2つに取り組む ― 2012/05/01 23:40:25

今日の手話学習会は短文の手話表現を学んだ。
いったんこれで短文表現は終了。手話通訳士先生と相談して、来週からは秋のコスモス朗読会で読み演じる『最後だとわかっていたなら』と夏の手話サークルの納涼会で、手話落語をやることに決め、手話落語にもとりくむことにした。朗読と手話落語の2本立てである。
手話落語は初めての取り組みだ。
4カ月間、これ一本に絞る。
いったんこれで短文表現は終了。手話通訳士先生と相談して、来週からは秋のコスモス朗読会で読み演じる『最後だとわかっていたなら』と夏の手話サークルの納涼会で、手話落語をやることに決め、手話落語にもとりくむことにした。朗読と手話落語の2本立てである。
手話落語は初めての取り組みだ。
4カ月間、これ一本に絞る。
自分の力だけではない ― 2012/05/02 22:31:42

明日から連休後半にはいる。前半は自動車事故が相次ぐなど、たいへんな日が続いた。明日以降は天気がすっきりしないらしく、心配であるが、いろいろ予定を立てている。
舞台、手話落語など、今年もやりたいこと目標がある。
だが、自分ひとりで何でもやろうとするのではなく、やれるのだと意気込むのでもなく、神さまにおまかせおゆだねする。もちろんわたしはやらなければならないことやるべきことをしっかりやっていかなくては。
必ず道は備えられるし、開かれると信じている。
自分の力だけではない、わたしを力づけてくださるかたが一緒にいることで、実現するのだ、と。
舞台、手話落語など、今年もやりたいこと目標がある。
だが、自分ひとりで何でもやろうとするのではなく、やれるのだと意気込むのでもなく、神さまにおまかせおゆだねする。もちろんわたしはやらなければならないことやるべきことをしっかりやっていかなくては。
必ず道は備えられるし、開かれると信じている。
自分の力だけではない、わたしを力づけてくださるかたが一緒にいることで、実現するのだ、と。
いまこうして生きていること生かされていること ― 2012/05/03 14:47:47

話はさかのぼって2日前。
昨年から歯科治療を受けている。歯並びをよくしたいのと、いつも悩まされている肩こりを解決するために口の中に入れるマウスガードをつくりたいが、そのまえに虫歯などを治しておきたいからだ。2日前には歯の神経を抜く治療を1時間かけてうけた。やれるときにきちんと治しておかないと後になって困るのは、ほかでもなくわたしである。
で、歯医者に行くとき、いつも昔のころを思い出してしまう。
幼稚園から小学校のころ、なにがいやって、風邪をひいて医者に行くとおしりから注射される。いまは安全性から、おしりに注射されることはないそうだが、歯医者と並んでとてもいやだったものだ。
歯医者に行く。呼ばれて治療いすに座る。水がはいったアルトマイだかなんだか金属のコップがあって、そばには小さなろうそくがともっている。歯を治療するための器具を温めるなどのためだ。そして上を見るとチェーンにつるされた鋭い針などが光っている。
これだけでもう逃げ出したい思いだった。
時間の針をさかのぼって、人類が手を使って生活するようになったころに戻ろう。
病気はそのころから存在していたらしい。虫歯のほかにも頭がい骨に穴をあけるなどといった治療(とても現代医療からみれば「治療」とはいえないものだろうが)が行われていたと、本で読んだことがある。
もちろんそれらをうけることで死ぬ確率は高かったに違いない。ましてテレビで見たことがあるが、エジプトやインカのミイラなどというのはどんなにたいへんな苦しみ痛みがあったことだろう。ポーランドのクラクフを訪れて領主の墓のそばを歩いたこと、オランダでレンブラントの墓がある教会を歩いたこと。そのころ生きていた人たちにとって、病気と生きることのふたつは、どれほど過酷でたいへんなことだったか。
医療制度などといった視点からではなく、純粋に現代医療の技術という視点からみると、歯の神経を抜く治療ではあっても、麻酔を受ける痛みもそれほど強くはない。
だがこのとても進んだ医療も、それが技術として確立するまでにどれだけの犠牲があったのだろう。
ふりかえってみるとわたしたちがこうしていま生きられるのは、生きることができているのは、先人の絶え間ない努力と犠牲、より良い未来をつくっていこうという意志の積み重ねの上に立っているのではないか。
いまこうして生かされている生きていることは、あたりまえのことではないのだ、とあらためてつくづく思わされている。
昨年から歯科治療を受けている。歯並びをよくしたいのと、いつも悩まされている肩こりを解決するために口の中に入れるマウスガードをつくりたいが、そのまえに虫歯などを治しておきたいからだ。2日前には歯の神経を抜く治療を1時間かけてうけた。やれるときにきちんと治しておかないと後になって困るのは、ほかでもなくわたしである。
で、歯医者に行くとき、いつも昔のころを思い出してしまう。
幼稚園から小学校のころ、なにがいやって、風邪をひいて医者に行くとおしりから注射される。いまは安全性から、おしりに注射されることはないそうだが、歯医者と並んでとてもいやだったものだ。
歯医者に行く。呼ばれて治療いすに座る。水がはいったアルトマイだかなんだか金属のコップがあって、そばには小さなろうそくがともっている。歯を治療するための器具を温めるなどのためだ。そして上を見るとチェーンにつるされた鋭い針などが光っている。
これだけでもう逃げ出したい思いだった。
時間の針をさかのぼって、人類が手を使って生活するようになったころに戻ろう。
病気はそのころから存在していたらしい。虫歯のほかにも頭がい骨に穴をあけるなどといった治療(とても現代医療からみれば「治療」とはいえないものだろうが)が行われていたと、本で読んだことがある。
もちろんそれらをうけることで死ぬ確率は高かったに違いない。ましてテレビで見たことがあるが、エジプトやインカのミイラなどというのはどんなにたいへんな苦しみ痛みがあったことだろう。ポーランドのクラクフを訪れて領主の墓のそばを歩いたこと、オランダでレンブラントの墓がある教会を歩いたこと。そのころ生きていた人たちにとって、病気と生きることのふたつは、どれほど過酷でたいへんなことだったか。
医療制度などといった視点からではなく、純粋に現代医療の技術という視点からみると、歯の神経を抜く治療ではあっても、麻酔を受ける痛みもそれほど強くはない。
だがこのとても進んだ医療も、それが技術として確立するまでにどれだけの犠牲があったのだろう。
ふりかえってみるとわたしたちがこうしていま生きられるのは、生きることができているのは、先人の絶え間ない努力と犠牲、より良い未来をつくっていこうという意志の積み重ねの上に立っているのではないか。
いまこうして生かされている生きていることは、あたりまえのことではないのだ、とあらためてつくづく思わされている。
『アンネの追憶』 ― 2012/05/04 22:57:53

