「ちょっと待て。冷静にならないか」2015/03/02 23:21:26

今日も夜にASLレストランレッスン。
学びが進むと、教わったり覚えたりした手話表現を使ってみたくなる。これは日本手話でもろう者でも共通して言えることだが、仮に間違った表現だとしてもみんな、頭ごなしにしかったり指摘したりはしない。むしろ「こうこうだよ」と教えてくれることが多い。なぜならみんな、多かれ少なかれ「通じない」苦痛をどこかで経験してきたから、お互いにわかり合おうという気持ちが、たとえ間違った表現だとしてもそれを指摘するにしても、いい意味で愛情をもって教えてくれるから。

1週間前、1カ月前という単語を交えて、わたしも講師もフットボールファンだから、共通のフットボールを交えた話題やら、いろいろ話ができてあっというまに2時間を超えるレッスンだった。座学のようなまじめなレッスンもいいけれどこういうのも楽しい。

川崎で起きた13歳少年殺害事件は、容疑者少年3人がようやく事件について供述を始めたことで一歩真相が明らかになりつつある。
けれど、やりきれない思いを感じるのは、わたしたちの側の問題だ。
インターネットが生活の中に入り込んで切っても切れない関係になってしまった現代は、事件を起こすと、加害者や事件を起こした本人はもちろん家族も、ターゲットにされ、社会の好奇の目、悪い言い方をすればスケープゴートにされ、実名も家族構成もいっさいすべてネットに出されてしまう。

スケープゴートを辞書でひいてみよう。
【scapegoat】(聖書に見える「贖罪の山羊」の意)
民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わり。社会統合や責任転嫁の政治技術で、多くは社会的弱者や政治的小集団が排除や抑圧の対象に選ばれる   (広辞苑 第5版から)

ネットは便利である一方、一度掲載されてしまったら半永久的に消えない。書く方はそれ相応に責任をもって書かなくてはならない。汚い言い方だが、壁に落書きをするのとはわけが違う。落書きは上からペイントするなり消したりできるが、ネットはそういうわけにはいかない。だからうっぷん晴らしやその場の感情で書くのは危険すぎるものだ。

以前から少年が起こした事件が報道されると、少年法の問題が議論される。「少年法によって守られていると勘違いしているから凶悪事件を起こしても加害者は名前も学校も家族もさらされず、平気でいられる。なのに被害者が一方的に顔も氏名も出されるのは不公平だ」「これだけ少年事件が凶悪化しているのだ。民法や投票権を18歳に引き下げるのなら少年法も改正してはどうだ」「ネットに実名や家族構成がさらされるのは、少年法で守られているという加害者への罰だ」

たしかにそういう側面はあるだろう。
けれど、スケープゴートをつくって、われわれが事件や加害者に対する不満義憤にかられて、不平や怒りや憎悪をかきたてていくのはどうだろうか。それを政治家や権力者が悪用しないとはいいきれない。権力者も政治家も、支持者がなければならないのだから、民衆や社会の声に敏感であるし、だからこそ民衆の声に便乗して社会を息苦しい方向へ変えようとしないとも限らない。過去の歴史上いくらも例がある。

だからどんなに非難されたとしても、熱に浮かされた浮かれたような状況のなかで、どこかで「ちょっと待て。冷静にならないか」とストップをかける役割や存在が必要ではないだろうか。それがなくなれば、社会はいったん悪い方向へかじを切ってしまい、戻ることは難しくなってしまうだろう。
昨今の熱に浮かれたような状況を見るにつけ、こころのどこかで「ストップ!」と言わなくてはいけない、と思う今日このごろだ。