都内で桜が咲いたそうだが2016/03/21 22:23:57

連休最終日。
気温はともかく天気がよかったので、妻に弁当をつくってもらって都内のビルそばのランチコーナーで昼食を。朝晩はまだまだ冷えるけれど、都内で桜が咲いたという。

『心の瞳』の練習は今日も続いた。
スコア譜面との突き合わせと、歌や手話と合わせる作業が必要だが、その前にギターコード譜面をいっさい見ないで、つまりコード進行をアタマにたたきこんで弾ける。
まだまだ左手の弦の押さえが甘いなど問題があるけれど。
朗読でもそうだけど、わたしはできる限り台本を見ないで完全に覚えることを自分に課している。
だんだん衰えていくだろう、記憶力との戦いでもあるのだが。

今週はまた寒さが戻るらしい。
来週は桜が見ごろになるだろうねえ。

憎悪が深まるだけ2016/03/22 22:56:04

ベルギーで自爆テロが起きて、30人あまりが亡くなったというニュースには驚かされた。けれど昨年のパリ多発テロの容疑者がベルギーに住んでいたことや、ブリュッセル市内で過激思想に影響を受けた人たちが銃や爆弾を持ってテロを起こそうと考えたとしてもおかしくない。

こわいのは、テロそのものはもちろんだけど、多様さ、異なる人々に対する寛容さが失われていくこと。
息苦しい生活になってしまったらますます、憎悪が深まるだけである。

自宅そばで撮影した月。
ベルギーだろうがアメリカだろうがサウジアラビアだろうが、見える月は同じ。
この星に生活しているわたしたちがどうして他人と仲良く、とまではいかないにしてもともに生きるということができないのか。

ずっと前向きになれる2016/03/23 23:08:54

あすのギターレッスンに向けて、今日も短い時間の中で集中して取り組んだ。
聴こえないのはわかっていること。できないことで嘆いたりあきらめたりするのではなく、出来ることを探っていった方がずっと前向きになれる。

で、以前書いたように、「弦を弾く音が汚い」と先生に言われたことをふりかえってみた。
わたしはストローク奏法が苦手で、どちらかというならアルペジオやスリーフィンガーにこだわり続けている。
なのに「汚い音だ」と言われたのは、ひとつひとつの弦を大事に弾いていないから。1本1本の弦を丁寧にとは言わないにしても、たしかに大事に弾いていけば、きちんと音が出せるしきれいな奏法になる。
弦を大事に弾くことは耳の聴こえとは関係がない。
ギター奏法は耳のことや聴こえではなく手指の動きの問題なのだから、しっかり練習すればできる。

失われたものを数えたり嘆いたりするより、いまあるものできるもの残されたものをしっかりこなしていこう。

何クソ2016/03/24 23:40:56

『心の瞳』レッスン。
 
たった1小節のテンポが合わない遅すぎたり早すぎたりとダメ出しをもだった。

なにクソという言葉を思い出した。
ここまでやれたのだから、必ず乗り越えられる。壁は乗り越えるためにあるのだから。

やりたいと言ったのだから2016/03/25 23:54:17

週末にかけて寒さが感じられるが、月曜日からは晴天が続くらしい。

来週は妻が予定のためギター練習を休む一方、先生がわたしにいつもの倍、つまり1時間を割いて下さることになった。
はじめは「え?」と思ったのだけど、言われてなにクソ、やってやろうじゃないかという闘志というかやる気がわいてきた。

この『心の瞳』は坂本九さんの遺作でもある。
生前テレビ放送されていた「サンデー9」を、札幌に住んでいて観たことはあったけれどもまさか最後の曲をギターでやるとは思っていなかった。
「虹の手」メンバーに、この曲をCDではなくギターでやりたいと言ったのだから何が何でもやり遂げたい。

「ルーティン」2016/03/26 23:54:17

週末。

このあいだのレッスンで先生から厳しいダメ出しをいただいた。
要するに、左手のコードを押さえるときに、1本ずつ弦を押さえていくから曲に合わせて遅れたり速くなったり、バラバラになってしまうという。

楽譜を見ると「♪=72」とある。このテンポで4/4拍子、というのが曲の速さである。
ところが1本ずつ指を押さえていくものだから、あるいは拍子に合わせずに弾くものだから、音が乱れたりずれたりしてしまう。先生の演奏を見ると1本ずつではなく、コードの指全部をいっぺんに押さえている。つまりコードをしっかり覚えているからなのだ。プロならあたりまえの動作なんだけど。

ここで思い出すのが「ルーティン」。
よく勘違いされるのだけどあるいは思い込んでしまうのだけど、たとえば昨年話題になったラグビーの五郎丸歩選手。
彼のキッカーの動作がYouTubeなどで見られるからご覧になられた方も多いだろうと思う。マスコミもそうだしわたしたちも、彼の動きをルーティンと呼び、手指を組み合わせて祈るようなしぐさをし、手を前に合わせて前かがみになってキックする。それがルーティンだと思い込んでいる。つまり、ああいう動きをするのはキックが成功するためのおまじないあるいはキックを成功させるための、目的なのだ、と。

