本格的にとまではいかないが2010/03/10 23:30:20

日本のコメでつくったサフランライスカレー
ここしばらく、週末にカレーライスをつくっている。
だんだんはまっていって、コシヒカリやササニシキをサフランを入れて炊いている。でもなんだかピンとこない。というか、インドカレーを口にしたときに舌に感じる、水気のない舌触りとサフランの香りがうまく出ない。
付け加えると、自宅でつくるサフランライスは均等に黄色い色が出ない。これもこつがあるらしい。

仕事が終わってから調べものがあって、途中、広尾で外国人向けのスーパーマーケットに立ち寄った。サフランとカレースパイス、タイ米1㌔を購入してきた。タイ米のとぎ方は日本のそれとほとんど変わりないらしい。
ネットでサフランライスのつくりかたを紹介しているサイトを見つけたので、週末にまたやってみようと思う。

プロ向け業務用向けの肉2010/03/11 23:11:56

晴れた空が気持ちよく感じられる一日。久しぶりにランチをそとで食べるために出かけてみた。
その帰りに、ラム肉マトン肉を調べようと肉販売店に立ち寄ってみた。

24時間営業だそうだが、地上階は野菜や果物などを扱い、地下階は肉を扱っている。
その肉たるや、いやあものすごく大きいことといったら。フットボール用ヘルメット2個分くらいの大きな肉も。さらにしゃぶしゃぶ用、焼き鳥用、牛肉、豚肉、鶏肉、いろんな種類がある。ここのお店はもともとは業務用、食堂などプロを相手にしている。だから一般のスーパーマーケットではまずお目にかかれない手に入らないものがある。アマチュアではとても手が出せない、あるいは調理や処理するにも専用の包丁やなべが必要だと思うものがあった。

お目当てのラム肉マトン肉は、あるにはあった。ニュージーランドからの輸入品が主で、やはり大きい。スライス加工したものでもCD-R50枚くらいの厚さがある。ブロックになったものでもゆうに新刊書や辞典数冊では足りないほどのサイズ。価格はというとおよそ1600円前後もする。プロ向けだから、それなりのものでないといけないのはいうまでもない。

で、価格を見てきただけでひとつも購入することなく戻ってきた、というわけ。
なんせあんな厚さの肉を、どうやってアマチュアが処理すればいいの。食べきれないまま残してしまったらもったいないどころか、ヒツジさんに申し訳ない。
いろいろ調べて、安価で量の少ないものにするなど絞って、購入したいと思う。

最後に残ったもの2010/03/12 00:07:38

仕事の帰り際に同僚から「おつかれさまでした」と。たどたどしいというか恥ずかしさを越えてあらわしてくれた手話が、どんな言葉よりもわたしのこころに響いた。

何を大事にしたいだろう。人生で。
お金? 財産? 名誉? 社会的地位? 出世?

お金は墓へ持って行けないし、財産だってそうだ。上を見ればきりがない。とはいえ何億円も財産があるというこの国の首相には、わからないだろうなあ。お金や財産の意味は。
名誉は? どんだけ名誉があるから、葬式に来てくれるとは限らない。名誉を偉いとか価値があるとも思えない。
社会的地位も出世も、う~ん、わたしには向いていないねえ。「長」がついていても、尊敬できない人をいままで何人か見てきた。もちろん尊敬できる人もいたけどね。
葬式の話が出たついでに、ぶっちゃけ言ってしまうと、たくさんの人に来てもらうより、ほんとうに大事だと、わたしを思ってくれる人だけが来てくれたらそれでいい。100人も1000人もなんて、ありえないでしょう。第一、わたしのいま通っている教会ではそんなに人が入れないし(笑)。

と、順々に数えてそぎ落としたり選別したりしていって、最後に残ったもの。
それは手話。

自宅に先生をお招きしてご指導いただいたり、手話ソングをしたり手話つき朗読をしたり。
なによりコミュニケーション、笑ったり泣いたり怒ったり、手話で話をするひとときが一番楽しい。

一緒に人生の苦しさ楽しさ喜び悲しみを分かち合える。
そんな人と、ずっと手話で語りあえたら。

人生の終わりの瞬間まで、あと1時間しかないとしても、いや1時間しかないからこそ、「ありがとう」といえるような手話を。

タイ米でサフランライスをつくってみた2010/03/13 23:59:57

先日広尾で購入したタイ米、1㌔。さっそく今日、サフランを入れてサフランライスをつくった。

街にあるインドカレーのお店に行って口にするサフランライスは、黄色い色が実に美しいだけではなく、香りもすてきだ。
日本のコメでも色は出せないわけではないが、なんとなく違う。たとえるなら無理やり色だけを黄色くしているような感じがするのだ。

