どんなに時代が変わり進歩していっても2007/05/01 22:59:38

あわただしく忙しい日々。まあ半分は自分が悪いのだけれど、土日が主な休日であるわたしにとって、週末は貴重なひとときだ。

わたしの、幸せを感じるひととき。いつも行く喫茶店でひとり、コーヒーをそばに、聖書をひらいたり読みかけの本をひらいたりする。さらには黙読したり好きな個所をじっくり味わったり考えたり。たまに居眠りをするのがつらいかな。

ネットは電気や通信回線がないとつながらない。それらがないところでは、いくら高性能のパソコンを持っていっても「ただの箱」。しかし本はいつでもどこでも、人のこころを揺さぶり訴えかけ、こころを新たにさせてくれる。

どんなに時代が変わり進歩していっても、本の価値は変わらず色あせることもない。そう信じている。

ありのままに生きたい2007/05/02 23:32:46

♪夏も近づく八十八夜 ポンポン(*^_^*)

今日のテーマは「Hanako cafe live 2007 88th night@公園通りクラシックス」から。

仕事が遅くまであり、予定に入れてとても楽しみにしていた、大島花子さんのライブハウスショー会場に着いたのは、開演から20分遅れてだった。スタートから聴くことができなかったのはとても残念。

聴きながらいろんなことが脳裏をかすめていった。
今日のライブも、貴重で得がたい感動や喜びを与えてくれる。「こんなすてきな歌なんだ」「なんてすてきな声だろう」。人のこころを揺り動かす力は、どんなものにも換えられない。

今日の大島さんらのコンサートを聴いてわたしのこころにまた大きな感動が生まれた。
ありのままに精いっぱい、全力を尽くして生きることだ。なにかになろうとするのではなく、いま取り組んでいることやりたいと思うことをやり続けること。なにかを表現し伝える、なにかを遺すことが大事ではないだろうか。

今日の新聞の夕刊からの文を引用する。
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人は、生まれてくるときは丸裸で、人の手に受けとめられてこの世へやってくる。人は、だれかに支えられて育つ。人は、助け合って生きる。人は、死に向かって生きている。だから、今できることを。ありのまま、その日まで生き抜くことが、冒険。
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聞こえないからだと普通に話せる口を与えられ、手話と朗読でなにかを表現したい伝えたいという目標を与えられた。
大島さんのようにはいかないかもしれないけれど、手話ソングダンスや朗読の時。仕事の時。いつか大切な人と出会えた時。今できることを、ありのまま。表現し伝えていこう。何かを遺すために生き抜こう。いつかわたしも神さまのみもとに帰る。その日まで生き抜こう。その日まで、あきらめずになにかを表現し伝えていこう。

あらためて大きな感動と思いを与えて下さった、大島花子さんに、こころから感謝! ほんとうにどうもありがとうございました!

言葉は難しい2007/05/03 22:08:40

言葉を使うことの難しさはわたしの仕事でもよく経験することだけれど、一番身近で実感するのは、病院や銀行などの窓口業務、次に飲食店や病院の看護婦さんではないだろうか。

「患者様」ちょっと違和感 「患者さん」に戻す病院も
http://www.asahi.com/life/update/0502/TKY200705020172.html?ref=toolbar2

「さま」と呼ばれて悪い気はしないのは、お客さま、などという場合だろう。客という呼び方に悪い印象がないからだ。この患者様、というのは好きこのんで病気になったわけでも病院にかかったわけでもないのに、悪意はないだろうが、バカにされたような印象を抱いてしまう。
クライエントと英語でいうような関係も、上から見下ろされたような、上下の関係で言われたようで、やはりすっきりしない。

では、どう言ったらいいのだろう。
やはり「さん」のほうが親しみを覚える。

なにより、病んでいる人を人として尊敬し、丁重に扱おうかかわろうとする姿勢をみせてくれる医師や看護師に、わたしは信頼を抱ける。
言葉の問題であるとともに、向かい合う人をどういう存在としてみているか、が問われているのではないだろうか。

案が浮かんだ2007/05/04 23:11:53

先日のこのブログで、文語体聖書について書いた。
9月に迫った朗読の発表会は、来月にテーマを提出すればいいとして、「最後の一葉」を考える一方、思い切って文語体聖書を読むのもどうかなと案が浮かんでいる。

いまの新共同訳聖書などでは味わえない、独特のリズム感を感じながら読むのもいいかもしれない。なにより、教会でやってみないかと言う前に自分でやることで、周りをひきこめるかもしれないからだ。
朗読のメンバーも聴衆も、クリスチャンではない人が多い。だからこそ、ふだん聴き慣れない文語体の世界で、キリストを伝えることが大事なのかもしれない。伝道とはっきりうたわないとしても。

人とかかわりたい、生きる喜びを味わいたいと思う2007/05/05 23:51:52

札幌に住んでいたころ、市営地下鉄駅内にろう者の店員が働いているお店があり、何度か利用したことがある。そこはお菓子を販売していたと記憶しているが、東京にもいくつか、同じような店がある。
そのひとつ、東日本キオスクの「雪莓娘」というお店に行ってきた。