連休後半中日の今日。映画『アンネの追憶』を観てきた。
Millie Perkins主演の『アンネの日記』(1959)を観たことがあるし、アンネが隠れ家で過ごしたアムステルダム、逮捕後に一時送られたアウシュビッツ強制収容所跡を訪れた。手話つき朗読で『アンネの日記』をやったこともある。
いろんな思いを込めて、この『アンネの追憶』を観た。
原題『Memories of Anne Frank』は、『~日記』に描かれなかった、つまりゲシュタポによって逮捕され強制収容所に送られてからのアンネと家族の足取りと強制収容所でのアンネを中心に描いている。端的に言ってしまうと、『~日記』のその後だ。
劇中で描かれるアウシュビッツ強制収容所跡。収容された人たちから取り上げたメガネ。散髪された毛髪。かばん。いくつあるのかわからない、たくさんのメガネを、実際に強制収容所跡でみたそれらと重なって、それらメガネの一つひとつにはたしかにその人の歴史があり営みがあった。いくつもの人生があった。だのに戦争で、憎悪で断ち切られ奪われていった。
「さらば凡て人に爲せられんと思ふことは亦その如くせよ」(マタイによる福音書7章12節)。
だのになぜ、想像を絶する悪が行われたのか?
劇中にこんな場面が出てくる。
ユダヤ人教師((ラビ=Monni OVADIA)がアウシュビッツでナチスの軍人に聖書や哲学を教えている。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』という聖書の言葉をあなたはどう理解するのか? その問いに答えきれず、怒りを込めて銃を向けようとするナチス軍人に、ラビは良心と善意が試されていると語る。人間の尊厳を否定する強制収容所という状況下での深い問いである。
イエス様以後、数多くの哲学者や宗教家、神学者、科学者がこの問いを問い続けた。だのにいまだに争い憎しみが絶えない。
またひとつ、何度でも見たい映画に加わった作品。
Millie Perkins主演の『アンネの日記』(1959)を観たことがあるし、アンネが隠れ家で過ごしたアムステルダム、逮捕後に一時送られたアウシュビッツ強制収容所跡を訪れた。手話つき朗読で『アンネの日記』をやったこともある。
いろんな思いを込めて、この『アンネの追憶』を観た。
原題『Memories of Anne Frank』は、『~日記』に描かれなかった、つまりゲシュタポによって逮捕され強制収容所に送られてからのアンネと家族の足取りと強制収容所でのアンネを中心に描いている。端的に言ってしまうと、『~日記』のその後だ。
劇中で描かれるアウシュビッツ強制収容所跡。収容された人たちから取り上げたメガネ。散髪された毛髪。かばん。いくつあるのかわからない、たくさんのメガネを、実際に強制収容所跡でみたそれらと重なって、それらメガネの一つひとつにはたしかにその人の歴史があり営みがあった。いくつもの人生があった。だのに戦争で、憎悪で断ち切られ奪われていった。
「さらば凡て人に爲せられんと思ふことは亦その如くせよ」(マタイによる福音書7章12節)。
だのになぜ、想像を絶する悪が行われたのか?
劇中にこんな場面が出てくる。
ユダヤ人教師((ラビ=Monni OVADIA)がアウシュビッツでナチスの軍人に聖書や哲学を教えている。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』という聖書の言葉をあなたはどう理解するのか? その問いに答えきれず、怒りを込めて銃を向けようとするナチス軍人に、ラビは良心と善意が試されていると語る。人間の尊厳を否定する強制収容所という状況下での深い問いである。
イエス様以後、数多くの哲学者や宗教家、神学者、科学者がこの問いを問い続けた。だのにいまだに争い憎しみが絶えない。
またひとつ、何度でも見たい映画に加わった作品。
手話落語のネタを探して ― 2012/05/05 23:53:08

