理解不能2008/09/01 22:09:51

9月に入った。長月。

さて先週末、手話サークルの交流会に参加。いつも行く居酒屋でわいわい話していた時のこと。床がなんだか滑りやすい。革靴をはいているのだけれどつるつるしていて、へたをすると危ないなあ。
そう思っていた瞬間……! なんとひっくりかえって、転倒してしまったのである。その瞬間を見たある仲間いわく、「足が天を向いていた」。

べつにバナナが転がっていたわけではないし、いくら居酒屋とはいえ、笑いをとろうなどとも思っても考えてもいない。なのに、見事に転んだのだから、周囲はあっけにとられるやら口を開けたままやら、最後に笑いを招いたのである。

朗読でわたしは「難聴を理解してほしい。でも難聴を知られたくない。なんなんだ、この自己矛盾は」と語った。
障碍なら、理解してほしいと思うけれど、あんなぶざまな姿は理解してほしくない。なんであんなところで転んだんだろうね。まったく理解できない。

まあ、ああいうバカをやったことで、ひと皮むけたかもしれない。
気持も新しく前向きになりたいと思う。

力ある語りとは2008/09/02 23:06:44

今回もそうかもしれない。というのは、昨年の「アンネの日記」から、小説ではなく、テーマのある内容の文を語るということで、こういうときはえてして強調したいとか伝えたいという思いが強くなりがちだ。
けれどかえって逆効果になる。

淡々と、しかし確固たる信念というか、絶対にはずせないという強い意志をもって語る。
聞こえない人にも聞こえる人にも、声と手話の両方で語る。
出だしから、力まないように気をつけること。

わたしの課題である。

それを言っちゃあおしまいよぉ2008/09/03 23:44:37

突然の、ふってわいた福田康夫首相の辞任は、内外に大きな波紋と影響を与えた。
昨年の安倍晋三首相のときは、朗読舞台の取材のため訪れていたフランクフルトできいた。かの地のホテルのテレビではなく、携帯電話のニュース速報だった。すぐに日本にメールで知らせたが、初めは知らなかったそうだ。ともあれ、ヨーロッパではあまり日本の政治について報道されることがなく、今回もそれほど注目は高くなかったときく。
たった1年で2度も政権を投げ出すという国について、注目されないのも仕方ないのかもしれない。

話はその辞任会見について。
会見終わり近くになって中国新聞社の記者が「国民は首相の発言をひとごとのようにきこえる」と質問したのに対して、「『ひとごとのように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と答えたというエピソードが話題になっている。なんでも、「あなたとは違うんです」とプリントしたTシャツを作るとか、ドメインに「あなたとは違うんです」というのを使うとか。おいおい……。

記者に対してイラついたりカッとなったり、痛いところを突かれたとか不満や怒りがあったのかもしれない。
しかし。いやしくも一国のトップである。国民に対して語りかける責任があるはずだ。
教わったことだけれど、インタビューを受けるということは、記者の後ろに、見えない有名無名の読者や視聴者がいるということを意識するべきである。だからどんなに不機嫌であっても気にくわないと思っても、記者やカメラの向こうにある、自分を見ている多くの人を意識して語らなければ。それがインタビューを受けるにおいて重要なことだ。人の上に立つ、人から見られているということは、それほど厳しく重みのあることなのだ。当然質問をする側も、相手に対する尊敬や敬意は失ってはならない。

「あなたとは違うんです」と、聞いたときわたしの脳裏に浮かんだのは、「それを言っちゃあおしまいよぉ」だった。
ううん。自分を相手より優位に上位におきたいのだろうけれど、また自分はあなたより優れていると言いたかったのかもしれない。
でもああまで言ってしまうと、一方的にカットされて話が続かない。
わたしはこういうからだで、障碍がある。ある意味では「あなたとは違う」と言いたい気持ちになる時もあるし、自分を正当化したくなる時もある。たとえば聞こえなくてイライラするとき。言いたいことが通じない時。そんなとき、「聞こえないから」ではなく「あんたにはわからないでしょ!」といっそのこと怒鳴れたら、スカッとするかもしれない。

それじゃ、一方的に会話をカットするという意味では同じなんだよね。信頼も尊敬もされなくなるし相手にもされなくなる。
違う、と言いたいけれど、言ってもいいけれど、上から見下ろすのではなくて、違いを認め合えるようになりたい。
わたしは聞こえません。聞こえないけれど普通に話せる。話せるけれど聞こえません。だからあなたとは違う、と叫ぶのではなく、あなたとわたしは違う。だからそれでいいし、違うことをありのままに、自然体で受け入れていきたい。
それが成熟したということだ。

ということは。
日本の政治家は成熟していないのだろうか?

