「迷惑をかける」について考える2007/07/16 22:31:22

このページでわたしが書いた「誤解」(2007年7月11日付)という記事から、思いがけなくも「迷惑をかける」という話題が生まれた。
書いた文をどなたかが読んでくださり、そこからまた新しい話題が生まれていく。思いがけない反響に驚きつつ、双方向の会話のキャッチボールを重ねていくことがとてもうれしい。

わたしだけが障碍者だからなのか、小さいころからいつも「人より先に行動しなさい」と言い聞かせられた記憶がある。そうか、自分は耳が悪いのだから学校でも集団でも人より後れをとってしまいやすいから迷惑をかけないようにしなくては。そんな気持ちがわたしにプレッシャーを与え、劣っている、だめな存在なのだ、というマイナスイメージを自らに植え付けた様な気がしている。「障碍者は障碍があるために、周りに迷惑をかけているのではないかと苦しんだり自分を卑下したりしてしまう心理」と書いたのはそういう背景があるのだ。

迷惑とはなんだろう。
たとえば子どものころ料理を手伝いたいと勇んで台所に入ったけれど、何の役にもならずかえって足手まといになってしまい怒られた。これはまあ迷惑ではありますね。子どもだからしかたない、ともいえる。
けれども、聞こえないわたしが「すみません、筆談していただけませんか」と伝えるときは、慣れないけれどメモをとってくださったり図表を示したりして教えてくださる。これは迷惑というよりはお互いに喜びと感謝の気持ちがあるからできることだろう。無償の愛という崇高なことを意識せずとも、こころからの感謝と敬意があれば、自然体で生まれる。

と書いたところでいつものように文語体聖書から。

夕餐(ゆふげ)より起ちて上衣をぬぎ、手巾(てぬぐい)をとりて腰にまとひ、尋(つい)で盥(たらい)に水を入れて、弟子たちの足をあらひ、纏ひたる手巾にて之を拭ひはじめ給ふ。かくしてシモン・ペテロに至り給へば、彼いふ『主よ、汝わが足を洗ひ給ふか』イエス答へて言ひ給ふ『わが爲(な)すことを汝いまは知らず、後に悟るべし』ペテロ言ふ『永遠(とこしへ)に我が足をあらひ給はざれ』イエス答へ給ふ『我もし汝を洗はずば、汝われと関係(かかはり)なし』
                     (ヨハネによる福音書13:4~8)

ここでいうのは迷惑ではなく、お互いに仕えあうという無償の関係が主題なのである。イエスはこのあと、14節で「なんぢらの足を洗ひたれば、汝らも互に足を洗ふべきなり」と語っておられる。
大学時代、北海道であった青年の集いのとき、実際にお互いの足を洗うというプログラムがあった。何の関係もない者同士が足を洗う。それは迷惑ではなく、お互いに奉仕し、犠牲になる。愛である。お互いの苦しみ痛みを分かちあう思いが足を洗うという行為につながっていった。

申し訳ない、ごめんなさい、ともよく日本人は使う。欧米でも「I'm Sorry」という言葉はあるが、自分が悪くもないのに謝るという発想も概念もない。だから日本に来た外国人が、日本人の頭を下げる行為をみて驚くのも無理はない。

わたしもついつい「ごめんなさい」を口にしてしまう。「自分を卑下する心理」なのかもしれない。それが極端なあまりに「迷惑をかけて」という言葉になってしまうのだろう。

どんどん迷惑をかけてもかけられてもかまわない、それは神さまだけができることなのだろう。人間ではさすがにこうはいかない。どこかで「いいかげんにしろ」と怒りたくもなるだろう。
ならば、迷惑をかけることをネガティブにとらえるのではなく、お互いの痛み苦しみ、大げさかもしれないが、何かをお願いするときにこころに生じる、負担をかけあうことの痛みを謙虚に受けいれるようになりたい。