場所はJR山手線各駅だそうだが、今回行ったのは有楽町駅八重洲口近く。交通会館ビルがすぐそばにみえるところだ。
お店のスタッフはみなろう者か中途難聴者。注文するときは向かって左にあるタッチパネルに映る、ほしい品の画像に触れるか、注文用紙に記入して筆談するかのどちらかになる。誤注文を防ぐため、2人いるスタッフのうちひとりが指で個数を確認することも怠らない。写真はお店のスタッフから許可をいただいて撮影した、案内掲示板。「耳のきこえないスタッフが担当しています」と中国語で書かれた案内もある。

前に耳が不自由だと言うことを示す「耳マーク」を紹介した。今日着ていたスーツに、「耳マーク」バッジを着けて、このお店のスタッフにわたしも難聴で手話ができることを話したが、近年は銀行や病院の窓口に「耳マーク」を置いたり筆談をしたりしてくれるところが増えた。わたしたちはきこえないけれどコミュニケーション方法が全くないわけではない。むしろきこえないために会話ができないという先入観、バリアをつくっている社会が、わたしたちに接客や対人関係ができないという思いこみをもたらしているのではないだろうか。ろう者も難聴者も、きこえないことを除けば、あたりまえに生きている人間である。人とかかわりたい、生きる喜びを味わいたいと思う。商売などの接客の仕事も、そのひとつである。
ともあれ、こうした取り組みは、難聴者やろう者に、社会とかかわる意欲をもたらしてくれる、とてもすばらしい機会である。ろう者難聴者だけではなく、きこえる人たちにもどんどん、お店に来て買っていただきたいと思わずにはいられない。

さらなる恵みにこたえられるようでありたい2007/05/06 20:14:47

ミントブッシュ
連休最後。日曜日ということで、礼拝後小時間を聖書の学習会と昼食の後、自宅へ戻ってからいつもの喫茶店へ。いつも訪れるたびにとてもすてきな花だなあと思う。
お店のマネジャー、Mさんから、お花の担当をしていらっしゃる方をご紹介いただいた。手紙を書きながらそばに飾られてあった花を撮影した。ミントブッシュという花だそうだ。

今日のメッセージはルカによる福音書19章11節から。

メッセージでは、一人ひとりに与えられているムナをどう受けとめているのかという問いかけが主題であった。同じようなたとえ話にマタイによる福音書25章があるけれど、こちらは3人にそれぞれお金を渡して商売するようにと命じられた。2人はきちんと与えられたムナを生かしたが、最後はこわくなって布に包んで隠したという。マタイのほうは主人がどういうお方であるかを知っていてあえて、使わなかったという話だ。どちらが悪いかという議論ではなく、どちらもいただいた恵みを生かしているか生かさなかったかが問われている。

「失われたものを数えるな。残されたものを最大に生かせ」。きこえない耳と普通に話せる口をいただき、自分を表現するすべが与えられた。この恵みを感謝するとともに、さらなる恵みにこたえられるようでありたい。恵みを隠したり最大に生かさなかったりということのないように。

といいながら連休のわたしは、最後にようやく、気合いを入れて過ごした。もっと早めにエンジンをかけていたらなぁ(-_-)。

いまごろ気づいたの?2007/05/07 22:32:20

忘れることのできない出来事がいくつもあるなかで、阪神大震災はとりわけ強く記憶に残る出来事のひとつだ。

あのときは朝まで起きていて東京でも強い揺れを感じた。テレビをつけたら、広範囲に大きな被害が出ているとあり驚いた。
のちになって新聞記事でだったか、体験者の話からだったか忘れたが、地震直後に公衆電話の前に行列がたくさん並んでいたということを聞いた。

と書いたのは、こんな記事を読んでから。

公衆電話、20年で39万台に半減 災害時への懸念も
http://www.asahi.com/life/update/0504/TKY200705040165.html?ref=desktop

はっきり言って悪いけれど、「今ごろになって気づいたの?」というのがまず記事を読んでの感想だ。
自慢するつもりはないし、先見の明があるとも思わないが、たしか2001年だったか02年だったか、当時わたしが学んでいたエッセー教室で、公衆電話が減っているというテーマで書いたことがある。添削して下さった講師は「減っているという感じはしないが」とコメントを添えて下さったけれど、エッセーを書いた当時でも、よく行っていた駅前にあった公衆電話ボックスがなくなったのをはっきり覚えている。

携帯電話の普及が理由に挙げられているが、携帯電話があったところで、これとて万能ではない。
2年前、中難協の理事会に出席する直前に東京を地震が襲った。運悪く乗り合わせていた地下鉄が地震のためにストップしたまま、いつまでたっても動かない。案内アナウンスがきこえないわたしには、持っていた携帯電話しか連絡手段がない。そのうちに携帯電話の内蔵電池が切れ始めてしまった。隣にいた見知らぬ男性は予備に持っていた電池をつないで会話をしていた。予備電池があったからいいようなもの、なかったら彼だってどうしていただろう。