人生は不思議なもの2008/09/04 22:57:19

小学校の低学年のころに2年ほど、ピアノを習っていたことがある。
いま思い出すとバイエルなどの基礎が中心だった。何がいやって、ピアノを弾く時の手の位置。パソコンのキーボードを打つときに手首や手のひらをパソコンに着けて打つでしょう。それがあたりまえだけれど、ピアノは、ぜったいに手首を鍵盤に着けてはいけない。まして指先をべったり伸ばすなんてもってのほか。厳しい先生から、ちょっとでも手の位置が悪かったり正しいフォームでなかったりすると、厳しくたたかれたものだ。

月日はたって、ン何十年。
まさか手話でも手の位置を言われるとは思ってもいなかった。
今回の朗読では手話を交えるのだけれど、あいまいだったり手が動きすぎると、手話が読み取れないと言われたのである。
たたかれることはないけれど(この年でたたかれるようでは、終わりだね 笑)。でも、ご指導してくださる内容も意味も、まったくそのとおりで正しいと思っている。
たとえば一人ぼっちという表現のとき。
わたしは右利きなので左手で人を表わす、親指を上にしたり人さし指を上にしたり(これが人を意味する)右手で指を開かずに4本の指で左手の人を表わす指の周囲を回す。
けれど左手の指が動いては、読み取れない。
こういったことはわたしのくせなのだ。

子どものころに指や手の動きを教えられて、いまもなお違った形で手の動かし方を教わる。
けれどまったくいやであるとか苦痛だとかは全然思っていない。
今回の舞台の練習をしているとき、かえってやりがいを感じるのだ。

人生は不思議なものだね。長い年月をはさんで教わる。
もう一度やれるなら、聞こえない耳だけれど、ピアノを学びたいなと、白と黒の鍵盤を見るたびに思うのだ。

コンプレックスだらけのきみへ。自分に自信を失っているきみへ。2008/09/05 22:03:01

高校2年生から最終学年までの2年間、文部大臣旗杯全国高等学校弁論大会の北海道予選に出た。当時わたしは2回、北海道代表として全国大会に出場した。
その時の経験があるからだろうか、舞台や人前に立ってもあまりあがらないほうだと思っている。

高校時代のこの文化活動はわたしにとって大きな財産だと言える。
勉強もあまり得意な科目がない。運動もからきしだめ。思春期なら高校時代ならあるはずの、クラスメートと付き合ったとか、異性に思われたとか思いを寄せたとかいった、いまでいうなら<モテ期>とはまったく縁がなかった。おまけに耳が聞こえない。そんなコンプレックスだらけのなかで唯一、自分らしくいられるのは弁論のときだけだったかもしれない。

高校生というと、甲子園だとか総合スポーツ大会だとかいったスポーツ系が注目されることが多い。
けれど文化活動も、とてもすばらしいものが多い。新聞制作だとか放送部のアナウンサーだとか写真、演劇など、3年間に打ち込んだ成果を舞台やパネルにして発表し、見てもらえる。
甲子園のように華々しくないかもしれないが、高校生の文化活動をもっともっと多くの人に見てもらいたい知ってもらいたいと、3年間を弁論に打ち込んだかつての思い出を振り返って、世に大きな声で伝えたい思いだ。

見られることで成長し成熟するということもある。スポーツに限ったことではない。
もちろん見られるからにはそれなりに見てもらえるに値するものがないと、とは思う。
しかし、結果がどうであれ、たった7分の弁論であっても、手話ソングであっても、その短い時間に自分の持てる何か、すべてを注ぎこみ、訴えかけ、表そうとすることは、大観衆に囲まれてではなくても大きなホームランを打つことではなくても、貴重なかけがえのない財産である。

コンプレックスだらけのきみへ。自分に自信を失っているきみへ。

いつかきっと、きみにも実りあるなにかがみつかるよ。
自分の力と夢と希望を失わないように!
3年間を何かのために打ち込むということはけっしてその向こうの人生において、むだではない、むだにならないと信じている。
なぜならわたしがいまこうしていられるのは3年間があったからだ。

