嫌いなもの……注射針!2008/07/01 23:08:14

昨晩食べたものがおなかにあたったのか、けさは朝から下痢、おう吐、頭痛ときて仕事を休み、病院に駆け込んだ。
診断は急性胃腸炎。数日前から風邪ぎみだったのと、食べ物があたったのかもしれない。寝苦しいわ寝汗があるわ、肩こりはひどいわで、しんどかった。血液検査と点滴で2度、注射針を刺した。見るのも嫌だね。検査士が手際よいから安心して受けられたけれど。
なにより悔しいのは、仕事を休まなければならなかったこと。目の手術以外は、病気では絶対に休まないと言い聞かせていたのに。

夜に予定されていた、同僚仲間との会食も欠席。

まあしかたない。明日からまた気分を切り替えてがんばろう。

落書き東西2008/07/02 22:18:09

ここ数日の話題になっている。イタリア・フィレンツェの世界遺産登録地区にある、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に、日本人の大学生や高校野球チームの監督らが落書きをしたことが問題視され、大学が学生を処分したり、高校野球チームの監督が解任されたりしたというニュースだ。思い出したのはもう1年前になるドイツ・オランダ旅行である。

写真は、ドイツ・ザクセン州ドレスデン市のホテルを出て、市内散策をしようと、鉄道のガード下に来た時に撮影した一枚だ。壁に大きなペンキの落書きがある。

これを見たとき正直言って、ドイツの人たちのマナー低下を嘆いたものだ。
文化・歴史、どれをとってもヨーロッパが誇る、すばらしいものばかり。マイセン陶器や日本の陶芸品を集めたコレクションがあることでも知られているドレスデン市は17~18世紀、ザクセン王国の首都として栄え、“エルベのフィレンツェ”“バロックの真珠”とまでたたえられた、ヨーロッパ屈指の文化や芸術、建築物などがある街だった。第2次世界大戦、1945年2月13~14日のドレスデン大空襲で街全体が灰塵に帰すまでは。
だがこの落書きを見て一瞬にして、ドイツの人たちはなぜこんなことをするのだろうと、落胆したのだ。

ところがさきの問題の、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂には日本語以外にも英語やイタリア語など各国語の落書きがあるそうだし、そもそも高校野球チームの監督の場合、2006年のイタリア旅行中に、「名前を書くと幸せになれる」という話を聞いて落書きをしたのが今回大きな問題になってしまった。第一現地の人たちは、日本語以外のこうした落書きを特に問題視したり、わざわざ批判したり責めたりしていないそうだ。

背景にはヨーロッパと日本の、文化遺産に対する考え方の違いがある。
日本では、聖なるもの、傷つけたり荒らしたりするのはもってのほか。触れてはいけないという考えがある。欧州はそうではなく、人類共通の遺産ゆえに、多くの人の前にさらけ出し、触れてほしいという考えだろうと察する。今回の場合、日本人がやった、ということが独り歩きしてことが大きくなってしまった。

世界遺産であり宗教建築物である大聖堂に対する落書きと、写真のようなガードに描いた落書きとを同列に扱うのはどうかと思うが……。

やっていいところとやってはならないところの二つがあるように思える。
特に文化や宗教などの異なる街や国に行くときは、いくらやっていいと言われても最大限、その国や街の文化を尊重したいもの。文化習慣を尊重しつつ、現地の人がやっているからいいだろうと、流されないでほしかった。そう思うのはわたしだけだろうか。

第1回 カレーツアー(笑)2008/07/03 23:32:46

以前からぜひ、行こう! と言っていたカレーツアーを、今日決行(?)することができた。

今日訪れたのは、「Indian Restaurant Cali Cari」(東京都中央区築地4-3-11 AQUAビルB1 Tel&Fax 03-3545-4877   http://www.calicari.com/)。

オーダーしたのは3種のカレー食べ放題、ナン・ライス、サラダ付きで1300円。わたしが選んだのはナンと、サフランライス、バターチキンカレーだった。

いやあ、十分おなかが満たされた。ごはんを2食とナンを少々。
カレーの味は、バターチキンはこってりした脂っこさとチキンがほどよくかみ合い、辛さは十分。もっと辛くても良かったかもしれない。

