本気で2009/10/22 23:12:05

仕事を終えて少し用事をすませてから、職場から最寄りの駅近くの喫茶店で人がくるのを待つ。
今日は会社の社員といっしょに学ぶ手話教室の立ち上げ、第一日目だ。お茶を囲んで、テキストを開き、単語、手の動きや正確な表わし方を教えながら、楽しくおしゃべりと学習を兼ねた、そんな集まりだ。

テキストはわたしがかつて講習会で学んだときに使ったテキスト。あとはサークルで使ったこともある手話単語辞書。それに、筆談用のノートを。
前日、会社の上司と立ち話をしたのだけれど年度内途中の立ち上げだし、会社内にある部屋を借りることはもちろん、手話通訳士を講師としてお招きすることもおそらく予算もつかないだろうから無理。実績を作っていって、会社内で理解が深まっていって「じゃ、予算をつけてあげよう」という段階になるまでは。まず「隗より始めよ」からである。

手話に関心を抱いてくださるかたがひとりでもいると、わたしもうれしい。
「教える」かたちではあるけれど、どちらかといえば手話の世界への先導役、とでもいえばいいだろうか。今回教えた人が途中で会社を辞めることになったとしても、そのあとも手話を学び続けることになれば望外の喜びである。

朝、「日本手話」を教えてくださる手話通訳士の方からメールをいただいた。
特別なテキストは使わず、むしろ勘どころとでも言えばいいのか、対応手話ではなくろう者の発想、「意味をとらえて表す」ことを主眼にします、という方向性を示してくださった。舞台と違っていついつまでに、という明確な期限がない代わりに、どこまでも取り組み続けようと思えばいくらでもできる。

これからさき、残りの人生をかけて、本気で大切な人のために、聞こえる人と聞こえない人、ろう者と難聴者のために生きたい。本気で「神と人のために」生きた人生を残したといえるようになりたい。大切な人のこころのなかにわたしが少しでも残っていてくれたら、と思う。
「神と人のために」生きた人生を、というのは明確な期限がないということでもある。同時に、軽々しく口にすべきことではない。だが先月の舞台をへて、すべてをかけて取り組みたい、と思っていた。
いつかはわたしも神のもとへ召されるときが必ずくる。
だからこそ、「神と人のために」生きた人生を、自分の力ではなく、神が示してくださるのだと信じている。