ところが本当の意味でいう「ルーティン」は、なにも祈るようなしぐさだとかではなく、一連の決まりきった動きであり、流れであり、動作なのだ。目的ではなく手段である、とも言える。
辞書を見ると「ルーティン」とは

① きまりきった仕事。 日々の作業。ルーチン-ワーク。
②決められた一連の動き、決められた一連の動作。 この他、 決められたパターンなど

という。型にはまった動作といえばわかりやすいかもしれない。

ラグビーはさっぱりルールも得点も知らないのだけど、アメリカンフットボールにもルーティンは存在する。
オフェンスのとき、センターがボールに手をかける。クォーターバックがセンターのしりに手をそえてプレーコールをかける。センターがボールを股の間からクォーターバックへ渡す(スナップという)。その一連の動きは、決められたとおりに動く。まるで流れ作業のように。
また、タッチダウンを挙げたあとのエクストラポイントでキッカーがボールをけるとき。センターがボールをセットしてボールホルダーにスナップする前に、キッカーは、けるイメージをつくり、ボールホルダーの真後ろから左へ2~3歩動いてボールとゴールポストの位置を確認して、ゴールポストについている旗を見て風の流れを見、センターからスナップされたボールがホルダーによって固定されたら、ボールのける(シューズが当たる)ポイントとゴールポストだけを見て、キックする。文字にするとややこしいようだけど、流れとしてはこれらを一連の動作として行う。なにも祈るようなしぐさななんてない。
書いていて、五郎丸さんには、マスコミや一般の人がさかんにルーティンと言っているのは迷惑なのではないだろうか。あくまでもああいう動きやしぐさはプレーをするための手段であってあれをするのが目的ではない。ところがああいう活躍をしたものだから、ああいうしぐさや動きがルーティンと思われて迷惑なのではないかと思う。

話をギターに戻す。
1本ずつ指を押さえていくと、たしかに曲に合わず遅れてしまう。
プロの先生がコードの指全部をいっぺんに押さえているのは、もう指の動き弦の押さえ方が決められた一連の動きになっていてムダがない。コードをしっかり押さえる、ただそれだけのことでしかないが、それができているからきれいな音になっている。

フットボール選手にしたってギタリストにしたって、高いレベル技術の人なら、ルーティンというのは説明できるものではなく、プレーの段階に入って周囲がどうであろうが環境がどうだろうが、いっさい気にしない気にならない。そういうレベルなのだろう。

わたしの練習も、まず余計なことは言わないで、コードを指を、一連の動きのようにコードを覚える。からだと指に覚えこませること。

まだまだだけれど少しは手がかりがつかめてきたかなと。

あすからの活力になった2016/03/27 22:22:00

いつものように朝礼拝ではなく、夕方からの礼拝に顔を出してきた。午前中に予定があって、朝礼拝を休まなくてはならなかったためだ。しかし、午後からの「虹の手」2015年度最後の練習で「川の流れのように」「心の瞳」を練習して、ギターこそ持ってこなかったけれど、みんなと合わせて演奏したら、もっと楽しくなるだろうなあと、期待がもてた。
あすからの活力になった、休日である。

妻をゆっくり休ませて2016/03/28 22:41:11

先週からまた寒さが戻ってきて、昨日からけさはわたしも肩こりや頭痛があって少々仕事に入るのもきつかった。それは妻も同じだったようで、鼻水が出てきたと連絡をもらったら気にしないわけにはいかない。わたしの体調は、妻の弁当を食べてからスッキリ回復したが、当初仕事が終わったら妻だけ先に帰って、わたしは別件の用事を終わらせてから帰るつもりだったのをキャンセルして自宅へ帰ってきた。

活動量計の歩数が足りない。
で、妻からゴミ出しと買い物に行ってきてと。11500歩を超えた歩数に満足。
買い物から帰って妻に「休んでなさい!」とだけ言って、妻からの夕食のリクエストはラーメン。
週末限定でつくったりしてだんだんコツがつかめ味もうまくなってきたとわたしは思うが、妻は内心「あたしがやったほうが……」と思っているかもしれない。
めんをゆでるとき、プロはざるにめんを入れてはしでかきまぜゆでる。わたしも家にある中サイズのざるをつかって同じようにやってみた。なべにそのままめんを入れると、めんがなべにこびりつくこともある。ざるに入れてゆでれば、ざるの網目からめんの粉が通ってゆで具合がよく、北海道ラーメンのちぢれめんの色が金色に光って見た目もあざやかだ。
北海道風にみそラーメンにバターを入れて、サラダや豆腐をそえてふたりとも食べ終えたあとに、皿、おなべなど使ったものをわたしが洗って、妻は就寝についた。