NTT東日本は「災害時には、避難所に特設電話を行き渡らせる。公衆電話網を維持するより、携帯電話やインターネットと補完しあう方が有効なはず」としている。

記事にはこうあるけれど、「有効なはず」ではいざというときはっきり言って困るし、使えなかったらどうするんだと疑問である。100円で10分間インターネットを使えるパソコンも民間業者によって設置、整備されているそうだが、コインがないときには何にもならない。公衆電話は非常時のさい、一般電話や携帯電話が規制されても優先的につながりやすいという側面がある。これをなくしては、いざというときに対応できない。

携帯があるから、パソコンがあるからと、安易に考えないでほしい。携帯もパソコンも電池がなくなったりつながらなかったりすれば何の意味もない。
なにより緊急時非常時の通信手段を確保することだ。記事にもあるように公的負担などの措置が必要ではないだろうか。

あなたの体のともし火は目である2007/05/08 22:05:27

ローマ時代のユダヤ王ヘロデ(紀元前74~同4年)といえば、新約聖書によるとイエス誕生を聞いて自分の地位が脅かされるのを恐れ、2歳以下の男児を虐殺したとある。また、自分の不倫を告発した預言者ヨハネを、娘サロメの要求に従って斬首させたという記事もある。冷酷自己中心、猜疑心に満ちた王として描かれている。一方で、死海沿岸の山の頂上と断崖(だんがい)に宮殿を造り、全体を要塞にもしたマサダや、円形劇場のある港湾都市カイサリアなどの大規模事業をすすめたということでも名を残した。
そのヘロデ王の墓がみつかったと、イスラエル・ヘブライ大学考古学研究所が発表した。

ヘロデ王の墓見つかる ヘブライ大学発表
http://www.asahi.com/international/update/0508/TKY200705080351.html?ref=toolbar2

自分の名をつけた宮殿ヘロディオンの地中からみつかったと伝えられている。キリスト教史や中東政治史の上でも重要な発見のひとつだろう。

さて今日読んだ聖書から。

 あなたの体のともし火は目である。
 目が澄んでいれば、あなたの全身が
明るいが、濁っていれば、体も暗い。
 だから、あなたの中にある光が消え
ていないか調べなさい。
 あなたの全身が明るく、少しも暗い
ところがなければ、ちょうどともし火
がその輝きであなたを照らすときのよ
うに、全身は輝いている。
(ルカによる福音書11:33~36)

わたしに対していろいろなことを言う人がいる。あたっているものもあれば的はずれだなと思うものもある。
それらを一喜一憂していては、からだもこころももたない。

わたしに対して言う人もまた、だれかから見られている。そうやってみていくと、わたしたちをみておられる神さまにいきつく。神さまはわたしたちをみておられるのだ。
生き生きした表情で、目が輝いていれば、たとえ地の底海の底にいようとも、何ものも恐れず怖じけることなく、輝いて生きることができる。
すべての思いや苦しみを神さまにおゆだねして、しっかり歩いていこう。

いくらでもその気になれば2007/05/09 23:51:57

夜から卓球の練習。だれか来るかなと半分期待していたけれど、まったくのひとりだけの練習。

それもまぁいいものだ。
卓球は最低2人がいないと試合が成り立たないスポーツだが、練習は別。いくらでもその気になれば方法がある。

コーチに教わっているときのように、台のそばに立ち、ボールを台に落としてから強く打つ、スマッシュの練習。ここ一瞬にこめる集中力とストレス解消の効果がある。

そばではなく台から下がって、サーブの練習や、床にボールを落としてラケットにボールを載せて運ぶように打つ。両ひざを落としてショットの瞬間に足を伸ばす。全身を目いっぱい使う。

ともあれ、いくらでもやりかたはあるんだよ。
自分で限界をつくったらその先の進歩はないからね。

初めてみた2007/05/10 23:40:15

マタニティーマーク
以前に、妊娠している女性について書いたのだけれど、今日帰る途中の地下鉄車内でマタニティーマークをつけた女性を初めてみた。

話したりきいたりしたわけではないが、彼女にとってとても勇気がいったことだと思う。着けたからといって安全に地下鉄車内で過ごせる保障などないかもしれないし、かえって好奇の目で見られてしまう可能性があるからだ。

しかし、スーツに耳マークのバッジを着けているわたしも、初めは同じようにみられた。いまでもたまにジィ~ッと見る人がいる。「そのバッジはなんですか?」ときいてくれたほうがまだ説明する気持ちになれるのだけれど。今日行った銀行の窓口にも耳マークが掲示されていたから、銀行やデパートに行ったときに「ああ、あの人がつけていたのと同じマークだね」と思い出してくれたらいい。

ともかくも、おおっぴらに触れ回る必要などないが、自分の状況を伝える、そして社会に理解と共感をひろげてもらえるための、ささやかな取り組み。
耳マークもマタニティーマークも、とても大切な取り組みだ。