で、今回サフランライスをつくるにあたって、バターを入れてみた。
タイ米のパサパサした感じがうまくかみあっておいしい。

サフランライスをつくったからには当然、カレーもつくった。
探しに探してようやく、都内のショップでラム肩ロースを手に入れることができた。
こちらも本格的なインドカレー。日本のブロックのような市販カレーはいっさい使わず、スパイスと香辛料を入れた。

カレーについてはまた明日、稿を改めて書いてみたい。

失敗を何度も重ねて2010/03/14 23:06:33

タイ米のサフランライスとラムカレー
昨日つくったカレーライスをけさと今晩、そして明日の弁当にしてみた。弁当は野菜、サラダがない。コンビニで調達して弁当に入れることにする。

出来上がったカレーはご覧のとおりだ。味も見た目もまあまあ、いける。

いくつも反省があるのだけれど、あえて挙げるならまず、米。
サフランはきれいに色がついているのだが、プロの食堂で口にするような香りがまだ出ていない。バターかターメリックを加えたらよい、とものの本にはある。わたしもバターを加えてみたが、ごはんの量に比べて足りなかったかもしれない。今度つくるときはもうちょっと多めにバターを入れてみようと思う。

カレーはきつね色に、プロのそれと同じくらいに出来上がった。辛さはもっとあってもよかった。辛さを加えるスパイスが手元にあるのだけれど、今回のインドカレーは本格的なスパイスを使ったものだけに、辛さを加えるスパイスをいれなかったのは失敗だった。
もうひとつ挙げるなら水の量。少し多かったかもしれない。次回は今回より少なくしてみよう。

ラム肉はにおいがなかったし固さも十分。
都内に、ほかにラム肉を扱っているフードストアがあるらしい。
今度時間があるときに調べて、違うラム肉マトン肉を使ってみるのもいいかな。

だんだんはまりつつある、カレーづくり。
もっとうまくなって、知人友人に食べてもらいたいと思う。
楽しみがまたひとつ増えた。

ありがとう2010/03/15 23:41:12

仕事の後に手話ソングダンスのレッスンに参加してきた。

先生から「気持ちがこもっていて明るい」とおほめをいただく。からだを目いっぱい使ったパフォーマンス、手話を使った身体表現は楽しいしやりがいがある。

さて話を変える。

「ありがとう」という言葉は方言、地方によって違うらしい。
そのレッスン後に居酒屋へ移動して仲間とわいわい話しながら、居酒屋のはし袋をみると、日本各地の方言による「ありがとう」が書いてあった。たとえば――。

青森=「ありがとうごす」 秋田=「えがった おおきに」 岩手=「ありがとうがんす」 福島=「たいへん してもらって」 岐阜=「きのどく うたてー」 山口=「たえがとうございます」 徳島・高知=「たまるか」 愛媛・島根・大分=「だんだん」 沖縄=「にへーでーびる」 宮古島=「たんでぃがーたんでぃ」

47都府県すべてを取り上げていない(京都、福岡はない)。が、けっこうおもしろいものだ。

その「ありがとう」を言える、感謝して口にし、喜んでもらえる。
幸せを感じることだろう。

人間が人間らしいのは、口や手やからだ、表情で気持ちや思いを伝えられるということ。
そのコミュニケ-ションを大切に、すなおなこころからの「感謝」ありがとうと言える生涯でありたい。

懐の深さ2010/03/16 23:28:27

言葉というのは、実に難しくフクザツで、それゆえにおもしろいものだ。
難聴者が使う手話に「頭割り」というのがある。食事を一緒にしたときに会計でお金を均一に出し合うという意味だ。どう表現するかというと、ひたいに親指を曲げた手を、指先を上に、小指を前方に向けてあてる。右から左へ、ひたいを分割するようにあてていく。

ところがこれはろう者の場合、「考えごとで頭がいっぱい」などという意味になるのだ。だからろう者が中途難聴者の手話を見てお互いに通じないということもある。つまり同じ表現でも全然意味が違うということだ。

だか困る、おかしい、ではない。そのお互いのずれを「なるほど」と認めあえる懐の深さをもっていたい。

春はもうすぐ2010/03/17 23:40:18

昨日おととい、ジャンパーにスーツで外に出てきた。地下鉄車内が暑く感じるくらいの陽気。
難聴者仲間とお花見の予定もあり、来月はじめには桜が満開か、散っていることだろうねえ。