妻の安眠を妨げない程度にギター練習を切り上げて、一日が終わる。

壁は高いほど2016/03/29 23:19:02

本来は毎週木曜日の予定のギターレッスンだが、妻が予定で来られない週があり、その振り替えで今日、わたしだけのレッスンを受けた。

普通に弾いているつもりが、テンポが速いと何度もダメ出しをもらった。もちろん悔しいし自分に腹が立つ。聴こえないことも関係がある。
だが、壁は高いほど乗り越えたときの充足感が大きいだろう。
いつも言っているように壁は乗り越えるためにあるのだから。

葵の印籠ではない2016/03/30 23:28:08

老人がヘルプマークの人に席を譲れと大騒ぎ!?弱者を守る日本でありたい。知っておきたいヘルプマークの意味
http://spotlight-media.jp/article/262807046808949562

「ヘルプマーク」に込められた意味は 東京発、全国に拡大へ
http://www.huffingtonpost.jp/2016/03/28/do-you-know-help-mark-tokyo_n_9555386.html?utm_hp_ref=japan-society

もともとのツィッターの書き込みはここにも記されている話。
今月26日に書き込まれたものらしい。

「電車内で老人から『席を譲れ』といわれた」。投稿主は難病のある女性で、ヘルプカードを携帯しているが、カードを見せて趣旨を説明したけれど「知らないけれど席を譲れ」と言われた、という。さらにこの話には余談があって、会話を聞いていた高齢女性らが「わたしらは年寄りだから新しいものはわからないのよ」、という一人の話に「ねー!」と一斉に相槌を打ったという。

ここからみなさんはどんなことをお感じになられるだろうか。

わたしもここで何度か書いたように、ヘルプカードをかばんにつけている。そして席を譲られたことがあるし、同じように見た目ではわからない妊婦さんに席を譲ったこともある。彼女が「大丈夫ですよ」と断ったけれど「妊婦さんの方がもっとたいへんだから」と言ってわたしは座らなかった。

内閣府 障害を理由とする差別の解消の推進
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/sabekai.html
公益財団法人日本ケアフィット機構
http://www.carefit.org/sabekai/?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc&utm_campaign=cp01

まもなく、来月1日から障害者差別解消法が施行される。

いうまでもなく障がいを理由とした差別はあってはならない。
雇用はもちろん、交通機関のアクセスや情報アクセシビリティー、教育などあらゆる面における差別をなくそうということである。

たしかに障がい者といってもさまざま。
わたしのような聴覚障がい者、内部障がいなど見た目にはそれとは気づかれにくい障がいや、見た目ですぐにわかる障がいもある。
差別はこころのありようでもあるから、すぐになくなるものではない、という意見や声もわかる。
しかし、なくならないといって、あるいは交通機関のアクセスや情報アクセシビリティー、教育などにお金がかかるからといって対応しないということは障がい者に対する不利益であり、それはめぐりめぐって社会への不利益でもある。

このツィッターの書き込みで感じることは、まだまだヘルプカードに対する認知度が低いということだ。そして席を譲られた経験があるわたしも、一方で目の前でカードを見たにもかかわらず譲られなかったこともある。日本人はシャイというか、積極的に声をあげることに慣れてない人が多いし、ヘルプカードやマタニティーマークを見ても、断られたらどうしようとか出しゃばって怒られたら困るとかいった心理がはたらいてなかなか口に出せない人もいるかもしれない。

冷静に客観的に考えてみる。
いったいこういうカードをつけるというのはどういう意味があるのだろう。
そしてカードは「弱者だから」という立場を押しつける強要するものなのだろうか?
そうではないはずだ。
見た目では分かりにくいからこそ、気づいてほしいという意図目的と、社会にはそういう弱者がいて、支えあっていくことが大事だということの啓発が込められている。

よく言われるのだけど、ヘルプカードやマタニティーマークを「弱者の印籠」というような、まるで弱者が『水戸黄門』で最後に出る、葵の印籠のごとく、自分の権威づけのためにつけているのではないかという声を聞く。
たしかにそう見られることもわからないではないけど、それは違う。
あくまでも見た目では判別しにくいからこそわたしたちを知ってほしいということなのだ。「そこどけそこのけ」、オラオラ、というつもりも目的もない。

しかし。
このツィッターの書き込みのような、「老人がヘルプマークの人に席を譲れ」というようなギスギスした社会は、いったいなぜうまれたのだろう。
社会に出てまもなくのころ、わたしは高齢化社会の到来を見越して、もっと高齢者が増える時代に入ったら、高齢者間同士で席を譲れ、いや譲らない、といったけんかやトラブルが起きるのではないか、という暗い予測を抱いていた。

ちょっとでいいから、「お席をどうぞ」というやさしさがあるだけで、電車や人の集まるところの空気はもっと変わると思うのだが。