音楽を聴くために2008/07/03 23:33:52

おそらくこのブログを読んでくださるのは、難聴者と接したことがある、手話ができる、自らも難聴者、身近に難聴者がいない、という方に分けられるだろう。
耳の聞こえない、補聴器を使っている難聴者がどうやって音楽を聴いているのだろう? 今日、そんなご質問をいただいた。

わたしは昔、大学時代から社会人になりたてのころまではまだ、補聴器なしでも残存聴力が残っていて、会話が可能だったという。それから長い歳月を重ねていまは、補聴器がないとほとんど、いやまったく聞こえない、「ろう」の状態になった。手話ができる人となら手話で十分会話ができるけれど、できない方とは、主に筆談が会話の手段だ。話すほうは聞こえる人と変わりないので、一見難聴者だとは理解してもらえにくい難しさがある。

で、写真を見ていただきたい。
これはわたしが学んでいる朗読のクラスに出席するときに使う、講師の話を聴くためのマイク・トランスミッターとレシーバーである。上がマイクとトランスミッター。左に見えるのはレシーバーだ。その隣、補聴器をはさんで、黒く細い、糸のようなものが見えるだろう。これは商品名を「音響装置接続用誘導コイル『M-リンク』」という。わずか10gの軽さだ。

これを、テレコイル対応、つまり誘導ループコイル対応の補聴器をつけたまま、テレビ、CD、MD、MP3、パソコンなどに接続し、補聴器にあわせて耳にひっかけて音を聴くのだ。フック部から磁気に変換された音を補聴器を通して聴くのである。朗読のレッスンのときも講師の声を、マイクをつけていただいて、レシーバーと誘導コイルをつけ、補聴器で聴く。

わたしひとりならこれでいいけれど、もし音楽を誰かと一緒に楽しみたいなら、この黒いフック部分が、もっと大きく広いスペースのループ状になれば十分楽しめる。

難聴者が音楽を楽しむというのはとても重要なことだ。聞こえないというだけで生活の幅が制限されるとしたら、とても不幸なことである。昔は考えられなかった、さまざまな機器のおかげで、それなりに生活を楽しむ、生活の幅が広がったこともまたたしかなことなのである。

ざっくばらんに、普通に2008/07/04 23:51:08

7月だというのに都心部で30℃を超したのは13年ぶりだとか。

職場で話す相手もいないし、特に親しいという人もいない、食事に誘われたり誘ったりということもないわたしだが、けっして人嫌いだとか人を避けているわけではない。その反対で、むしろ話をするのは好きなほうだ。

9月の朗読舞台で使うテキスト「ほちょうき とりて」に、舞台台本では使わずにカットした、こんなくだりがある。

難聴者に「君はどういうとき困るの?」とかざっくばらんに聞いてほしい。
障碍をもつ人に聞くのはタブー意識があるようだが、そんなことはない。

まったくその通りだとわたしも思う。
聞こえなくなったのはいつ? なぜ? に始まって、どういうときが困るのか、どうしたらコミュニケーションがとれるか、どういうときに何をしてほしいかしたらいいのか、などと普通に接して話ができたらと思う。
わたしは手話ができるけれど、だからといって手話ができなくては、手話のできるわたしに合わせろなどと強要したり自分の立場を優位にし、相手を支配したりなどという気持ちも考えもない。

もともと異なった存在ではないか。わたしは聞こえないけれど普通に話せる。ただそれだけである。異なった文化、生きてきた歴史や価値観があるものが集まっているのだから、異なった者同士がぶつかりあうのもまたあたりまえではないか。
むしろ、ぶつかり合う過程経験の中から、どうしたら分かり合えるか、お互いに歩み寄り近づきあう。その積み重ねが大事だろう。ぶつかり合うなかで、手話を教えて、とかどうしたらコミュニケーションができるかな、と自然にスムーズに、共同作業へすすむことができる。
お互いに壁を作ってしまうから、大事な肝心な時にギクシャクしてしまう。

