おまえさんはどうなのだ?2009/10/25 00:53:15

今日の礼拝説教。マタイによる福音書7章1~5節がテキストであった。

 なんぢら人を審くな。審かれざらん爲なり。
 己(おの)がさばく審判(さばき)にて己(おのれ)もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己(おのれ)も量らるべし。 
                 (文語体 マタイによる福音書7章1~2節)

現代日本語の訳では「裁かれないようにするためである」とあるが、高校時代に初めて読んだ時からずっと、もどかしさというかすっきりしない印象を受けていた。「裁かれないように」しぶしぶ、しかたなくという消極的な意味だとばかり思っていたのである。

けれど消極的な意味ではなく、しかたないでもなく、神と人間の関係をここでも明確に表しているのではないか。今日の説教を聞きながらふと、わたしはどうなのだろうと思う。

つまり、裁くという行為はあくまでもイエス・キリストおひとりしかできない。イエスさましか裁きをすることができない。自分の価値観や判断で人を判別したり嫌悪を抱いたりするのと同じく、立場を入れ替えれば、相手も彼の価値観や判断でわたしを判別するだろう。
だのに、裁くとはどういうことか。自分をあたかも神、あるいはキリストと同列に置いているのか? そう問いかけられているようにも読める。そうだとしたら、しぶしぶ、しかたなくという意味とは全く異なる。

現実には犯罪を犯した人への裁きがあり、裁判官もいる。刑によっては究極の刑罰――判決や容疑・事実認定が誤っていたとしたらとりかえしのつかない刑罰――死刑もある。

栃木県で起きた幼女殺害事件の容疑者として逮捕され、17年間服役していた男性が容疑者ではないと釈放され、再審を求めている「足利事件」についての番組をこのあいだテレビでみた。
事件の裁判にかかわった当時の裁判官がインタビューに、自らの誤りについて認めていないような発言をした。当時はあれでよかったのだ、という。
法律の専門家としてはそうかもしれないだろうし、メンツもあるだろうと思う。
けれど17年という時間を奪われた人の苦しみに、もっと人としての優しさというかいたわりをもってほしかった。あまりにも門前払い、自分は正しいのだという言い分が表に出すぎて、人間性が感じられなかった。

プロとしての裁判、裁判員と人間関係の価値観や判断とは、異なるかもしれない。
人を判別したり嫌悪を抱いたりすることでいえばわたしも人間だから、嫌いな人もいるし会いたくない人もいる。残念だけれどね。
だが、わたしは思う。
少なくともキリスト者としては、お前は自分をあたかも神、あるいはキリストと同列に置いているのか? と。