「自分だけが」という思い2007/07/12 23:36:14

何度も書いていることだけれど、職場ではわたしだけが聞こえない、難聴者。しかも普通に話せるために、一見難聴者とは分かりにくいために、周囲とわたしのあいだにずれができる。そのずれは目にみえにくいから、誤解からひどいときは差別されたり酷評されたりする不利益をこうむる。

今日はいつもの卓球練習の後、新しく入ったメンバーの方とお茶をともにしながら、ワンセグ放送で字幕つきテレビ番組をみることのできる携帯電話を見せてもらって驚いたり、卓球技術の話をしたり、今日も試合があったアメリカンフットボールワールドカップの話をしたり、手話について日本手話と日本語対応手話の違い、ろう者と難聴者の会話のずれ、朗読などなど、話題が広がった。ちなみにこれ全部、手話で会話を交わした。

う~ん。やっぱり手話を身につけてよかったと思うのは、こうして手話でおしゃべりができるときだ。
もともとわたしは(男の割には)おしゃべりなほうだが、聞こえる人が相手だと、一方通行の会話になってしまう。「ええ」「そうですね」「ふーん」「なるほど」……。分かっているとはけっして言い切れないのに、相づちを打ってしまう自分が悲しくやりきれない。騒がしいところで「もう一度言って」と言い返すのが迷惑になっては、とためらい、適当に相づちを打ってしまう。それならまだしも、だんだん相づちを打つのに疲れ切って、黙りこくってしまう。そして本来のおしゃべりなわたしではなく、違う自分を演じなければならなくなって、結局はやりきれない徒労感を味わってしまうのだ。

手話ソングや朗読の舞台上で違う自分を演じるのは、別人格を演じる喜びと、自分をさらけだし表現する喜びがあるから、苦しみも恥ずかしさも感じない。が、日常会話をするときの違う自分を演じるというのは、まったくもって苦痛以外の何ものでもない。

タイトルに「自分だけが」という思いと書いた。
意味するところは、職場でも教会でも聞こえる人ばかりの中で、自分だけが聞こえない、という苦痛だ。それがだんだん昂じて、誰も分かってもらえない分かってくれないといういらだちになり、うつ病につながっていったのだ。

いまはどうだろうか。
さきにも書いたように手話でおしゃべりができる、舞台上でソングダンスや手話つき朗読を表現するという目標があるから、いくぶんかは気持ちが楽になった。たしかに朗読は難聴者はわたしひとりだが、声で自分を、違う誰かを演じる喜びがあるから、差別も疎外感も苦しみもまったく感じない。

手話でおしゃべりをしているとき。声で違う誰かを演じているとき。
ありのままの自分でいられるのが楽しい。自分だけがという思いにとらわれることなく、自然のままでいられる。