春はもうすぐ。

もう15年 まだ15年2010/03/18 23:23:07

1995年3月20日 朝8時。
わたしは会社の宿直室から起きて、泊まり明けの仕事にとりかかろうとしていた。
眠い目をこすりこすり、目の前に出てきた仕事にとりかかろうとしていたその矢先、テレビの画面にくぎづけになった。「地下鉄で大規模なテロ」「地下鉄が止まっている」というのだった。一瞬で眠気が吹き飛んだのはいうまでもない。

しばらくして仕事の仲間や先輩らが駆けつけてきた。もちろん目の前に出された仕事は変更になった。

午前中で仕事を終えて当時住んでいた独身寮に帰ろうとしたが、営団地下鉄(当時)日比谷線・千代田線・丸ノ内線は全面ストップ。歩いて都営地下鉄駅までたどり着きう回し1時間以上かけて、ようやく帰った寮の管理人さんは、わたしの実家の家族から「無事か」と安否を問う連絡があったと話してくれた。

いまも、これからも生涯忘れられない日のひとつになった「地下鉄サリン事件」の記憶である。その日の夜、ニュース番組はもちろんこの事件一色で埋め尽くされた。

あれから15年、まだ15年。
一生消えることのない、サリンの後遺症に苦しんでいる方がたくさんおられる。家族を失った方の悲しみ苦しみも、いやされることはない。

宗教を理由にしたにせよ、違う理由にせよ、どんなことがあってもわたしはテロを容認することはできない。
どんな理由があっても、宗教はひとのこころを救い、生きる希望をつくるためにあるのであって、ひとのいのちを奪ったり傷つけたりするためにあるのではない。

あのようないまわしいできごとから、「9・11」をへて、わたしたちは何を学んだのだろう。

犠牲になられたかたがたのごめい福を、こころからお祈りいたします。

いくら縛ろうとしても2010/03/19 23:49:11

東京都が都議会に提案している、「青少年健全育成条例改正案」。子どもを性的な対象に描いたマンガやアニメを規制しようというのがねらいだそうだが、ここ数日新聞でも取り上げられている。
昨日の朝刊では都議会総務委員会で、賛成か反対かの採決が先送りにされる公算が強まった、と報じられている。

たしかにコンビニなどに陳列販売されている18歳以上向けのアダルト雑誌には、18歳未満として描かれている少女少年がセックスの対象にされたり、性暴力の場面があったりする。なかにはセックスや性暴力を誇張して描いたものもある。それらの作品を18歳未満の子どもには販売しないように、というのが趣旨らしい。

だが、わたしははっきりいっていくら規制しても無意味とは言わないが、かえってこれらの表現作品は地下に潜ってしまうだろうと考える。表には出ないことで一見、なにもおきていないように感じるかもしれないが、逆にますます表現がエスカレートしてしまうだろうと思うのだ。

こうした表現の一方で、性に目覚める若い人たちへの教育や知識を深めようとすると、「寝た子を起こすな」という反発がいまだにあることだ。むしろこういった現実があることで、わたしたちの身の回りがいかにおかしなものになっているかを考えさせて、男性も女性も、異なる性ゆえに理解し合い、お互いを大切なものとして生きていくとはどういうことか、を知識ではなく具体的な生活の中で考えていくほうがずっといい。
いびつだと思うのは、少子高齢化のなかで、企業に働いている男性がなかなか子育てや子どもとかかわる時間機会が少なく、女性にしわ寄せがきていることだ。マンガやアニメと違うという反論もあるだろうが、男性と女性がともに生きていくという視点ではなく、一方が低く押し付けられて一方が無関心であるということにおいて、根っこでつながっているのではないか、ということだ。

いくら権力や政治家がしばろう規制しようとしても、人のこころや思いはそう簡単にはしばられない。「表現の自由」という面からも、おかしなものである、とわたしは思う。
案の定、日本雑誌協会、日本書籍出版協会など4団体でつくる出版倫理協議会やマンガ家らから、「恣意的な判断で検閲や弾圧につながる」などという、猛烈な反対がわき起こっている。

この案を考えた人たちは、純粋培養というつもりなのかもしれない。だが純粋培養を一方的に押し付けるような社会では、健全な社会とはいえない。
こんな条例案は、はっきりいっていらない。