日本語 四字熟語2007/11/10 23:47:29

試しにつけていた、終日つけられるコンタクトレンズをいったんはずして眼科医にみてもらった。痛みも違和感もなく、眼球に異常もない。いまあるのを使い切るのとあわせて、使い切った次回からはこのレンズでいくことに決めた。

そのあと、実生活での音量デシベルをチェックすることができる機械を借りてきた。補聴器を購入するといっても、やはり何度も調整を重ねたり、聞こえ具合を確かめたり。その繰りかえしが重要である。実生活上でどの程度音が聞こえているのかいないのか、状況や場面ごとに聞こえる音量、デシベルがどれくらいなのかのデータをとることによって、補聴器を購入するさいの参考になるだけではなく、どういう音や状況場面に合わせたらいいのかなど、単なる聴力に合わせるのではなく、生活場面や状況によって必要な聞こえ具合と、補聴器の設定をすることができる。
コンタクトも補聴器も言ってみれば、からだに着けるという意味ではどちらも問題なく着けられるものでなければならない。だからこそこうした、チェックが欠かせない。

さて。四字熟語である。

手話でどう表すだろうか。もし熟語の意味を尋ねられたら手話でどう答えるだろうか。そんなことを考えてみた。実に面白いテーマである。

容姿端麗 相思相愛 一病息災 一日千秋 竹馬の友 同病相憐 純情可憐 頑固一徹 三寒四温 馬耳東風 有言実行……。

漢字で表すこれらの熟語だが、たった四文字で簡潔かつ正確に表現できるということの不思議さ、すばらしさ。漢字といえば中国だけれど、論語などの古典でもこういった言葉があるらしい。
英語やドイツ語にはない、漢字という世界のもつすばらしさ。これを大事にしていきたいとあらためて思ったのである。

最近の若い人が使う表現のひとつに「わたしゎ」がある。初めてみたとき驚いたのはいうまでもない。いくら読んでもやっぱり寒気嫌悪感を感じてしまう。みなさんはどうだろうか。

四字熟語に戻るけれど、これらのなかには今の実生活で見聞きしたり経験体験できないものがあることにお気づきだろうか。
たとえば竹馬。
わたしはとうとう乗るどころか乗りこなすこともできないままだけれど、子どものころは竹馬で遊んだ友人が多かった。そして竹馬で遊ぶころから成人に至るまで長い付き合いをするほどの友人、人間関係をつくることが今の子どもたちにあるだろうか。ゲームの友……? う~ん。なんだかピンとこない。

今という時代をみると、モノはたくさんあって豊かに見えるけれど、こころがやせ細っている、あるいはからからに乾ききっているのではないだろうか。日本語も、朗読仲間と話してみて出るのは、今の歌の歌詞は表面だけ、こころまで訴えかけるような感じがしないというのである。昔の歌謡曲やフォークソングのような、こころからにじみ出る思いや気持ちがあった。だから10年20年と長く歌い継がれてきたというのである。

わたしの好きな歌のひとつに、海援隊の「思えば遠くへきたもんだ」がある。
これは、手話でやってみたい歌のひとつだ。

  踏切のそばに咲く コスモスの花揺らして
  貨物列車が走りすぎる そして夕日に消えていく

出だしから、情景がまぶたを閉じても浮かんでくる。

  筑後の流れに 小舟釣りする人の影
  川面に淡く 浮かんでた 風が吹くたび揺れていた

ここで九州は福岡の筑後川が舞台だというイメージができるだろう。しかし筑後川でなくても、川べりで釣りをしている場面でもいい。

言葉という文化を手がかりに考えてみる。
これからのち、もしわたしたちが生きられて高齢者になったとき、はたして日本語はどうなっているだろう。生き生きした、豊かな表現が感じられるのだろうか。