巨大な広告2008/08/11 22:41:20

銀座を歩いていて某デパート壁面に巨大な時計がみえる。

いま開かれている北京五輪の公式記録時計はオメガ社製を使っているという。オリンピックに限らず国際的スポーツイベントの公式スポンサーや試合などの進行・記録に使われる公式時計など、自社の宣伝を行うのはもはやあたりまえになっている。そういえばF1も昔はタグホイヤーが公式時計を使っていたことがあると記憶しているし、いまは珍しくないことだ。

それにしても、とんでもない大きさだねこれは。

少しやわらいできたかな2008/08/12 21:23:17

まだ日中はかなり暑いけれど朝晩は涼しいとまでは言わないけれど、暑さがやわらいできた気がする。

高校野球もオリンピックも順調にスケジュールが進んでいる。
いくつかの種目で不満があるなど、物足りない気もするが、これがスポーツというものだろう。

明日明後日と、卓球の練習に行こうかと思案中。

深遠な世界 静かに遠くをみつめながら2008/08/13 23:47:27

昨年の朗読舞台で使った、ヴァンゲリスの「イグナチオ」という曲を思い出している。シンセサイザー音楽だが、静かな出だし、まるで夜明けのような、深遠な世界をイメージさせてくれる。昔見た科学番組「COSMOS」でも使われて、ヴァンゲリスのほかの曲とともに、とても印象深い。

で、なんで昨年の曲を思い出したかというと。
昨年の舞台のあとで何人もの方から「いい曲だね」と言われたのだけれど、いまこうして仕事をして、まもなく一カ月後に迫ってきた舞台など控えている。
どれだけ集中したかしなかったか。できることに、人生を、すべてをかけて取り組んだか取り組まなかったか。

評価がどうであったか、多くの人に認められたかどうか、認められたいか、と結果や周りを気にしないこと。
気持ちを穏やかに、遠くかなたにある目標を見つめて、今できることにだけ集中していこう。

静かに遠くを見つめながら、こころのなかにこの「イグナチオ」という曲を聴いていきたい。

ようやくたどり着けるもの2008/08/14 23:16:03

仕事を終えてから卓球の練習へ。フットボールジャージはもちろん、びっしょり濡らして汗を流してきた。練習は裏切らない。補聴器をはずして教えていただく。当然、音は聞こえない。教えてくださった方はわたしが難聴だとはまったく存じない。だが食いついてどうにか教えていただいたことを習得することができた。

さて話を変える。
いま聖書にはさんでいる、いくつかの言葉を引用してみたい。

態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。

We must change to remain to the same.

God
Grant me the serenity to accept the things I cannot change.the courage, to change the things I can, and the I wisdom to know the difference.

ひとことで「変わる」というけれど、ガラッと変わってしまう、劇的な変化などありはしない。変わるということは突然起こることではなくて、じっくり時間がかかり、いろんなかっとうや苦しみや悩みをへて、ようやくたどり着けるものだと思う。そうでなければ、変わったということが周りに伝わらない、実感として受け止められないのではないだろうか。

変わるためには、自分のいまのありよう、あり方を受け入れ、未来の自分にとって必要なものと不必要なものを識別する眼と、変わることを受け入れようという勇気。そして根っこにある、それまで自分をつくりつちかってきたものにたいする確固とした確信があって初めて、できるのではないだろうか。

だから劇的な変化などありはしない。あったらうそだとわたしは思う。
柳のようなしなやかさと、何者にも左右されないという強い意志と。相反するようだけれど、このふたつが、「変わる」ために必要なものではないだろうか。

あれは夢? 力? それとも……2008/08/15 23:47:22

1972年札幌五輪。90メートル級(現ラージヒル)会場だった、大倉山シャンツェ
1972年札幌五輪。アジアで最初の冬季五輪であり、サッポロ、そしてホッカイドウへ世界の目が注がれた、テロにおびえたり過剰なナショナリズムで演出されたりすることのない、スポーツの美しさと感動を伝えたすばらしい大会だった。

その札幌五輪。
70メートル級ジャンプ(現ノーマルヒル)で、日本が金・銀・銅を独占した。後世「日の丸飛行隊」と名づけられ、冬季五輪で日本のスキージャンプチームが話題にのぼる時、常に取り上げられる。
その、「日の丸飛行隊」のうちのひとり、青地清二さんが、昨日8月14日、胃がんのため亡くなられた。66歳だった。北海道小樽市出身。

