衝撃的なニュース ふたつ2015/02/01 23:18:31

けさ起きてテレビをつけたら、後藤健二さんの「処刑」のニュース。あまりの結末に言葉が出ない。
一面識もないが後藤さんはわたしと同じクリスチャンだときいた。ご家族やかかわりを持った方々の悲しみ苦しみはいかばかりか。今日の礼拝ではそんな話は出なかったがわたしは、ただただみもとで安らかに、と、ご家族やかかわりをもたれた方々のためにも祈るしかなかった。

繰り返すが、イスラム教はそんな宗教ではない。イスラム国は宗教を悪用極端に解釈している暴力集団である。恐喝もあるともきく。シリアではイスラム国の支配地域が広がっているそうだが、恐怖と抑圧で支配されていても根っこからの支持を受けているわけではないだろう。こわいのは子どもたちへの心理的影響だ。
ともあれイスラム教徒とイスラム国を同一視してはならない。

もうひとつ衝撃的なニュースだったのは、リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元西ドイツ大統領が亡くなったという。
北光教会と浦安教会でそれぞれ『荒野の四十年』を読んで読書会をもった記憶がある。
過去に目を閉ざすものは現在にも目を閉ざすと語ったあの有名な演説は未来にわたって語り継がれるだろう。いちど聞いてみたかったと思う、これからの人類の未来をどう考えているか。

憎悪の連鎖だけは避けたい。2015/02/02 22:08:08

けさ(日本時間)放送された第49回スーパーボウル。接戦の内容だったがやっぱりニューイングランド・ペイトリオッツは大嫌いである。一度だけ試合を見てあとは全部消去しておきたいくらいだ。

昨日飛び込んできた、後藤健二さんのこと。
いまもなお胸が痛む。
たしかにイスラム国は常識だとか人間性だとかいったものが通用しない組織だと思う。けれどそこにいるのはまぎれもなく人間である。過激思想にかぶれてしまったとはいえ、彼らも人間として生まれてきたはずだ。犯罪を犯した人間が生まれつき犯罪者に生まれたわけではないのと同じく、彼らもどこかで道を踏み外したためにこういうことになったのではないかと思う。

胸がはりさけんばかりの思いとともに、過激思想ではなく、人間性を取り戻すこと、そのように一緒に考えていくこと。
そのためにはムスリムへの偏見や差別などがあるヨーロッパ社会にも、批判をしつつ、彼らの過ちをただしていくことも必要だろう。

時間がかかるし遠回りかもしれないが、憎悪の連鎖だけは避けたい。
それこそがアンネや後藤さんが望んでいたことではないだろうか。

うまく折り合いをつけて付き合っていくこと2015/02/03 23:23:21

今日のここのカテゴリーは「communication」だが、手話ではなく、故郷北海道弁をテーマにしたい。

北海道弁、人に優しい言葉だな、と(笑ってる場合かヒゲ 水曜どうでしょう的思考)
http://digital.asahi.com/articles/ASH1H5Q4HH1HIIPE01L.html

北海道弁というと「したっけ」とか「なまら」などが知られているだろうか。ラーメンの名前にもなった「うまいっしょ」もそうだ。

もうちょっと知りたい北海道
http://www.visit-hokkaido.jp/t/dict/more_hokkaido/culture03.html

ここには上にあげた以外の北海道弁が出てくる。
見ると、子どものころから使い慣れた言葉がなまら(たくさん 笑)ある。
たぶん内地の人がきいたら「え?」と思うだろうものは―――
「みったくない」「わや」「なげる」「いたましい」「うるかす」「内地」などだろう。とくに最後の「内地」は教会で言ったとたん、周囲がみんな「え?」という顔をしてきた。

<でもそれって、自然環境が厳しい北海道だからこその言い回しなんだろうなって最近は思うんです。冬にドカ雪が降るのは誰のせいでもない。そんな環境の中で暮らしていくためには他人と協力し合わなければいけない。ちょっとしたミスぐらい、あたかも自然現象のように「なんもなんも」と言って受け流していかなければ、人間関係は円滑に進まない。だから、いろんなことを断定せずに、ぼやかしているんじゃないかなって>

まさにその通りだといっていい。
北海道は、本州からやってきた人たちが切り開いてきた歴史がある(一方でアイヌの人たちへの差別があったことにもしっかり目を向ける必要がある)。北国の厳しい寒さは、同時に助け合わなければ生きていけないことを人間に教えてくれた。いま放送中の「マッサン」でも余市にりんご園をつくるにあたって、どれだけ苦労してきたかが語られている。助け合う中からコミュニケーションが生まれ、北海道弁が生まれてきた。

