すべてが生きている2007/07/22 22:09:49

前日からの疲れが残っているため、今日はとても疲れた一日だった。
しかし、そんななかでもわたしのこころを揺さぶり奮い立たせてくれることがあった。

礼拝後の小集会である本をテキストに学んだ。
『この光にふれたら』(藤木正三 著  日本基督教団出版局)。

『神は生きている者の神である』と題された章の要約を以下に記したい。

聖書はいろいろな読み方をされる。渇いた心で慰めを得よう、進むべき道を求めて読む。処世訓のようなものとして。歴史上のイエスという人物に学ぶ。社会的政治的視点。古典として。いろいろな読み方があって自由だが、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイによる福音書22章23~33節)といわれたとき、はっと立ち止まらざるを得ない。
死んだ者の神ではなく生きている者の神。そのように信じたとき、聖書を思い違いしないで読んだことになる。神さまはあらゆるものにいのちを与え、それを支えて働かれるお方だ。全てのものを生かしつつ神である。死んでいるものはなにひとつない。全てがそこでは生きている。「神は生きている者の神である」とは、そういう意味なのだ。

そこから、著者である藤木さんはこう書いておられる。全文を引用したい。
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「神は生きている者の神である」のです。神さまの前では全てが生きているのです。ですから、つまらぬ雑用も生きるのです。無駄と思える努力も生きるのです。踏みにじられた厚意も生きるのです。役に立たなかった準備も生きるのです。報いられなかった忍耐も生きるのです。はかなく潰(つい)えた希望も生きるのです。そうです。皆生きるのです。孤独も生きる、病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、罪さえも生きるのです。そのように全てを生かしてくださる力、それが聖書の神さまです。
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昨日手話通訳士の方に朗読と手話の同時進行、演技は難しいよ、といわれました。それでもなお、わたしはあきらめずやめることなく、練習を始めています。今日もブツブツ言いながらバスや地下鉄の車内で台本を暗誦したり手話を(実際に手を動かさずとも)イメージしてみました。
2カ月後にどうなるか。ドレスデンとアムステルダムへ行き、肌身で感じてみたい。そして感じたままをスライドにして、手話と朗読をやりたい。
無駄かもしれません。はかなくついえるのかもしれません。希望で終わるのかもしれません。でも、すべてが生きるのであれば、わたしの歩みもいつかは実を結ぶのでしょう。

死んでいるものはなにひとつない。全てがそこでは生きている。「千の風になって」の歌詞を思います。墓の中にいるのではない。死んでも生きているのです。
聖書にあります。希望は失望に終わることはない、と。

嘲笑の対象にされるかもしれないし、舞台がどうなるかわからない。
けれども、取り組んだこと、努力したこと、やりたいと一歩足を踏み出したこと。それは一見無駄であり無意味かもしれないけれど、いつかは生きてくるのだと確信します。生きている神さまを信じている者として、聞こえない耳と普通に話せる口をいただき、とても図々しく厚かましく舞台慣れしている者として、舞台に向けて感謝と熱意を抱いていきたい。

光が反射している葉。この葉一枚もその日一日を生きているのです。
わたしもまた、一日をよく生きたいと、葉を見ながら思わずにはいられません。