今日、手話落語のテキストを探しに、本屋を歩いてみた。なかなかみつからないねえ。
まだ時間がある。
じっくり探していきたい。
まだ時間がある。
じっくり探していきたい。
関西でのフットボール初観戦 ― 2012/05/06 23:58:35

連休最終日。
京都まで足を延ばして礼拝をまもったあとに、宝ヶ池球技場でアメリカンフットボールの東京大学対京都大学の定期戦を観戦してきた。
ともに国立大学の最高峰をなす両校。
私立大学のようなスポーツ推薦制度がないから、高校でスポーツができた優秀な学生をリクルートすることが難しい。しかしそれがかえって自分たちで考えて練習方法からチームづくりから、独創的なやりかたをつくることができる。
やっぱりわたしはホームでもある京都大学を応援する。大学を卒業するころの京都大学ギャングスターズはとても強かった。あこがれのチームといっていい。もしいま京都大学に入学できて若くて体力、からだのサイズなどで問題がなければ、やってみたかったと思うほどだ。
試合は前半第1クオーターにフィールドゴールで3点を先行した京都大学に対して東京大学がパスのインタセプトからリターンタッチダウンをあげて6点を挙げ、第2クオーターに京都大学が3点を奪ってそのまま後半にはいった京都大学が、パスとランを織り交ぜて優位に試合をすすめ、後半だけで36点を奪う猛攻。最終第4クオーターに東京大学が7点をあげるも、42-13で京都大学が勝った。
関西のフットボールを、春季とはいえ観戦したのはこれがはじめて。
秋の公式戦もいつかゆっくり観てみたい。
京都まで足を延ばして礼拝をまもったあとに、宝ヶ池球技場でアメリカンフットボールの東京大学対京都大学の定期戦を観戦してきた。
ともに国立大学の最高峰をなす両校。
私立大学のようなスポーツ推薦制度がないから、高校でスポーツができた優秀な学生をリクルートすることが難しい。しかしそれがかえって自分たちで考えて練習方法からチームづくりから、独創的なやりかたをつくることができる。
やっぱりわたしはホームでもある京都大学を応援する。大学を卒業するころの京都大学ギャングスターズはとても強かった。あこがれのチームといっていい。もしいま京都大学に入学できて若くて体力、からだのサイズなどで問題がなければ、やってみたかったと思うほどだ。
試合は前半第1クオーターにフィールドゴールで3点を先行した京都大学に対して東京大学がパスのインタセプトからリターンタッチダウンをあげて6点を挙げ、第2クオーターに京都大学が3点を奪ってそのまま後半にはいった京都大学が、パスとランを織り交ぜて優位に試合をすすめ、後半だけで36点を奪う猛攻。最終第4クオーターに東京大学が7点をあげるも、42-13で京都大学が勝った。
関西のフットボールを、春季とはいえ観戦したのはこれがはじめて。
秋の公式戦もいつかゆっくり観てみたい。
あなたたちは気づかなかったのか? ― 2012/05/07 23:16:58

