。だが朗読全体を、手話と声と両方で通してやってみないと全体の所要時間が分からないため、どこの場面でどの曲を使うかは朗読全体を手話と声と両方でやってからするつもりだ。あわせて講師からは映像使用について、参加者全員の賛成を得ること。本番前の特別練習の日取りも決めていただいた。
自宅を出る前に、手話訳参考のためにと注文した手話テキストが届いた。朗読レッスン後の手話サークルのときにひらいて、参考にしてみる。
さて。
前回も読んだところを今日、また練習してみた。
講師からこんな質問が出た。台本中「呼んでいるのに知らんぷりして、呼んだ人が不思議に思うのはわかるけれど、呼ばれて気づかない。聞こえないからわからない、というのはどういう意味か?」。
この問いは、呼んでいる人と呼ばれた人とは誰のことなのか、という問いであり、聞こえないことはどういうことか、という問いであろう。
わたしは、病院や銀行の窓口で呼ばれても分からなかった経験と、そばにいるなら肩をたたいてもらうか、手招きしてもらうかの方法があるけれど、離れたところでは聞き取りづらいのだということを説明した。講師はなるほど、と納得していただけた。呼んでいる人は聞こえる人であり、呼ばれた人は聞こえない人なのだと。
同じように、同席していた朗読仲間もたぶん、初めて知ったのだろう。わかっていただけたようだ。
こういう経験はとても貴重なことだ。お互いを知り合い理解していく、わからないこと初めて見聞きすることを、声高にではなく、じっくり説明していくなかでなるほど、そういうことなんだねとわかってもらえる。なにせ参加者中唯一の難聴者だもの。
講師から、「呼んでいるのに知らんぷりして、呼んだ人が不思議に思う」場面と、「呼ばれて気づかない。聞こえないからわからない」場面を、間をあけて、聞こえる人と聞こえない人の両方に分けて演じて読むといい、とアドバイスをいただいた。わたしも同感である。間をあけることで、
聴いている人に「おや?」と思わせる。
講師からも言われたことだけれど、わたしは聞こえないけれど話せる。話せるけれど聞こえない。いわば両方の世界に生きている。その両方を演じることができるというのは、ある種得難いことだろう。だからこそ両方の視点に立ち両方を演じることを大事にしていきたい。
その前に、舞台で使用する音楽を、劇場の担当者あてと自分の予備のぶんと2枚つくった。音楽は仲道郁子さんのベートーベン、ピアノソナタ30番、31番と、昨年使ったのとは別の、ヴァンゲリスの曲「天国と地獄」。高校時代に見た、科学番組「COSMOS」で番組冒頭部に使用された曲だ。音楽はトータルで8分くらいあると思われる。だが朗読全体を、手話と声と両方で通してやってみないと全体の所要時間が分からないため、どこの場面でどの曲を使うかは朗読全体を手話と声と両方でやってからするつもりだ。あわせて講師からは映像使用について、参加者全員の賛成を得ること。本番前の特別練習の日取りも決めていただいた。
自宅を出る前に、手話訳参考のためにと注文した手話テキストが届いた。朗読レッスン後の手話サークルのときにひらいて、参考にしてみる。
さて。
前回も読んだところを今日、また練習してみた。
講師からこんな質問が出た。台本中「呼んでいるのに知らんぷりして、呼んだ人が不思議に思うのはわかるけれど、呼ばれて気づかない。聞こえないからわからない、というのはどういう意味か?」。
この問いは、呼んでいる人と呼ばれた人とは誰のことなのか、という問いであり、聞こえないことはどういうことか、という問いであろう。
わたしは、病院や銀行の窓口で呼ばれても分からなかった経験と、そばにいるなら肩をたたいてもらうか、手招きしてもらうかの方法があるけれど、離れたところでは聞き取りづらいのだということを説明した。講師はなるほど、と納得していただけた。呼んでいる人は聞こえる人であり、呼ばれた人は聞こえない人なのだと。
同じように、同席していた朗読仲間もたぶん、初めて知ったのだろう。わかっていただけたようだ。