写真は、その70メートル級ジャンプではなく、90メートル級(現ラージヒル)会場だった、大倉山シャンツェ。しかし昨年11月に訪れたシャンツェは、35年がたったのちも、まるでいまにも歓声が聞こえてきそうな錯覚をおぼえた。
大倉山シャンツェにある「虹と雪のバラード」歌碑について書いた記事は
http://todaywesonghands.asablo.jp/blog/2007/11/23/

北京五輪で日本女子柔道や体操男子などの活躍にわいているいま、同じくあのころ日本中を感動と興奮につつんでくれた、素晴らしいアスリートが天に召されていった。

時代は変わり、しかしスポーツによって人々に感動を与える営みは、人類ある限り永遠に続く。平和だからこそスポーツがあり、勇気づけられ感動を抱き分かち合えることができる。テロによる恐怖や過剰な演出に彩られたナショナリズムなど、まっぴらごめんであり、スポーツには不要である。
終戦記念日ではなく敗戦記念日として、8月15日を思う。戦争は人々の心を深く傷つけ、憎しみと悲しみしか残さない。

あの日あのとき、すばらしい感動を与えてくださった青地さんに、こころからありがとうございました。こころから深く感謝の言葉をおおくりしたい。
そして、やすらかにおやすみください。こころからご冥福をお祈りいたします。

遠くから雷鳴が2008/08/16 22:26:27

夜自宅に帰ってさあ、食事、おっとその前になにやら外がピカピカ光っているぞ。と、ベランダに出てみたら雷が遠くで鳴っているらしい。

雷の光そのものをとらえることができなかったけれど、雲の向こうで光っているのがおわかりだろうか。

台風が近づいていて大気が不安定なために今日一日は蒸し暑かった。にしてもまさか落雷とは。埼玉県では7万世帯が停電、デパート内の客が一時避難するできごともあったという。

なんだかおかしな夏だね。

内面的な音の世界2008/08/17 22:24:42

今日また、午後から夕立ち。雷こそなかったけれど、急な雨に、ビニール製の傘を急きょ買わなければならないはめに。うんざりだね。

自宅に帰って、音楽と朗読を組み合わせて練習してみた。う~ん。
いまいち音楽が、当初イメージしていたのと合わない。しかも長すぎて朗読部分を超えてしまう。
思案した揚句、手元にある、おととし見た映画「敬愛なるベートーヴェン」のサウンドトラックから、「アンナのエチュードとバリエーション」「ディアベッリの主題による33の変奏曲」の一部、そして「第9完成」の3曲を使うことに変更する。
「第9完成」は、CD付属のライナーノートによれば、この映画の追加作曲を担当した、ポーランドの映画音楽作曲家、アントニ・ラザルキエヴィチ(ANTONI LAZARKIEWICZ、1980年3月12日ワルシャワ生まれ)の作だという。年齢もさることながら、あの有名な「第9」第4楽章をアレンジ・再構成したもので、聴覚障害をもつベートーヴェンがおそらく耳にしていたであろう内面的な音の世界を、一種の“リミックス”によって達成しているところに注目したい、とある。
朗読でも最後に「わたしたちはどこかでつながりあっています」とある。兄弟が和解してひとつとなる、というシラーの詩と重ね合わせて、ひょっとしたら使えるかも知れない。

なんぢを強くせん 誠になんぢを助けん2008/08/18 22:39:08

自分がやりたいと思うことやろうとしていることについて。
みんながみんな理解してくれるわかってくれるとは限らない。
障碍についてもそう。
いくら理解してくれといったってわかってもらえるかどうか。やはり当事者でしかわかりえないこともあるのだ。
わかってくれと一方的に言ったところで、はたしてどうだろう。
 
わたしは思う。自分のこころしか、自分ではどうすることもできないのだ。ひとのこころはわたしにはどうすることもできない。
ただあるのは、自分のこころを自分でコントロールすることしかない。

来月に迫った朗読舞台。
たしかに「個人的」な意図かもしれないけれど、それは個人的な、というよりはもっと大きな意味があり、やることに意味があるのだといまでも疑いはまったくない。
しかし、それを理解してくれない、理解しないひともいるということ。

