年齢に関係なく「若い日」なのではないだろうか2015/03/04 23:23:04

3月にしては暖かった今日。三寒四温というからまだまだ春はさきのこと。

今年から就職活動が3カ月あとにずれるという。就活に追われて本来の学業がおろそかにならないように、ということらしいが、それでも今日、手話サークルへの途中でリクルート姿の大学生らしき姿を見かけた。

思い出すのはわたしが社会人になった4半世紀前。希望というより不安が先に立ったことを覚えている。
月日がたってこのままでいけば会社員生活も後10年というときに思うのは、若いときに感じた将来への夢や希望は、時とともに色あせ薄れていくもの。現実に直面して理想と現実の差に嘆息し、あるいは現実はこんなもの、と知ったような顔をして悟りきってしまったような気持になることもあるだろう。
けれどだからといって抱いていた夢や希望が意味のないものになったということではない。むしろ月日が経つ中で現実やいろいろなしがらみや自分の無力さを実感させられ気づかされるなかから、自分らしく、抱いていた夢や希望通りにはいかないとしても、この星、この地上でどういう歩みを残したか残そうとしているかが大事だということだ。人生80年時代。社会人としては会社に貢献するのは大事なことだが、貢献する対象が会社だけ、というのはあまりにももったいなく、そんな人生はなんとつまらないことだろう。
わたししかわたしの人生を生きることはできないし、代わってもらうことはできない。同じようにあなたの人生はあなたしか生きられない。
社会人生活が10年くらい、という現実を前に、出世だとか人の上に立つかとか歴史に残るとかいったことではなく、地味で目立たず歴史に残らなくても、しっかりした歩みを残すことがわたしの仕事だと思う。社会人としての仕事だけではなく、手話サークルや「虹の手」手話ソンググループや、朗読落語といった活動もそう。

「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」という聖書の言葉は、若いときだけに語られるものではない。夢や希望を抱いていることは、年齢に関係なく「若い日」なのではないだろうか。このわたしに夢や希望を抱かせてくださった神をこころにとめて、あすからの歩みをしっかり歩いていきたい。