厳しい環境下だからこそ、笑って受け流すくらいのしたたかさ強さがないと生きていけない。したたかさといえば雪祭りや流氷祭りもそう。雪を迷惑にしてどけるのではなく、うまく折り合いをつけて付き合っていくことから雪まつりなどが生まれてきた。

妻は福井出身で北海道弁を聞くとやっぱり驚く。お米を研いでジャーにうるかすと言ったら「?????」。逆に福井にもその土地で生まれ育まれてきた言葉があるだろう。
そういうお互いの文化を知り合うこともまた、大事なコミュニケーションだ。

というわけでわたしは今日も「なんもなんも」といいながら「がっさい」とみられていても平気で北海道弁を口にする。

伝えようとするのは、ほんとうの勇気だ。2015/02/04 22:52:35

やりきれない思いだ。

けさ、イスラム国が、戦闘中に捕虜として捕まえたヨルダン軍パイロット、ムアーズ・カサースペさんを生きたまま檻の中で焼殺した動画をネットに出した。とても正視に耐えられたものじゃない。

ニュースを聞いて、いまこうしているあいだにもひとりのいのちが消えようとしている、そのことの重みを感じた。

報復だろう、今日お昼過ぎ、ヨルダンが、イスラム国が釈放を要求していたヨルダン国内で収監中のサジダ・リシャウィ死刑囚ともうひとり、アルカイダにいたという元幹部を死刑執行したと発表した。憎しみの連鎖はあってはならないと後藤さんも後藤さんのお母さんも言っていたのに。

高村雅彦・自民党副総裁が「蛮勇だった」と後藤さんについて発言した。
広辞苑第5版には「蛮勇」についてこうある。
理非を考えずに突進する勇気。向こう見ずの勇気。

たしかに結果論としてはそうかもしれない。
しかしジャーナリストとして人間として、後藤さんがみようとしたものは、弱い立場におかされた人々の苦しみだった。見過ごすことも見なかったことにもなかったことにすることもできない、不条理としかいいようのないできごとだった。それを見て伝えようとするのは、向こう見ずではなくほんとうの勇気だ。

ISによって殺された人々、後藤さん、湯川さん、ムアーズ・カサースペさん、サジダ・リシャウィのために祈る。
ISの連中が、過激思想にかぶれて人間性を失っていることにも強く怒りを覚える。彼らが、自分たちがしていることのおぞましさ愚かさに気づく時が来るように。

今日は「空振り」だったが明日は?2015/02/05 23:34:38

夜妻と一緒にいつものギター教室へ。
バレーコードの押さえ方を教わって自宅で復習してみると、コツがわかりかけてきた。

そのギター教室から帰ってきてマンションの玄関に、雪が落ちていた。今日は都内はほとんど降雪がなく「空振り」だったが明日はどうやら本当に降雪がありそうだ。
早めに出ないといけないかもしれない。

今日も暗いニュースが続いた。
もうたくさん、という気持ちなのだが。

自然の前には人間などもろいものだと感じる。2015/02/06 23:02:34

昨晩に続いて今日も「降雪」予報は空振り。外に出て昼食をとってきたけれど、抜けるような青空で、「ホントに雪が降る?」とは思えなかった。
しかしけさ10時25分、徳島県で震度5の地震があった。
南海地震との関連性は不明というが、どうだろうか。この先も注意が必要だろう。
人間の力では自然のことなど知識には遠くはるかに及ばない。自然の前には人間などもろいものだと感じる。

ヨルダン軍がISを空爆し、ウクライナも戦闘が激しくなっている。
いったいこのわたしたちが住む星、この星に住むわたしたちの未来はどうなっていくのだろう。

明日も天気は晴れだという。

多くの人のこころに、何かを残しているのではないだろうか2015/02/07 22:54:42

自然の前には人間などもろいものだと感じる。
そう昨日書いたばかりだが、しかし一方で人間は愚かにも賢くにもなれる。

激動の、まさに信じられないことばかり続いた一週間だった。
亡くなった後藤健二さんとは一面識もないが、彼はジャーナリストとしてと同時にキリスト者として人間として、誠実に生きようとしてきたのではないだろうか。
ああいう結果になってしまったのは本当に残念だ。しかしキリスト者としての生き方は、この世の常識、いのちあってのものではなく、むしろこの世の常識を越えたというか、常識以上の生き方だったのではないだろうか。

もちろんキリスト者すべてがああいう生き方ができるかと問われれば、難しいと思う。人間は弱いものだからだ。いろんなしがらみや誘惑やらがじゃますることもあるし、勇気を持っているつもりでもいざその瞬間の時にはおじけついてしまうのかもしれない。それもまた人間だからだ。
しかし、キリスト者として、究極の場面に置かれたときに、自分を捨ててでも他者のために生きようとする生き方ができる。この世の常識ではなく、信仰ゆえに。