こういう経験はとても貴重なことだ。お互いを知り合い理解していく、わからないこと初めて見聞きすることを、声高にではなく、じっくり説明していくなかでなるほど、そういうことなんだねとわかってもらえる。なにせ参加者中唯一の難聴者だもの。
講師から、「呼んでいるのに知らんぷりして、呼んだ人が不思議に思う」場面と、「呼ばれて気づかない。聞こえないからわからない」場面を、間をあけて、聞こえる人と聞こえない人の両方に分けて演じて読むといい、とアドバイスをいただいた。わたしも同感である。間をあけることで、
聴いている人に「おや?」と思わせる。
講師からも言われたことだけれど、わたしは聞こえないけれど話せる。話せるけれど聞こえない。いわば両方の世界に生きている。その両方を演じることができるというのは、ある種得難いことだろう。だからこそ両方の視点に立ち両方を演じることを大事にしていきたい。
むちゃをしてしまった ― 2008/08/03 23:38:06

礼拝後、教会であった「戦争を考える集い」に出席してから都内でコーヒーをのみ、自宅へ戻って隣駅のスポーツショップ内にある卓球場で練習をしてきた。
まず、「戦争を考える集い」。
戦時食と称しておにぎりと蒸したジャガイモ、サツマイモ、それに少々のたくあんやニンジン、キュウリをいただいた。けれどこんなものではたして当時をしのぶことになるのか。戦争体験者に言わせると、おにぎりもたくあんも、こんなに味が良くなかったという。わたしが買ったおにぎりはコンビニではなく、スーパーでつくられた、具はめんたいことツナ。はっきり言うと、当時はこんなにおいしい具なんて手に入らなかったはず。だから体験者にしてみれば、こんなものではないと言われて当然だ。逆に考えると、おにぎりひとつとってもあの時代と今では全く違うということ、さらにはどれだけ今が恵まれた時代なのかということに思いをはせたい。
会では原爆投下後に放射線とのたたかいを生きてきた被爆者を取り上げたドキュメンタリーDVDが上映された。けれど案の定、字幕はないし情報保障もないし、DVDの音声が聞き取れないから、疲れて眠りこんでしまった。つまらないとは思わないが、聞こえないのは初めからわかっていたこと。のこのこ出る必要はなかったしさっさと帰ればよかったと、いまごろになって思う。
卓球練習は、むちゃをやってしまった。
ほとんど何も食べずに練習に臨んで、脱水寸前、終わってすぐに水が飲みたくなり、頭痛まで起こした。やれやれ。
いまはこんなことができるくらいだから問題ない。疲れをとって明日に備えて休息を早めにとろう。
むちゃもほどほどにしないとね。
まず、「戦争を考える集い」。
戦時食と称しておにぎりと蒸したジャガイモ、サツマイモ、それに少々のたくあんやニンジン、キュウリをいただいた。けれどこんなものではたして当時をしのぶことになるのか。戦争体験者に言わせると、おにぎりもたくあんも、こんなに味が良くなかったという。わたしが買ったおにぎりはコンビニではなく、スーパーでつくられた、具はめんたいことツナ。はっきり言うと、当時はこんなにおいしい具なんて手に入らなかったはず。だから体験者にしてみれば、こんなものではないと言われて当然だ。逆に考えると、おにぎりひとつとってもあの時代と今では全く違うということ、さらにはどれだけ今が恵まれた時代なのかということに思いをはせたい。
会では原爆投下後に放射線とのたたかいを生きてきた被爆者を取り上げたドキュメンタリーDVDが上映された。けれど案の定、字幕はないし情報保障もないし、DVDの音声が聞き取れないから、疲れて眠りこんでしまった。つまらないとは思わないが、聞こえないのは初めからわかっていたこと。のこのこ出る必要はなかったしさっさと帰ればよかったと、いまごろになって思う。
卓球練習は、むちゃをやってしまった。
ほとんど何も食べずに練習に臨んで、脱水寸前、終わってすぐに水が飲みたくなり、頭痛まで起こした。やれやれ。
いまはこんなことができるくらいだから問題ない。疲れをとって明日に備えて休息を早めにとろう。
むちゃもほどほどにしないとね。
カタカナ語 ― 2008/08/04 23:51:46

うーん。なんだろうなあ。