大阪維新の会:家庭教育支援条例案を白紙撤回 抗議受け
http://mainichi.jp/select/news/20120508k0000m010085000c.html
大阪維新の会:家庭教育支援条例案に批判続々
http://mainichi.jp/select/news/20120507k0000e010106000c.html
維新の会、条例案提出を撤回 「偏見助長」など批判受け
http://www.asahi.com/national/update/0507/OSK201205070092.html
結婚したこともなければもちろん、子どもを育てたこともないわたしだ。
だが重度聴覚障がいというからだをもって生まれたこと。わたし以外はみな聴こえるという家庭環境の中でたったひとり聴こえない。親がわたしをどうやって育てようとしたか、苦しみ悩んだことは想像するに余りある。
ろう学校に通わせず、普通学校に通わせたのは「障がい者としてのひけめを負わせたくなかったからだ」ときいたことがある。だが、聴者に合わせて自分を押し殺してしまう性格や行動を身につけ、対人関係などスムーズにいかない生きづらさを抱えたまま、いまに至ってしまった。けれどそれを責めるつもりはないし、親にしてみればそうせざるを得ない思いだったのだろう。自分もいずれ親になってみればわかることだろうが。
と、書いてみて。
「維新の会」なる政治団体が大阪市議会に出した条例案が批判を受けて、撤回と謝罪をしたという。批判も謝罪も当然のことである。はっきり言って、底が浅いというか、軽いというか、一面だけでしかものを見ていないというか。
批判を受けた「家庭教育支援条例案」。百歩譲って仮に「親になるための学び」が必要との主張が正しいとしても、それは障がい者への虐待の予防・防止として、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」というのはあまりにも一面的でしかない。
わたしの親がそうだったように、障がい者を生んだのは愛着形成の不足といわれたらたまったものではない。どこの世界に、子を愛さない親がいるだろう。子どもへの虐待が報道されているが、生育歴として親の被虐待歴もあるかもしれないが、それもいろんな角度から見るべきこと。親だけではなく社会のかかわりなど、さまざまな要因がからんでいる。
記事にもあるように、専門家や保護者団体から「科学的に誤り」「偏見を助長する」と批判が相次ぐのは当然のことだ。
わたしの周りにも何人か、障がい児を育てている人がいる。
将来子どもができたとき、親が聴こえないということで難しい問題があるかもしれない。だからといって子どもを育てられないなどと否定されるのもまたおかしな話。
結局、障がい者差別を助長すると受け取られても当然。
白紙撤回する前に、気づかなかったのか?
http://mainichi.jp/select/news/20120508k0000m010085000c.html
大阪維新の会:家庭教育支援条例案に批判続々
http://mainichi.jp/select/news/20120507k0000e010106000c.html
維新の会、条例案提出を撤回 「偏見助長」など批判受け
http://www.asahi.com/national/update/0507/OSK201205070092.html
結婚したこともなければもちろん、子どもを育てたこともないわたしだ。
だが重度聴覚障がいというからだをもって生まれたこと。わたし以外はみな聴こえるという家庭環境の中でたったひとり聴こえない。親がわたしをどうやって育てようとしたか、苦しみ悩んだことは想像するに余りある。
ろう学校に通わせず、普通学校に通わせたのは「障がい者としてのひけめを負わせたくなかったからだ」ときいたことがある。だが、聴者に合わせて自分を押し殺してしまう性格や行動を身につけ、対人関係などスムーズにいかない生きづらさを抱えたまま、いまに至ってしまった。けれどそれを責めるつもりはないし、親にしてみればそうせざるを得ない思いだったのだろう。自分もいずれ親になってみればわかることだろうが。
と、書いてみて。
「維新の会」なる政治団体が大阪市議会に出した条例案が批判を受けて、撤回と謝罪をしたという。批判も謝罪も当然のことである。はっきり言って、底が浅いというか、軽いというか、一面だけでしかものを見ていないというか。
批判を受けた「家庭教育支援条例案」。百歩譲って仮に「親になるための学び」が必要との主張が正しいとしても、それは障がい者への虐待の予防・防止として、「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」というのはあまりにも一面的でしかない。
わたしの親がそうだったように、障がい者を生んだのは愛着形成の不足といわれたらたまったものではない。どこの世界に、子を愛さない親がいるだろう。子どもへの虐待が報道されているが、生育歴として親の被虐待歴もあるかもしれないが、それもいろんな角度から見るべきこと。親だけではなく社会のかかわりなど、さまざまな要因がからんでいる。
記事にもあるように、専門家や保護者団体から「科学的に誤り」「偏見を助長する」と批判が相次ぐのは当然のことだ。
わたしの周りにも何人か、障がい児を育てている人がいる。
将来子どもができたとき、親が聴こえないということで難しい問題があるかもしれない。だからといって子どもを育てられないなどと否定されるのもまたおかしな話。
結局、障がい者差別を助長すると受け取られても当然。
白紙撤回する前に、気づかなかったのか?
どちらもあり、だと思う ― 2012/05/08 23:57:07