 天の父は、その日を悪しき者のうへにも、善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給ふなり。
                       (文語体 新約聖書 マタイ5:45)

わたしは、自分がやりたいやろうとしていることについて、意味があるのだと確信している。そして神さまはわたしをみておられる。
同時に神さまは、わたしがやりたいやろうとしていることを認めない、理解してくれない、理解しないひともまた同じようにみておられる。

そもそもが、舞台を見に来てくれる方はもとより、演じるひとも含めて、たぶんほとんどが聞こえるひと。聞こえないのはわたしだけ。なんで手話なのかなんで朗読なのかなんで映像や音楽を使わなければならないのかといぶかしく疑問に思うひとがいることだろう。

でも、だからといって「理解してくれ」と声高に叫んだり主張したりしても、かえってうるさいか目障りなだけだ。
主張することも大事だが、静かに、おだやかに流れるせせらぎのように、取り組むことも大事だ。

わたしのやろうとしていることやりたいことに非難をしたり理解できないという人も、あっていいし、そういうひともいるから社会なのだ。理解のないひともまた、わたしの問題を照らし出すために必要な存在なのだ。
 
わたしは思う。
わたしのやろうとしていることやりたいことについて非難や批判をし、理解しないひとがいるということは、わたしのやる気がどれだけ本気か、どれだけ本気でやろうとしているかを試すために存在しているのだと。
そういうひとは、わたしを試すために存在しているのだと。
 
そういう人にいつかは理解してもらえるように。今回は難しいとしても、いまできることしなければならないことに全力を尽くすだけだ。
それでいいのではないだろうか。 

 おそるゝなかれ 我なんぢとともにあり 驚くなかれ我なんぢの神なり
われ なんぢを強くせん 誠になんぢを助けん 誠にわがたゞしき右手なんぢを支へん
                    (文語体 旧約聖書 イザヤ書41:10)

 汝すべての途(みち)にてエホバをあがめよ さらばなんぢの途を直くしたまふべし
                    (文語体 旧約聖書 箴言 3:6)

いろいろな考え方があっていい2008/08/19 23:36:30

手話の学習会に参加してきた。表現についていろいろな考え方があっていい。
たとえば「言われたとおりに薬を飲まないから風邪が治りにくい」という例文を前にする。

「言われたとおり」を、片手親指を前に出して人と表し、人から言われたと表す方法。
わたしは表さなかったけれど、片手ひらにもう片方の手を折り曲げて突き刺す、「説明される」という表現もあっていいだろう。
「薬を飲まないから」。薬を飲まない理由で、としてもいいだろう。

「天気が晴れて気分がいい」。わたしは「気分がいい」を、手のひらを下にした片手を、下からもう片方の手で突き上げる「最高!」という表現でやってみた。

ともあれ、これだけ、と決めつけないことだ。
いろいろな考え方があっていいし、自分と異なる表現をする人のそれも、十分参考になると思う。

有形無形の支えをいただいて2008/08/20 23:58:08

日付の上では1カ月前になる、手話つき朗読舞台。今日を終えてあと2回の手話ご指導をいただく予定だ。

もうずっと何年も前から言われていたことなのだけれど、わたしの手話にはくせがあるらしい。肩幅のあいだの範囲で表しなさいとか、大きすぎないようにとか、具体的なアドバイスもいただいていたけれど、どうしてもわたしにはオーバーというか過剰なところがある。舞台上ではそれでいいのだけれど、実生活上での会話では、ちょっと会話にならない。

で、今日の手話では、さらに具体的にアドバイスをいただいた。
つまり、肩幅がどうとかいう、手の位置もさることながら、あいまいな動きが問題なのだと。
たとえば、「愚痴や恨みつらみ」というときに「不満、怒り」とはっきりあらわすべきなのにあいまいな動きをしている、というように。

より具体的な課題が出たということで、さらにはっきり、読み取れるように練習を重ねなければと思う。

有形無形の、さまざまなアドバイスやご理解支えをいただきながらあと1カ月に迫った舞台に向けて取り組みが進む。
いろいろな支えをいただいていることを、ほんとうにこころから深く感謝したい。