地球温暖化と梅雨明けの関係2007/08/01 22:28:00

例年より12日遅く梅雨があけたというけれどいまひとつ実感がない。非常に強いという台風5号の接近が伝えられ、週末はまた天気が崩れるのかもしれない。

遅れる梅雨明け、地球温暖化が影響か
http://www.asahi.com/science/update/0801/TKY200708010220.html?ref=desktop

地球温暖化と梅雨明けの関係はじっくり調べないと、本当のところは分からないのかもしれない。しかし、これだけ梅雨明けが遅いというのはちょっと異常ではないだろうか。
地球の時間は人間社会のそれとは異なるスパンである。だからこそ、人間がかかわるさまざまな活動が、地球の<健康>を損ねることにかかわっているとするなら、もし地球温暖化と関係があるのなら、わたしたちはいまの生活のありよう、姿を変えていかなければならないのではないか。
買い物袋を断る。無駄な電気を使わない。いろいろできることがあるはずだ。

話は変わる。

仕事でも毎日の通勤途上でも、プライベートでも、いやだな嫌いだなと思うできごとや人に出会うことがある。今日も実際、ほとんど話をしたことがない、お互いに嫌悪を抱いている人とすれ違った。
そのあとで、ふと思った。
彼の存在は、自分を成長高めるためにいるのではないだろうか、と。

聖人君子ぶっているのではない。
ほんとうにそうこころから感じているのだ。

いろいろな場面で出会う、理不尽な扱いをされたとか、悔しいと感じたとか、嫌いな人間と出会ったとか。人間の世はそういうものなのだろう。
そのとき、人間だから嫌いになるのはしかたないとして、そういう相手にも同じような嫌いだという感情がある。自分だけではない。そして彼彼女にも、かつて同じような思いをされたことがあるのではないか、と一歩ひいて想像してみること。そうすると、自分だけではないのだということに気づく。

なに、ちゃんとだれかがどこかでみているのだから。
いつかはわたしにも理解してくれる人がみつかるだろう。いまの四面楚歌のような状況はそうそう長くは続かない。誰もがいつかは神さまのみもとに召されていくのだからね。
理解してほしいと望むのではなく、周囲を自分の状況を理解するようになろう。そこからファーストステップが始まる。

いつまでも色あせない2007/08/02 23:48:07

仕事前に朗読の練習。終わってから卓球の練習。からだを動かして疲れたけれど、気持ちは落ち着きとてもリラックスした状態である。

25年前。
部活動の先輩のご自宅におじゃまして、流れてきたある曲に耳を奪われた。♪かわいいふりして あの子 わりとやるもんだねと…… メリハリのきいた転調とテンポのよいリズム、美しいハーモニー。あみんの「待つわ」だった。

待つこと。けなげに彼氏を待っている。思いを寄せているのだけど、その彼氏に思いを寄せている別の人がいるらしい。でもわたしは彼を忘れられない。だから彼がふられるまで、待ち続ける。

そんなストーリーを思い浮かべるのだけど、やはりあのころのわたしには難しすぎて分からなかった。
25年たったいま、まだ思われることも待ち続けてもらえる経験もないけれど、一途な思いは理解できる。その思いをすてきなメロディーでつづった曲は25年後のいまもなお色あせない。

昨日、作詞家・小説家・エッセイストの阿久悠さんが亡くなられた。

この方の作詞された曲も、忘れられないものがたくさんある。
「S・O・S」「ペッパー警部」「サウスポー」「UFO」「また逢う日まで」「津軽海峡・冬景色」「勝手にしやがれ」「北の宿から」……。

最近は行くことがないカラオケだけれど、行ったらたぶん上に挙げた曲のほとんどを歌うだろう。たぶん昨晩と今晩のカラオケボックスでは、阿久悠さんが作詞された曲が多くかけられたに違いない。

たくさんのすばらしい曲をありがとうございました。こころからご冥福をお祈りいたします。

有名な人だから、けうな才能を持った人だから、と割り切って考えることもできる。
けれど、才能のあるなしに関係なく、わたしたちはみな一人ひとり、何らかの「できること」を与えられているのだ。ただそれがものすごい能力であったり目立ったり人目をひいたりするだけであって。