今日うれしかったのは、職場にいる、車いすの同僚からテキストを持ってきて、手話を教えて、と言われたことだ。
教えるなんておこがましいことはできないけれど、お茶を囲んで、簡単な会話を教えた。
将来どうなるかわからないけれど、聞こえる人であれ同じ難聴者であれろう者であれ、ひょっとしたら外国人であれ、手話を教え教わり、お互いを理解することになれば。

聞こえないからだに生まれてよかったとつくづく思う。
もし聞こえるからだだったら、いまの会社に入り仕事をすることもなかっただろう。
手話を学ぶことはなかっただろうし、補聴器を使うことももちろんなかった。そして卓球だの手話語りだの手話ソングダンスだの、生きる支え目標を持つこともなかっただろう。さらには難聴者ろう者の友人を持つこともなかっただろう。

神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。(文語体 新約聖書 ロマ書8:28)

すべてに感謝。

とてもやりがいのある舞台になるかもしれない2008/07/05 22:14:18

9月にひらかれる、3回目の朗読舞台に向けた練習が始まった。

手話については横に置くとして、まず声のほうから始める。
今回のテキストでは聴覚障碍についての説明など、やや専門用語、医学用語が少し出てくる。「伝音性」と「感音性」のふたつの難聴について語るくだりが今日の課題だ。
講師は、このふたつを語る上で、聴く人によっては初耳、聞いたこともない言葉であるから、声の高低やトーンなどで変化をつけ、聴く人に伝わるような工夫をしなさい、とおっしゃられた。そこでわたしは「伝音性」と「感音性」をそれぞれひとつのパッケージというかひとかたまりに考え、語る時に声の出し方で変化を持たせるように気をつけた。あとから手話表現がつくわけだが、たぶん手話でも、同じように一本調子にならないような、分かりやすい表現が求められると思う。

さきに聴く人によっては、聞いたこともない言葉だ、と書いた。
実際そうだったようで、講師はじめ、一緒にいる仲間は聴覚障碍についてまったく知識がないか、初めて聞くことばかり。講師がわたしに「あなたは伝音性と感音性のどちらなのか?」と聞かれて、「感音性だ。補聴器では聞き取りにくい。できるならゆっくりはっきり話してほしい」と説明して、仲間たちは驚き納得したようだ。第一、朗読のクラスの参加者中、難聴者はわたしだけである。9月の舞台にはほかのクラスも参加するが、手話でもやろうというのはわたしだけなのだ。

余談であるがテキストに「大きな声でなくていいから、ゆっくりはっきりめに話してほしい」とある。講師は「いままで(わたしに対して)そうしてこなかった。ごめんなさい」とおっしゃられた。けれどわたしはまったく気にしていないし、不快に思ってもいない。今回舞台で声と手話で演じるなら、なおさらわたし自身が、「ゆっくりはっきりめに話し手話で表す」ことを心がけなければならない。そう自らに言い聞かせている。

昨年の「アンネの日記」はいろいろなおほめをいただいた。
今年は、聴覚障碍について、障碍者である当事者が、同じ当事者の声を、声と手話で語る。そのことが少しでも、みえない障碍である聴覚障碍者に対する理解の向上につながり、また舞台を見に来てくださる、同じ障碍のある仲間たちにとってもささえになればと思う。さらに考えるなら、手話も含めた自分の成熟、intergradeになることを望んでいる。

とてもやりがいのある舞台になるかもしれない。

まわりの喜びに役立つように生きたい2008/07/06 23:59:48

イエス、言ひ給う『娘よ、なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健やかになれ』  (文語体新約聖書 マルコ傳 5:34)

久しぶりに、わたしの教会の牧師が一時退院して説教講壇に立たれた。肝炎、インターフェロンの治療、がんだという。説教で牧師は「なぜ自分がこんな目にあうのか」と苦悩し、病室で夜も眠れなかったと心境を語られた。週ごとに説教で神の言葉をとりつぎ語り、教会員をまとめられる牧師という仕事であるわけだが、牧師とて人の子。重い病気にかかられたことをどれほど苦しみ悩まれたか。想像するに余りあることだ。