障碍があることで2008/09/06 23:44:12

2週後に迫った、3回目の、手話朗読としては2回目の舞台。
今日は実質講師からご指導をいただける最後の日である。
いつものようにみんなと一緒に指導を受けた。そこでは途中から、朗読最後までを演じきった。
終わってから解散、昼食の後でカラオケボックスに場所を移して、有志が集まって講師に特別指導をしていただく。
舞台への入り方、立ち位置の注意を受けてから、全篇をまったく原稿を見ず、声と手話だけで演じてみた。
初めて、仲間にお見せする朗読全篇。思ったより30秒ほど早く読んでしまったが、ノーミスで終えることができた。
仲間からは「感動したよ」と言葉をいただいた。講師からも、よく演じて、気持ちが伝わったと。講師が首を振っているのが目に入る。ちゃんと見てくださっているのだ。特に読み方についての指導はなかった。ということは、間の開け方や感情の出し入れや込め方、読み方など、直すところがなかったのかもしれない。
しかし、これで満足するわけにはいかない。満足してはいけない。
残り2週間。全力を尽くして練習を重ねたい。

ろうあ連盟、映画を製作 SPEEDの今井絵理子も出演
http://www.asahi.com/culture/update/0905/TKY200809050066.html?ref=desktop

8年前に解散した、当時人気アイドルだったSPEEDという4人組のグループは、解散後もショービジネス界で活躍する者、ショービジネスに身を置きながら違う世界に学ぶ者。4人がそれぞれの個性を生かしながら、短期間の再結成をしては離れていた。けれど4人ともこころでは深く結びつきあっているそうだ。
そのメンバーの一人、今井絵理子さんが結婚、ひとり息子を産んだ。先天性高度感音性難聴だという。
かなり苦しみ泣いたと聞く。母として、歌手としての自分の声を子どもに聞かせたかった。けれど息子は母の声が聞こえない。苦しみをへて今井さんはこう語っている。「耳が聞こえないのは障害じゃなくて個性。障害は不便だけど、そうではないことを伝えたい」

先日の24時間テレビで、SPEEDとして再結成。短い時間でメドレーを、手話を交えて歌った。今回の再結成は短期的なものではなく、ある程度長期間になるものだと伝えられている。
今井さんはこのほど、全日本ろうあ連盟がつくる映画「ゆずり葉」に出演するという。これも障碍者との出会いがきっかけだ。

たしかに障碍があるというのは、とてもたいへんな苦難であり、簡単に励ますとか慰めるなどとはできない。わたしの家族だって、わたしの難聴やうつ病を見ながらどれほど苦しんできたことか。
けれど、障碍をへていろいろなことがみえてくることもある。障碍があることが、さらに人を成熟成長させることもある。

朗読の指導から手話サークルへ移動して、手話の世界にどっぷりつかりながら学びを得てきた。今回はろう者の使う手話を学ぶ。
なるほど、視覚言語として、表情を豊かに駆使して表すのだね。そのへん中途難聴者の手話は表情に乏しいとよく言われる。

朗読舞台では、スタンドマイクの制限はあるけれど、できる限りからだ全体を目いっぱい使い、表情も気持も豊かにこめて表したいと思う。もともと演じることが好きなので、舞台に上がっても、からだ全身を使ってゆっくり豊かに表現するだろう。

今井さんが語ったように「障害は不便だけど、そうではないことを伝えたい」 。聞こえなくても何かができる。障碍があることで、かえって見えること、成熟成長させてくれるものもあるのだ。

順調だが気をつけて2008/09/07 22:47:17

昨日のご指導でノーミスを出すことができた。語る内容も自分のなかで消化というか理解できている。

昨日午前中に、舞台で使う映像をデジタルカメラに取り込み直した。さらに、3曲の音楽をどこでどう使うかも指定して、舞台監督にお渡ししなければならない台本にも記入しておいた。自分の台本に記入するのは当然である。

ここまできてまだまだ練習が必要だが、とりあえずの準備は進行している。
順調だからこそ、気を引き締めてさらに取り組みを続けたい。

午後に、いつものように行きつけの喫茶店へ行ってきた。
おいしいコーヒーとお菓子を前に、何度も原稿を読み直したり復唱したり。
とてもリラックスできた、至福のひととき。

からだにやさしい2008/09/08 23:30:04

たま~に外食で利用しているレストラン。「オーガニック ハウス」という、野菜や肉など、できるだけ農薬を使わず魚も獲れたてを使うなど、からだと健康に、そして食べ物にやさしい、というねらいのお店だ。
ここで、玄米とカレーのセットをいただいている。

インドカレーになじんでしまうと、辛さは物足りないように感じられる。
けれど歯ごたえのよい玄米と、ミニトマトやナスなどがはいったキーマカレーは、口の中が炎(ゴジラの火炎!)状態になるのとはまた違った、穏やかな気持ちにさせてくれる。