有名になんかならなくてもなれなくてもいいじゃないか。
みんな一人ひとり、世界でたったひとつしかない貴重な存在だから。

いつまでも色あせない何かを残していこうよ。
きっと誰かがわたしを、あなたを見ているから。

深みのある歌はもう聴かれなくなるのだろうか2007/08/03 23:20:51

昨日の記事で、作詞家・エッセイストの阿久悠さんについて書いた。
彼は昨日挙げた以外にも、名曲が星のごとく輝いている。
そのなかでどうしても、と言われたら。わたしはピンク・レディーに書いた「S・O・S」「サウスポー」「UFO」といったポップスもいいけれど、知られていない名曲を挙げる。
たとえば「鳥の詩」である。

あなたがいたころは 笑いさざめき
誰もが 幸せに みえていたけど

この出だしで人のこころをひきつける。
2番の出だしはこうだ。

あなたを想うのは 日ぐれ時から
あたりが夕闇に沈む時まで

夕焼け。なんと寂しさを感じさせる時間であろうか。
好きな人を思い、夜に闇に包まれていくあいだも思い続ける。
  
あなたはいつの日か 巣立つ私を
静かな微笑みで見つめてくれる

3番はそれまでの思い続ける孤独さから一転して、巣立ちという言葉で、新たな出発を予感させる。
 
人は人と別れて 愛の重さ覚え

そうだね。人と別れてはじめて、愛がどれほど幸せに、ときにはつらく重いものであるか気づかされる。

昨日のこの記事で「待つわ」の歌詞の意味が分からなかったと書いたが、それは単にわたしが未熟だった、人生経験に乏しかったということ。いくつもいろいろな経験を経たいま、「鳥の詩」も「待つわ」も、その世界がよくわかる。

こういう、深みのある歌はもう聴かれなくなるのだろうか。
ちなみに「待つわ」は手話ソングにするために手話訳を覚えた。いつか「鳥の詩」の手話訳にも挑戦してみたい。あるいはもう存在しているのかもしれないけれど。どちらも、やり方次第では一般の合唱団でも歌えるかもしれませんね。

顔をあげて天を仰ぎみるとき2007/08/04 23:46:57

今日は今月唯一の、朗読の仲間が集まったレッスンの日。とはいえ、講師にお願いして有志で別の日にレッスンをうける予定もある。今日のわたしは、今回のテキスト中一番長い個所を手話とあわせて演じてみた。9月は一日しかレッスンに参加できないため、最低限、今月いっぱいは集中して朗読に取り組むしかない。

今日のレッスンでは、講師から「強調したいところと、そうではないところを分けて読むといい」と指導をいただいた。
終わってからいつものように喫茶店に朗読仲間が集まっておしゃべりを交わしたが、そこで仲間からは「(もともとの)テキストに説得力があるのだから、かえって声に力を入れるとよくない。淡々と平坦なトーン、声で読むといいのではないか」とアドバイスがあった。

どちらも正しいし、間違っていない。反対にどちらかのみにこだわるのはよくない。
手話についていえば、手話講習会や地元での手話教室などで教えていただいた手話通訳士の方から「手話は自分の思いが強く出る言語です」と。気持ちを込めて、原文に従いつつ、自分の手話で語ることが大事だとおっしゃってくださった。

昔。小学校のころのこと。
跳び箱などの運動の授業がいやで、いまでいうサボタージュをしたことがある。理由は単純なこと。跳べないから。うまくいかないから。

それがどうだろう。30年以上たって卓球だの、手話朗読だのといろいろ取り組みたいことに出会えた。

たしかに限界はあるかもしれない。みんながみんな、すばらしい一流のアスリートでも俳優でもない。一流になれるのはごくわずかな人たちなのだ。一流とそうではない人たちとの違いを、ここで論じたり語ったりする意味はない。
大事なことは、聞こえなくても普通に話せるということ。声と手話の両方で何かを、自分を表現できる機会が、場が、与えられたということだ。

