同じ苦悩を抱える仲間だからこそ2007/07/06 23:59:09

「一日の苦労はその日一日で十分である」

あれもこれも。昨日がこうで今日はこうだったから、明日はこうなるだろう、こうなるのではないか。
そんな不安がいつもわたしを襲ってはそのたびに強い不安と恐怖にかられていた。うつ病のころは毎日が苦痛でしかなかった。薬の副作用のためからだにある機能がなくなったり低下したりして、はたしてこのさき、快復したとして希望が見いだせるのだろうかとも。半端ではない不安があった。

で、いま現在である。

手話を身につけたり、卓球だの手話ソングダンスだの朗読だのといったことを始めてから、かなり気持ちが楽になったことを実感している。まだ時おりきついなと思うこともあるが、そんなときは自分の気持ちを空からながめるように「そうだよね。きついものはしょうがないよね」とありのままに受けいれられる。「一日の苦労はその日一日で十分である」という聖書の言葉はまさにそのとおりで、強い不安と恐怖や済んだこと終わったことはもう神さまにまるごと預けるしかないのであろう。

いま思い出した。
朗読を続けてこられた理由はなんだろうとふり返って、講師のこの言葉があったからだ。「感情の出し入れがうまく表せるようになった」「からだ全体をいっぱいに使って表現しているのがとてもいい」。まわりはみな聞こえる人ばかりのなかだったから、聞こえないことを言うのではなく、できることを指摘してくださったから続けてこられたのだ。

しかしわたしにとって大切な存在。
それは「聞こえない」という同じ苦悩を抱える仲間である、聴覚障碍者や手話を中心に会話ができる仲間である。もちろん手話ができない、普通に聞こえる人たちが大切な存在ではない、ということではない。普通に聞こえる人たちが圧倒的多数であり、わたしたちが少数者である以上、分かりあえるということにおいて壁が生まれる。だからこそ少数者としていま置かれている状況をはっきり伝えていくことが何よりも大切なのだ。

同じ苦悩を抱えているから、とはいってもそれだけで分かりあえるものでもない。完璧に分かりあえるなどというのは困難なことなのだ。
手話もそう。
通じなかったりうまく伝わらないもどかしさを双方が抱えている。だからこそ分からなかったら分からないとはっきり伝えて、分かりあえるように歩み寄ろう。分からないからと切り捨ててしまうのは簡単。でもそれでは解決にならないから。