というのは、新聞をひらいてみると、出るわ出るわ、カタカナの多いこと。今日も、「バードストライク」「リアリティー」「マジック」「ライバル」……。
マジック、というとわたしはプロバスケットボール、NBAのアービン・“マジック”ジョンソンか、劣勢に立たされながら逆転パスなどの信じられない試合運びを見せたNFLのジョー・モンタナを思い出す。
今日の記事では高校野球、茨城代表の常総学院高校野球部監督、木内幸男さんの指揮ぶりを「木内マジック」と見出しに付けた。こういう場合、古いたとえで申し訳ないけれど、西鉄ライオンズの監督だった三原脩さんを思い出す。彼の指揮を「三原魔術」と呼んでいた。三原マジックという言葉もないではないけれど、「マジック」よりは「魔術」のほうがなんとなく、ぴったり合うような気がする。
日本人はけっこうカタカナ語が好きなのか。日本語で書けばいいのに、カタカナで書くと洗練されたような、かっこいいような気がするのだろう。
最近知ったカタカナ語で、なるほど! と思わず手を打ったのは「往年の名選手の復刻ユニフォーム」を意味する「スローバック ユニホーム」。「スローバック」をある新聞の記者が「時代を巻き戻した」と書いたのはなるほど! と思ったものだ。
写真はCFLカナディアン・フットボール・リーグ、トロント・アルゴノーツのレプリカを含む、3時代のホームジャージ。
というのは、新聞をひらいてみると、出るわ出るわ、カタカナの多いこと。今日も、「バードストライク」「リアリティー」「マジック」「ライバル」……。
マジック、というとわたしはプロバスケットボール、NBAのアービン・“マジック”ジョンソンか、劣勢に立たされながら逆転パスなどの信じられない試合運びを見せたNFLのジョー・モンタナを思い出す。
今日の記事では高校野球、茨城代表の常総学院高校野球部監督、木内幸男さんの指揮ぶりを「木内マジック」と見出しに付けた。こういう場合、古いたとえで申し訳ないけれど、西鉄ライオンズの監督だった三原脩さんを思い出す。彼の指揮を「三原魔術」と呼んでいた。三原マジックという言葉もないではないけれど、「マジック」よりは「魔術」のほうがなんとなく、ぴったり合うような気がする。
日本人はけっこうカタカナ語が好きなのか。日本語で書けばいいのに、カタカナで書くと洗練されたような、かっこいいような気がするのだろう。
最近知ったカタカナ語で、なるほど! と思わず手を打ったのは「往年の名選手の復刻ユニフォーム」を意味する「スローバック ユニホーム」。「スローバック」をある新聞の記者が「時代を巻き戻した」と書いたのはなるほど! と思ったものだ。
写真はCFLカナディアン・フットボール・リーグ、トロント・アルゴノーツのレプリカを含む、3時代のホームジャージ。
局地集中豪雨 ― 2008/08/05 23:42:51

前夜から停滞していた前線による豪雨のため、今日午後0時33分に、東京23区東部と西部に大雨洪水警報が出された。
今日はいくぶん涼しいかなと思ったのだけれど、涼しいどころかとんでもない日だった。
出勤後はずっと建物の中にいて一歩も外に出なかったけれど、お昼前に外を見ると、バケツをぶちまけたなんてものではない、まるで滝のようなものすごい雨。夕方になって小降りに、そしてやんだが、豊島区では下水道内にいた作業員が豪雨で増水した下水道内から流されたというニュースも入った。
同じ時間には甲子園の高校野球、暑さの中での熱い戦いが繰り広げられていたが、同じ日本の、東と西でこんなにも違う天気とは。
今日はいくぶん涼しいかなと思ったのだけれど、涼しいどころかとんでもない日だった。
出勤後はずっと建物の中にいて一歩も外に出なかったけれど、お昼前に外を見ると、バケツをぶちまけたなんてものではない、まるで滝のようなものすごい雨。夕方になって小降りに、そしてやんだが、豊島区では下水道内にいた作業員が豪雨で増水した下水道内から流されたというニュースも入った。
同じ時間には甲子園の高校野球、暑さの中での熱い戦いが繰り広げられていたが、同じ日本の、東と西でこんなにも違う天気とは。