食べたくても食べられない世界の人々のことを思いつつ。

http://www.e-organichouse.com/deli/house/ginza.html

誰も見ていないかもしれないけれど2008/09/09 21:52:34

たまにではあるけれど、聞こえる人の集まりに参加して、食事や酒を囲みながらすごすことがある。

といっても、正直言ってつらいと感じることが多い。
話の内容がわからない。ホワイトボードで筆談してくださる方がいて、不慣れなのにもかかわらず、ほんとうに感謝している。けれど話し言葉で進む会話の内容を知って、それが自分にも興味ある話題だったり話せることだったりしても、筆談して内容を知った後では、もう終わってしまって次の話題に移っている、なんてことはしょっちゅう。礼拝でも説教を要約筆記してくださるのだけれど、書いた内容と話す内容がずれてしまい、追いつかない。ましてお酒がからんでいると、せっかくの盛り上がった気分をわたしひとりのためにぶち壊してしまうのも、気がひける。
というわけで、話がわからなくても、あいまいであっても、作り笑顔で「うんうん」と言ってしまう。場に合わせてやりすごす。そうやって過ごしてきた。
それが、日本的なというか「和」を保つためと自分を無理やり飾りつけ、周囲からの誤解や偏見から自分を守るために着る、サイズの合わない、まるでフットボールヘルメットやショルダーパッドにジャージのようなものだといっていいかもしれない。サイズが合わなくても着るしかほかにないんだ。自分を守るためなんだから。

でも、とふと考えてみる。
だからといって逆に、酒の場や会議で、自分に合わせろ、自分のために会話のペースを落としてほしい、などというのはどうだろう。
自分がそうであるように、まわりにもペースがあり、話したいことがあり、場面場面を大事にして会話を進めていく。
自分中心に合わせろというのは、マイノリティーだからゆるされるエゴであってはならない。いいかえればわたしひとりが聞こえないからといって、聞こえる人に自分を押し付けるのはどうかと思うのだ。

だから、パーティーや居酒屋などの場で、情報保障がなかったとしても、困るなあ苦痛だなあとは思うけれど、必要以上に要求はせずに、雰囲気を楽しむこともこころがけたい。

自分を押し付けたり主張したりせずとも、どこかでだれかが見ているんだよ。そんなふうに自然体に思えるようになってきた。
肩ひじ張ってみても、疲れるだけ。誰も見ていないかもしれないけれど、神さまはちゃんとみている。

聞こえる人と聞こえない人のあいだに、残念だけれど壁は現実にある。
けれど、だからといって対立関係におくのではなく、ふつうに接してほしいし聞こえる人とふつうに接したい。

朗読の舞台でも、いい意味でリラックスしつつ、伝えるようになりたい。
さ、また練習練習。

I want it to be gain, not loss......Success,not failure2008/09/10 23:59:55

夕方から夜まで、手話つき朗読舞台の、手話表現の指導をいただいた。平日のご指導は今日が最後。あとは週明けの連休にあるだけだ。

ここでも、あいまいな表現が散見されるといわれた。自分でもあやしいなあと思うところがいくつかあったし、意識しているので修正は可能だ。

先日の、土曜日の講師からはとくに、声の表現について言われることがなかったけれど、だからといっていまのままでいいとは、まったく思っていない。それどころか、この連休にみっちり何度でも練習をして、からだで覚えるしかないと思う。

声と手話の両方に気を使わなければならない。声の抑揚は、ある程度大丈夫だと思うが、手話のほうはどうだろう。はじめに書いたようにあいまいなところは当然直さなければならないとして、手話も、朗読内容、原稿で強調したいところ、普通に語りたいところ、マイルドに語りたいところと、変化工夫が必要である。普通の会話ならそこまでする必要がないけれど、舞台上では多くの目がわたしをみている。大きくはっきりめにゆっくり表すこと。

タイトルは、元プロフットボールプレーヤー、シカゴ・ベアーズでランニングバックとして活躍された、ゲイル・セイヤーズさんの著書「I am third」から。

何かを得るために。失うのではなくて。1ヤードでも得るために。
まさにフットボールだね。スナップからプレーが始まって、クォーターバックがパスを投げるかランニングバックにボールを渡して走らせるか。いずれにしてもだ。
そして成功するために。失敗するためではない。
しかし、名誉だとか名声だとかではなく、誰かのために、神さまのために、わたしのこの舞台を理解し、励まし、支えてくださった誰かのために、見に来てくださるお客さんのために。そして最後に、自分のために。I am third.

残りあと1週間ほどしかない。
いのちをかけて、全力を尽くそう。