今日の説教で、印象深いところはいくつもあるのだけれど、こんなことを語られた。最初にあげた、マルコによる福音書、5章34節を引用されたあとである。

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。このなかの「安心して」は原文に忠実に訳すと、「シャローム」。日本語では平和、平安、健康……。すべてを含んだ意味である。
健康であるということは、ただ病気がないということだけではない。むしろ病気を抱えながらも、生命力そのものを指している。
人間として生かされている、社会的身体的そのすべてのなかから、与えられている日々のいのちを自分なりに、まわりの喜びに役立つように生きたい。

教会員がメモしてくださったこれら説教を読みながらわたしは、まずWHO憲章にある、「健康の定義」を思い出した。
ご存じのように有名な定義であるが、厚生労働省のウェブサイトにはこうある。

「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

この定義にはいまなお異論があり、改正するべきだという議論もあるが、それはさておき、「完全な」「単に疾病又は病弱の存在しないこと」が健康の証明だろうか。
病気や障碍があるからこそ限られた状況の中にあっても、いや状況だからこそ社会的身体的あらゆる場において、生かされていることの有限性、尊厳を感じ、よりよく生を遺そうとするのではないだろうか。人間には、極限の、明日がないように思える状況下にあっても、よりよく自らを高め、尊厳と誇りと、希望を持って生きる可能性と能力が与えられている。

昨日のある新聞記事に、坂本九さんの「上を向いて歩こう」が取り上げられた。
実はこの歌も、手話ソングでやったことがあり、記事中に書かれた、柏木由紀子さんと娘さんお2人のコンサートに何度か行き、お目にかかったこともある。「ママ・エ・セフィーユ」という名前の、3人が歌った、坂本九さんの最後の曲「心の瞳」も手話で覚えた。大島花子さんのショーを見に行って、この曲を手話でやったことがきっかけでじかに大島さんと手話で話ができたのは忘れられない。

坂本さんは「歌で人を満足させることはできないが、感動を与えることはできる」と語ったという。さきに挙げた牧師の説教での言葉と重なる。

思いあがるつもりはないし、自分にそんなことができるとはまったく思わないけれど、聞こえないからだと話せるからだの両方が与えられた、そのことを最大に生かして、自分がまず楽しく生き生きと取り組める手話ソングなり手話語りなりを続けていこう。継続して続けていくことで、もしかしたらどこかで、誰かがみているかもしれないしみてくれるかもしれない。
はじめに神さまのために。ついでどこかで見ているかもしれない誰かのために、まず自分が一生懸命取り組むことだ。

障碍は不便だけれど不幸ではありません。

人間がまだまだできていないなあ2008/07/07 23:43:41

雨と蒸し暑さで少々疲れた一日。
気温が高く蒸し暑いと、補聴器にも支障が出る。汗が入ったり雑音が入ったり。で、よく聞こえないものだから、ついイライラしてしまう。いかんなあ、人間がまだまだできていないなあと反省しつつ。

関東地方もそろそろ梅雨明けだろう。
暑いのは好きだけれど、聞こえに響くのがちょっといや。

大変な時代2008/07/08 23:35:21

暑さが雨のためにいくぶんやわらいだ一日、歩数計も久しぶりに17000歩を数えた。もっと歩かないといけないなあ。

職場にあった七夕の飾りは今日でおしまい。
けれど現実世界はますます混とん、大変な時代に入ることだろう。

いろいろな意味で深く考えさせられるニュースばかりだ。

気分転換2008/07/09 21:46:14

以前あるイベントの参加お礼でいただいた、タイマーを置いてある。
90分が最長時間であるこのタイマー。90分ごとに光とバイブレーションで知らせてくれるように設定していたのだけれど、最近読んだ、肩こりについて書かれたある新聞記事で、パソコン作業は重労働である。どんなに集中しても50分を限度に、10分休憩をとる。肩を動かしたり席を立ったりするなど、運動や休息をこまめにとること、とあった。50分作業して10分休憩。そう記事にはあったが、なかなかそうはいかない。
補聴器をつけて大きい音を聴き、加えてパソコン作業で肩こりがひどい毎日の繰り返し。気分転換がうまくなりたいと思う。