アウシュビッツで脱走犯の代わりに身代わりになったマキシミリアン・コルベ神父、「塩狩峠」のモデルとなった長野政雄さんというように歴史の中ではそういう生き方をしてきた人も少なからずいる。
たしかに、彼らの生きた歩みに疑問を持つ人もいるかもしれない。
けれど、崇高な生き方だったからこそ、多くの人のこころに、何かを残しているのではないだろうか。

2012年消費期限の補聴器用電池2015/02/08 22:07:05

みなさんの家にもたぶん、買ったまま未使用のものがあるのではないだろうか。わたしも例に漏れず、ボールペンだの筆談用として買ったレポート用紙だのとたくさんある。妻からは「なくなるまで買うな」とまできついお達しをもらっているほどだ。

昨日、補聴器の電池が突然切れた。
ここまでなら、メガネ店においてある電池を買いに行けばすむこと。しかし、家にはまだ電池がいくつか残っている。そのひとつはトロントで買ってきたものだ。パッケージを見ると2012年が消費期限だとある。
どうしようか迷いながら、ええいだめだったら電器店に使い終わったやつですと出せばいいからと、思いきって(?)シールを外してみたら……あら、ちゃんと音が聞こえる。おそらく思うに、未開封の上に一度もパッケージから出していなかったのがよかったのだろう。補聴器店の方に聞くと、ボタン電池はパックになったものを一つひとつとりだして別に移してしまうと、電池内のプラスとマイナスの電極が衝突して電池の消耗が早くなってしまうのだそうだ。電池のプラス側にはられているシールを外してしまったらもう使うしかないが、未開封未使用、パックから出していないものならば、少々期限が過ぎても使えるのだろう。

家にまだある、6個入り電池は災害発生時に避難所へ持っていくバッグに詰めることにして、今日使い始めたものをしばらくは使っていくことになるだろう。

夜。
朗読仲間、手話サークル仲間と一緒に、自宅で今週土曜日に予定しているパーティーの出し物の手話のタイミングの確認と、わたしがやる手話落語のリハーサルをやった。終わってから妻らがつくった鍋料理を囲んで、震災、原発、聴導犬、いろんな話が出た。楽しいひとときだったのは言うまでもない。

書き忘れる前に。
日本の場合はせいぜいが6個入りで900~1300円くらい。
写真を見てお分かりのように、外国では電池はもっと多い数で販売されていることもあるようだ。トロントで見たとき、あまりの多さに驚いたものだ。値段は忘れたが、これくらいの電池パックなら買いだめしてもいいかなと思うのだが。

つい、目線を送ってしまう2015/02/09 23:33:21

寒い一日。
昨日の妻らがつくってくれたなべ料理を、けさはごはんをいれてオジヤ風にしてみた。朝食には少々物足りないかもしれないが、消化にいい。ほどよい熱さにごはんとなべのスープや豆腐、こんにゃくや鶏肉がからまっておいしかった。冬はやっぱりなべ料理がいいねえ。

と、書きながら思い出した。
昨日の、出し物練習のあとで交わした会話のことだ。
内容は触れないが、手話ができるようになると、手話がわからない聴者の中に入るとき、手話ができる前以上にストレスを感じるようになった。どういうことかというと、手話がわかる前は筆談を頼むしかなかったのが、手話が分かるようになって以後は人の会話が始まったらすぐに手話通訳士や通訳士や手話ができる聴者に目を向けるくせがついてしまった。
もちろん善意であったりこころからの気持ちで通訳をしてくれることはとてもうれしい。こちらも一生懸命読み取りたい。しかし、目線を向けると、相手にしてみれば「通訳しなくちゃ」というプレッシャーがかかるのではないだろうか。
そのへん、通訳してくれる人には聞きづらいなあと思うこともある。
とくに日本では「以心伝心」という言葉があるように、言わなくてもわかるだろうというような、空気というか場というか雰囲気というか、そういうものを大事にする。
さりげなく通訳する、というのは簡単だが、実際は手話ができる聴者がいるとついつい、目線を送ってしまう。

妻はまだそこまでのレベルには達していない。でも将来レベルが上がって通訳ができるようになったら、どうするべきだろうか。昨日行った教会では「もし教会の礼拝などで通訳をしてくれたら、自宅に帰ってからは妻に通訳をお願いしないというくらいの厳しさがわたしには必要だと思う」と話した。実際、手話通訳というのは神経をすり減らす、たいへんなものだ。