「顔をあげて天を仰ぎみるとき」と、アンネ・フランクは書いている。
恐れることなく天を仰ぐことができるかぎりは、自分のこころが清らかであると。いつかは幸せを見いだせるということを信じられる。
だから、何ものも恐れることはない。しかし尊大になったりおごったりしてもいけない。
聞こえなくても普通に話せるということ。声と手話の両方で何かを、自分を表現できる機会が与えられた。そのことにただただ感謝しつつ、この朗読と手話の発表の機会に、自分のすべてを尽くして取り組みたい。

9月22日(土曜日)13:30~18:00ごろまで(予定)。
下北沢の「しもきた空間リバティ」でひらかれます。
もしご関心のある方がいらっしゃいましたら、わたしたちの日ごろの成果を聴いてくだされば幸いに存じます。

We shall over come2007/08/05 22:55:22

やっぱり週末になると疲れが出るのかな。今日も礼拝説教はなんとか耐えることができたけれどそのあとの集会がさんざんだった。疲れている上に聞こえないから、参加している実感があまりなく、本音を言うとちょっとしんどい。

それでも行きつけのレストランで台本なしで、朗読の練習に取り組んだ。といっても誰も聴いているわけではない。

今日読んだある地方紙の記事に、原爆をテーマにした朗読というのがあった。明日埼玉県草加市でひらかれるらしい。
その記事には、「押しつけがましくならず、静かに語る」とあった。

わたしが今回やる朗読もテーマがテーマだから、力を入れてしまいやすい。なにせ手話つきだから。
手話を交えて読むことでからだに力が入り、前のめりに、どんどん動いてしまうかもしれない。

それはそれで大事なことだけれど、スライド上映があり、そもそもが説得力のある作品なのだから、押しつけがましくなっては元も子もない。

We shall over come。
しかしわたしの正しさを主張するのではなく、わたしが絶対に正しいというのでもなく、主が先立ってくださるのだということ。
わたしが口と手で語るけれど、わたしではなく神さまが導いてくださる。

62年たったいまもなお なぜ?2007/08/06 23:22:48

週があけたと思ったら、また早々にとんでもないニュースがはいってきた。

ホームレス「死んでもいい」 殺人未遂容疑の少年ら
http://www.asahi.com/national/update/0806/TKY200708060137.html?ref=button

高校生ら5人、殺人未遂容疑 寝ていた男性に火を付ける
http://www.asahi.com/national/update/0806/TKY200708060090.html?ref=button

東京都北区赤羽の公園のベンチで寝ていた男性を、少年5人が襲い、腹部に火をつけて殺そうとしたという事件である。

記事によれば、リーダー格であるタイル工の少年は「乞食は最低で、世の中の役に立っていないから、犬猫と一緒。汚くて街に迷惑をかけており、死ぬのを待っているだけ。死んでも仕方がない」と話している。ほかの少年4人は「火をつけて乞食をいじめたかった」「怒って追いかけてくるのがおもしろかった」と話しているという。

「乞食は最低で、世の中の役に立っていないから、犬猫と一緒。汚くて街に迷惑をかけており、死ぬのを待っているだけ。死んでも仕方がない」という発言が事実だとしたら、まったく言語道断。彼らの言動にはまったく理解できない。

犬猫と一緒というが、犬猫にもそれなりの生きる意味があり、価値がある。役に立っているかいないかが問題ではない。
一番怒りを覚えるのは、自分を上位においてあたかも絶対的存在あるいは優越者であるかのようにふるまい、自分以外は価値がない、という発想である。誰が「死んでも仕方がない」という判決を下す資格があるだろう。誰にもない。もちろんわたしにもない。この少年にもないのは当然である。

アンネ・フランクも、なぜユダヤ人であるというだけでこんな目に遭わなければならないのか? と問うている。なぜ? 62年がたったいまもなお、こういった事件が起こるのは、なぜだろう?