一夜あけて ― 2008/08/06 23:40:14

昨日の午後にあったとんでもない局地豪雨から一夜が明けて。
写真にみえるように、遠くに雲がもくもくとひろがっている。しかし空は何ごともなかったかのような快晴。
ところが東海から近畿が豪雨に見舞われて、いまひらかれている夏の高校野球、第90回全国高校野球選手権大会は雷雨が予想されるため第3試合がノーゲーム、翌日に順延されることになった。
さて今日は、朗読舞台の手話訳のご指導をいただく日。
これまで教えていただいた部分の復習の後で、表現の疑問を出してみた。そのあとで未着手だった残り全部を一気に終えた。
疑問1。「初めて会社に入ったとき」。文のその後は聞こえないので電話をお願いしますというけれどみんな忘れる、と続く。わたしも覚えがある。会社に入ってまもないころに電話をお願いしてもなかなか代わってもらえないことがあった。入社したてのころという意味でとらえたらどうだろうか。しかし、文章をそのまま生かしたほうがいい、と「初めて会社に入ったとき」と文章に忠実に表現することにした。
疑問2。「呼んでいるのに、知らんぷり……」。「知らないふり」を無視とするか、「知らん顔」とするか。無視なら目のまえの指を横へずらすように、目線を切るような動き。だが左ほおをふくらませて「うそ」をあらわし右手の甲側で右ほおを払うようにして「知らない」と表す。
検討課題は「カミングアウト」。
これはわたしの手元にある手話辞典やテキストには載っていない。指文字で「カミングアウト」とやっても伝わらないかもしれない。
秘密にしておきたかったことを公に表す、ひいては前向きになる、という意味で左手平を前に出し、右手人さし指を前へ向ける。前向きという表現にしてみることにした。
まだまだ練習と課題が必要である。もっともっとうまくなりたいものだ。
写真にみえるように、遠くに雲がもくもくとひろがっている。しかし空は何ごともなかったかのような快晴。
ところが東海から近畿が豪雨に見舞われて、いまひらかれている夏の高校野球、第90回全国高校野球選手権大会は雷雨が予想されるため第3試合がノーゲーム、翌日に順延されることになった。
さて今日は、朗読舞台の手話訳のご指導をいただく日。
これまで教えていただいた部分の復習の後で、表現の疑問を出してみた。そのあとで未着手だった残り全部を一気に終えた。
疑問1。「初めて会社に入ったとき」。文のその後は聞こえないので電話をお願いしますというけれどみんな忘れる、と続く。わたしも覚えがある。会社に入ってまもないころに電話をお願いしてもなかなか代わってもらえないことがあった。入社したてのころという意味でとらえたらどうだろうか。しかし、文章をそのまま生かしたほうがいい、と「初めて会社に入ったとき」と文章に忠実に表現することにした。
疑問2。「呼んでいるのに、知らんぷり……」。「知らないふり」を無視とするか、「知らん顔」とするか。無視なら目のまえの指を横へずらすように、目線を切るような動き。だが左ほおをふくらませて「うそ」をあらわし右手の甲側で右ほおを払うようにして「知らない」と表す。
検討課題は「カミングアウト」。
これはわたしの手元にある手話辞典やテキストには載っていない。指文字で「カミングアウト」とやっても伝わらないかもしれない。
秘密にしておきたかったことを公に表す、ひいては前向きになる、という意味で左手平を前に出し、右手人さし指を前へ向ける。前向きという表現にしてみることにした。
まだまだ練習と課題が必要である。もっともっとうまくなりたいものだ。
わたしは耳が聞こえません。それでいいのだ ― 2008/08/07 23:25:59

漫画家の赤塚不二夫さんの葬儀が今日、東京都中野区の宝仙寺で営まれたという。
赤塚不二夫さんの漫画というと、わたしは「おそ松くん」が好きだった。代表作「天才バカボン」も何度か読んだけれど、あまりのギャグの洪水に、気おくれした記憶がある。
ともあれいまになってみると「これでいいのだ」という、あの有名なフレーズが思い出される。