うーん、いかんなぁと思いながら、やっぱり手話ができる人がいるとうれしいあまりに、ジレンマを抱えながら目線を送ってしまうのだった。

信仰をもって生きるからこそ2015/02/10 23:11:33

昨年、洗礼を受けて30年になったことはここでも書いたが、ここ数日取り上げている「イスラム国」やパリの風刺週刊新聞襲撃事件などを通して宗教とはなにか、信仰を持っているわたし自身もあらためて問いを突きつけられているように感じる。

今日の2つの新聞に、興味をそそられる記事があった。
まずひとつは、歴史的な宗教対立がある事実を前に、日本は「無宗教」である。その「無宗教」こそが平和に役立つのではないか、というコラム。
もうひとつは、「イスラム国」がサッカーアジアカップ、イラク-ヨルダン戦を観戦していた10代の13人を射殺したという複数メディアが伝えた報道をもとに、スポーツはなんだろう。西洋スポーツは禁止だという「イスラム国」の論理は、イスラム世界だけの話ではなく、かつて日本も野球などを「敵性競技」としみなした時期があったことだ。ゆえに、わたしたちがスポーツを楽しめるのは平和あってこそ、というコラム。

わたしの好きなスポーツ、アメリカンフットボールとベースボール。
70年前の第2次世界大戦時、日本では「敵性スポーツ」としてプレーが禁じられ、用語や競技名がへんちくりんな日本語に変えさせられた。セーフをよし、アウトはダメ。アメリカンフットボールは米式鎧球と呼ばれていた。「イスラム国」がサッカー観戦を禁じていることを笑ったり批判できる立場にはない。かつて日本も同じようなことをやったのだから。

「無宗教」というのはよく聞く話だ。
しかし、日本が全く宗教とは関係も縁もないかといえば、そんなことはない。これを書く前にNHKテレビは、受験の神様として知られる「湯島天神」に多くの受験生が訪れたことを伝えていた。わたしたちは夫婦ともにキリスト者だから、結婚式も(そして将来いずれやってくる)葬式もキリスト教式でやってほしいとお互いだけでなく公に言っている。しかも会社によっては、物故社員のための招魂祭をするところもあるし、わたしたちが住む地域でも年末年始は神社へ、という方もいらっしゃる。極端なことを言えば、結婚式はキリスト教会で、葬式は仏式で、受験祈願は神社で、というように「なんでもあり」であるのが日本のごく一般的な宗教とのかかわりだ。だからはじめの記者が書いたような「無宗教」は間違いであると思う。

昨年あたりから出版された「イスラム国」をテーマにした本やさまざまな情報から、この過激派組織の指導者は、預言者ムハンマドがイスラム教を唱え始めた7世紀の社会に戻そう、現在の国境は欧米の圧力によるもので容認できない、というのだそうだ。だが一方で彼らは、悲しいことにインターネットを駆使して、あのような残虐な映像をネットに投稿したり、欧米の若者を引きつけたりしている。7世紀はもちろんインターネットなんてなかった。しかもヨーロッパや日本製自動車や現代の武器も使っている。はっきり言って矛盾だといえる。そんなに復古したいのならネットなど使うなと言いたいほどだ。しかし現代文明を利用しないことには宣伝も戦略もできない。やっていることはおかしいと思う。もちろんテロ行為は容認できるわけがない。

結局は、宗教を人間がどう用いるかということ、その一点に尽きる。
イスラム教は「平等と分かち合いの精神」が根底にあるという。キリスト教は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と、神により造られたものゆえに、自分だけではなく他者のために生きなさいと教える。

一神教の世界であるイスラム教やキリスト教から見れば、日本の「なんでもあり」は奇異にみえる。一神教の信徒から見ると「自分はこう生きていきたい」という点がみえないというのだ。あなたはどんな信仰を持っていますかと問われて「神社へ行きお寺へも行きます」と答えると「?」とみられる。なぜなら一神教のなかでは神と人が向き合うからだ。なんでもあり、では神と人が向き合う関係ではないと疑問に思われるのだ。

以前にも書いたように、イスラム国はイスラム教ではない。人を殺して暴力で抑えようとしている。宗教を悪用している集団だと。
キリスト教やイスラム教が悪いのではない。宗教を悪用していることが暴力や争いをつくりだしているのだ。
お互いを尊重しあう、それは簡単ではないけれどできないことではない。だのにできないのは、なぜだろう。
あらためて深く問われているのではないだろうか。
日本は「無宗教」の国ではない。宗教はある。欧米や中東とは異なるということだ。
幸いにして日本は中東と戦火を交えた経験がない。対日印象もそこそこいい。それをぶち壊してまで、有志連合に加わる必要があるのか。

少なくとも宗教は自分たちを絶対視しない。他者と自分を相対化する姿勢があってはじめて他宗教からの尊敬を得られる。日本なりのアプローチかかわりで、いい関係をつくることが日本の宗教からもできるのではないだろうか。