街に迷惑をかけているという主張に百歩譲って一理があるとしても、そうしている、彼らがそうさせられているのはなぜなのか? というところに目が届かない。あくまでも最終的には排除するしかない、という論理である。

わたしたち障碍者も、ナチスによって虐殺された過去があり、いまもなお社会的に不利益な立場におかれることもある。

他者の苦しみに思いをいたすことのない人間は、けっして自分が同じ立場におかれることを想像できないし、想像しようともしない。

こんな事件がまた起きて、いったいほんとうにこの国は「美しい国」なのだろうか。そもそもこんな言葉を口にしたり本にしたりするこの国の指導者こそ、軽い、あいまいで大衆受けしやすい言葉でわたしたちを愚弄してはいないか?

この事件を起こした少年たちが、本当に他者の苦しみに目覚める日が来るように。口先ではない、いのちを大切にする社会であるように。

暑さに負けそう2007/08/07 23:49:21

あんまりにも暑くて、仕事のあいだ中、外へ出る気になれない。明日から夏の全国高校野球選手権大会が始まる。わたしも夏の甲子園は観戦経験があるが、あんな炎天下でよくやれるよと、若さをうらやましく思う。

とてもしんどい一日だった。

また、明日から気持ちを切り替えてがんばろう、いや楽しもう。

一瞬一瞬を濃密なものに2007/08/08 21:31:02

これは先月のフットボール・ワールドカップ会場の写真。ベースボールでもフットボールでも、ボールパークなりスタジアムなりに着くと子どもにかえったようにワクワクしてしまう。どんな試合を見せてくれるのだろう。ひいきチームが勝つといいな。

プロは勝ってあたりまえ、自らの、普通ではできないプレーをお客さんに見せて、お金をいただく。アマチュアはお金をとることはないけれど、プレーしているスポーツが好きだという点である意味プロ以上の純粋さがある。
一瞬一瞬が濃密なものになっていくのだろうね。

朗読もステージに上がるまでに一生懸命練習をして準備をして、本番に上がる。卓球の試合でもそうだ。でもそれは一瞬で終わる。スポーツも試合時間は長いかもしれないが、それまでにかけてきた準備時間に比べれば、試合などあっというまだ。
しかし、いい表現を出したい、試合に勝ちたいという思いで、準備をかけ、練習を尽くしてきた、その成果を、自分のいまのありったけを出そうという情熱は同じである。

自分をさらけ出すという意味で、ステージ上とフィールド、グラウンド上、卓球台の違いはあれ、やることは同じ。
だから、プレーしている選手には一瞬の悔いのないように、最高の挑戦者になってほしい。
わたしも、自分に、お客さんに、仲間に挑戦するつもりで臨むつもりだ。

ものぐさになってはなあ2007/08/09 23:09:16

う~ん。肩がものすごいこりようで何度も首を回したり肩をもんだりしているのだけど、なかなかよくならない。重い荷物を背負って歩くのも悪いのだけどね。

卓球をやっていて、冗談半分に「一日中ラリーをすることができたら楽しいな」と仲間に言ったら「食事はどうするの?」。
ところが現実に同じことを考えた人はいるもので、なんとサンドイッチの由来はテニスのプレー中に食事ができるように考え出されたものだそうだ。

ラリーをしながら片手で食事をするのか。やれないことはないけれど、相手にしてみたらやっぱりいやな気持ちがするでしょうね。

う~ん。ものぐさになってはいけません。

ゆったり気楽に考えるゆとりも大事2007/08/10 23:59:57

暦の上では秋だがまだ厳しい暑さが続いている。今日は35℃を超す気温だったらしい。あと1カ月くらいはこの暑さが続くのだろう。

仕事のあとに手話サークルの仲間と待ち合わせをして、納涼会でやるパフォーマンスのすりあわせをした。いくら知られている曲といってもいきなりでできるものではない。手話訳を突き合わせて、納得できるように、お互いの表現を合わせていくことが大事だ。
あとは個々で練習をして、都合のよい日にまた会って練習をしたい。

こうやって気持ちを切り替えると、また楽しいと思う。手話つき朗読というパフォーマンスの最大の目標があるいっぽうで、こうした小さな取り組みがあると、集中するときとそうでないときの切り替えができ、こだわりやすい自分の性格からして、ゆったり気楽に考えるゆとりができる。
無理をせずにゆっくり続けることがなによりも大事なことだ。

週末は週末で、また忙しいようだ。
たまにはのんびりしたいのだけど。