今回の朗読舞台でも、「それでいいのだ」という言葉で締めくくっている。「わたしは耳が聞こえません。それでいいのだ」
昨日ご指導をいただいたとき、一瞬「これでいいのだ」というフレーズを思い出し、手話通訳士の方に「それでいいのだ!」と絶叫するというアイデアは思いついたことがあるけれど、絶叫するのはふさわしくない似つかわしくないと思ったと伝えた。通訳士の方もわたしもともに大笑いした、「それでいいのだ!」と絶叫するアイデアだったけれど、舞台上ではさておき、なるほどなかなかふさわしい、含蓄のある言葉かもしれない。
話を葬儀に戻す。
タレントのタモリさんが、今日のこの葬儀でお別れの言葉を語ったという。一部を引用してみる。
「あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい陰の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と」
難聴という、目に見えない障碍について障碍者が書いた文を、同じ障碍者が手話と声で語る。映像や音楽の助けも借りて。
絶叫するのもありかも知れない。机をたたくように声高に主張するのもいいかもしれない。
けれど、舞台上では絶叫も主張も、うるさく目障りで、目立つだけでしかないのかもしれない。
耳が聞こえず不自由だけれど、不便ではない。
ありのままに自分を、周囲を受け入れ、自分の上にある重苦しい陰を取り払い、自分を押さえつけ周囲から押さえつけられる理不尽な世界から解放される、自由になること。
だから淡々と静かにでいいから、しかしきっぱり確固とした意志をもってわたしも「それでいいのだ」と、言いたい。
赤塚不二夫さんの漫画というと、わたしは「おそ松くん」が好きだった。代表作「天才バカボン」も何度か読んだけれど、あまりのギャグの洪水に、気おくれした記憶がある。
ともあれいまになってみると「これでいいのだ」という、あの有名なフレーズが思い出される。
今回の朗読舞台でも、「それでいいのだ」という言葉で締めくくっている。「わたしは耳が聞こえません。それでいいのだ」
昨日ご指導をいただいたとき、一瞬「これでいいのだ」というフレーズを思い出し、手話通訳士の方に「それでいいのだ!」と絶叫するというアイデアは思いついたことがあるけれど、絶叫するのはふさわしくない似つかわしくないと思ったと伝えた。通訳士の方もわたしもともに大笑いした、「それでいいのだ!」と絶叫するアイデアだったけれど、舞台上ではさておき、なるほどなかなかふさわしい、含蓄のある言葉かもしれない。
話を葬儀に戻す。
タレントのタモリさんが、今日のこの葬儀でお別れの言葉を語ったという。一部を引用してみる。
「あるがままを肯定し、受け入れ、人間を重苦しい陰の世界から解放しました。すなわち『これでいいのだ』と」
難聴という、目に見えない障碍について障碍者が書いた文を、同じ障碍者が手話と声で語る。映像や音楽の助けも借りて。
絶叫するのもありかも知れない。机をたたくように声高に主張するのもいいかもしれない。
けれど、舞台上では絶叫も主張も、うるさく目障りで、目立つだけでしかないのかもしれない。
耳が聞こえず不自由だけれど、不便ではない。
ありのままに自分を、周囲を受け入れ、自分の上にある重苦しい陰を取り払い、自分を押さえつけ周囲から押さえつけられる理不尽な世界から解放される、自由になること。
だから淡々と静かにでいいから、しかしきっぱり確固とした意志をもってわたしも「それでいいのだ」と、言いたい。
あんまり長すぎるので ― 2008/08/08 23:44:46

いままだ放送中。今日から始まった北京五輪の開会式だ。現地時間で午後8時、ということは向こうは間もなく日付が変わるのではないだろうか。
正直言うと今回の五輪は、あまり興味関心が持てない。もちろん野球、サッカー、バレーボール、ソフトボール、といった球技はもちろん、水泳だとか卓球だとか(プレーしている一人として関心はある)けれど全体としてはあまりワクワクした思いが感じられないのだ。競技日程が進んでくればまた違うのだろうけれど。
