いまだから言えること2015/09/24 23:11:48

社会人になってもう4半世紀になる。
定年延長でもにならない限り、あと10年くらいしか現役でいられないだろうなと思うのだが、このごろふと思う。
もう少し、周囲に助けを求めるとか、自分の状況を説明したり話したりすればよかったな、と。

わたしは実家の家族のなかでたったひとり聴こえないからだで生まれたし、幼稚園から大学まで、ずっと聴者のなかで育ってきた。おまけに何度も書いたように、聴こえないけれど話せるために、聴者からみれば「話せるから聴こえているのだろう」と思われてしまい、わたしが聴こえないということが埋もれたり隠れてしまったりして、正直コミュニケーションがスムーズに行かなかった。
大学までのころはまだ補聴器をつけなくても聴こえていたので、周囲もそれほどわたしの障がいを意識することもなかったのが、社会人になって徐々に聴こえが落ちてくると、そのギャップがますますひどくなって、自分の殻に閉じこもってしまった。周囲に聴こえないと伝えても言っても、分かってもらえないということが多かったし、自分で聴こえないということを抱え込んでしまったのだと思う。いまだから言えるのであって、そのころはとてもそんな気持ちをみつめる余裕もなかったと言える。結局は聴者ばかりのなかでたったひとりのろう者だから、よけいにそう感じたのだろう。

歳を重ねていろいろ経験値が上がってくると、過去のことがフラッシュバックになったり、気づかなかったことが見えたりしてくる。そうしてはじめて、自分の気持ちやあのころの周囲とのかかわりなどがみえてくるようになる。

光陰矢の如しとはいえ、過ぎ去ったものはもう戻ってこない。
ならば、せめてこれから先の人生くらいは、もう少し、周囲に助けを求める、自分の状況を説明したり話したりすることに積極的とはいかなくても、素直に言えるようになりたいと思うのだ。
それがまた、昨日書いた、ろう者と聴者をつなぐということではないだろうか。
結婚前は障がい者と接したことがなく、付き合う前は聴こえないから結婚相手にならないだろうなと思っていたわたしを選んでくれた妻がいて、妻は曲がりなりにも手話で話そうとしてくれているのだから。
もうちょっと、聴者にこころをひらいていってもいいんじゃないかなあ。
昔のわたしへかける言葉があるなら、そう言いたい。