ともあれ204の国・地域が参加する。入場行進を見ていても肌の色、民族衣装などをあしらった服、そして一番とびきりの笑顔。
戦争や争いのない、生きている喜びを最大に感じることのできる、五輪であってほしい。
正直言うと今回の五輪は、あまり興味関心が持てない。もちろん野球、サッカー、バレーボール、ソフトボール、といった球技はもちろん、水泳だとか卓球だとか(プレーしている一人として関心はある)けれど全体としてはあまりワクワクした思いが感じられないのだ。競技日程が進んでくればまた違うのだろうけれど。
ともあれ204の国・地域が参加する。入場行進を見ていても肌の色、民族衣装などをあしらった服、そして一番とびきりの笑顔。
戦争や争いのない、生きている喜びを最大に感じることのできる、五輪であってほしい。
絶叫しなくとも ― 2008/08/09 22:27:08

そういえば。
いつごろからだろう、スポーツ中継で絶叫するアナウンスが聞かれるようになったのは。
1936年のベルリン五輪、200メートル平泳ぎで前畑秀子さんが金メダルを取ったとき、「前畑がんばれ! 前畑がんばれ!」と絶叫したのはあまりにも有名。だけれど、プロのアナウンサーなら、絶叫するのではなく冷静に、いま起きている状況がなんでありどうなっているのかを伝えることだ、と。アナウンスは拡声器ではない、とも。
いまは逆に、アピールをすること、アピールをしないと伝わらないとでも言いたげなようだ。
朗読とアナウンスは違うけれど、言葉で語るという点では同じものだ。
絶叫するというなかに、語るものが感じたことを、見聞きしている者に押し付けているような、無理をしているような気がする。
今回もわたしは声と手話で語るけれど、絶叫しないように、舞台上ではある種冷静になりたい。絶叫しなくとも、わたしが感じたこと、表現したいことは自然と伝わるのではないか。
そう確信を持っている。
いつごろからだろう、スポーツ中継で絶叫するアナウンスが聞かれるようになったのは。
1936年のベルリン五輪、200メートル平泳ぎで前畑秀子さんが金メダルを取ったとき、「前畑がんばれ! 前畑がんばれ!」と絶叫したのはあまりにも有名。だけれど、プロのアナウンサーなら、絶叫するのではなく冷静に、いま起きている状況がなんでありどうなっているのかを伝えることだ、と。アナウンスは拡声器ではない、とも。
いまは逆に、アピールをすること、アピールをしないと伝わらないとでも言いたげなようだ。
朗読とアナウンスは違うけれど、言葉で語るという点では同じものだ。
絶叫するというなかに、語るものが感じたことを、見聞きしている者に押し付けているような、無理をしているような気がする。
今回もわたしは声と手話で語るけれど、絶叫しないように、舞台上ではある種冷静になりたい。絶叫しなくとも、わたしが感じたこと、表現したいことは自然と伝わるのではないか。
そう確信を持っている。
坂のある街 ― 2008/08/10 23:06:44

東京に住んでみると、坂の多い街だということに気づく。といっても小樽だとか長崎と比べたら、少ないほうなのかもしれないが、けっこう急坂があるなど、歩くにもしんどいなと感じることがある。
写真は六本木の「檜坂」。山口藩毛利邸があった、旧防衛庁檜坂公園に沿う一帯だという。
東京はアスファルトが多く、江戸時代の面影などまったくなくなったかのように思われるけれど、どうしてどうしてまだまだみるべきところがたくさんある。逆に考えると、アスファルトのない江戸時代の人々は、ひょっとしたらわれわれ現代人よりも足腰が強く丈夫だったのかもしれない。
写真は六本木の「檜坂」。山口藩毛利邸があった、旧防衛庁檜坂公園に沿う一帯だという。
東京はアスファルトが多く、江戸時代の面影などまったくなくなったかのように思われるけれど、どうしてどうしてまだまだみるべきところがたくさんある。逆に考えると、アスファルトのない江戸時代の人々は、ひょっとしたらわれわれ現代人よりも足腰が強く丈夫だったのかもしれない。
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