先週書いたように、日本手話の短文表現をいったん中断して、今日から、9月29日に世田谷区下北沢で開かれる、「第7回コスモス朗読会」でわたしが演じる『最後だとわかっていたなら』(ノーマ・コーネット・マレック著、佐川睦訳)の手話表現づくりが始まった。
声に出して読むと5分もかからないだろうが、手話を入れるためにやや長くなる。
手話訳はろう者や中途難聴者にもわかるように、そして詩の世界や内容をイメージするようにつくる。
毎年と同じように手話通訳士先生と相談してすすめていく作業が、本当に楽しくやりがいを感じる。
意見を出し合い、今回は英語が原作でもあるので、原文とも突き合わせながらつくっていく。
今回も新しい発見があった。
訳文で「そしてまたもう一度呼び寄せて」とあるのをわたしはそのまま、「また再び手招きをして」とやってみた。だがいまひとつ、描写に説得力がない。
あごに手をあてて「待つ」+手招き(呼び寄せて)+手招きをした手の人差し指を立てて人に見立てて+その指をこちらへもってくる(やってくる)、というように。
そう、一度は離れた人が戻ってくるような描写表現だ。
ろう者からみれば声つき手話なんておかしい、と思うかもしれない。
反対に聴者にしてみれば朗読で、なんで手話なの? と思うだろう。
だが、どちらもあり、だと思う。どちらかだけ、ではなく。
詩そのものは長くはないので手話表現はひと月もあればできるだろうが、こなれたものに仕上げたいから、じっくり時間をかけたい。
手話つき落語とあわせて、大事な取り組みだ。4カ月の大事な取り組み。
声に出して読むと5分もかからないだろうが、手話を入れるためにやや長くなる。
手話訳はろう者や中途難聴者にもわかるように、そして詩の世界や内容をイメージするようにつくる。
毎年と同じように手話通訳士先生と相談してすすめていく作業が、本当に楽しくやりがいを感じる。
意見を出し合い、今回は英語が原作でもあるので、原文とも突き合わせながらつくっていく。
今回も新しい発見があった。
訳文で「そしてまたもう一度呼び寄せて」とあるのをわたしはそのまま、「また再び手招きをして」とやってみた。だがいまひとつ、描写に説得力がない。
あごに手をあてて「待つ」+手招き(呼び寄せて)+手招きをした手の人差し指を立てて人に見立てて+その指をこちらへもってくる(やってくる)、というように。
そう、一度は離れた人が戻ってくるような描写表現だ。
ろう者からみれば声つき手話なんておかしい、と思うかもしれない。
反対に聴者にしてみれば朗読で、なんで手話なの? と思うだろう。
だが、どちらもあり、だと思う。どちらかだけ、ではなく。
詩そのものは長くはないので手話表現はひと月もあればできるだろうが、こなれたものに仕上げたいから、じっくり時間をかけたい。
手話つき落語とあわせて、大事な取り組みだ。4カ月の大事な取り組み。
さっそくはじめた ― 2012/05/09 23:16:11

手話落語の本を購入した。関西では「時うどん」というそうだが、関東では「時そば」でとおる、落語入門の初歩ともいえる噺も含めていくつか、載っている。
昨日から始まった朗読の練習もさっそく取り組んでいる。
手話落語と朗読。
楽しくやりがいがある。
昨日から始まった朗読の練習もさっそく取り組んでいる。
手話落語と朗読。
楽しくやりがいがある。
耳鳴りに肩こりに ― 2012/05/10 22:54:20

今日午後2時ごろに外に出てみたら、ものすごい雨が降っていた。関東地方でもひょうが降るなど、天気は大荒れだったようだ。
だからだろうか、どうも今日一日すっきりしない体調が続いた。頭の前部分がひどく痛んだかと思えば軽くなったりの繰り返し。さらには耳鳴り、肩こりもあってさんざんな一日だった。
けっして連休疲れではない。
補聴器をつけていると、とくにわたしの場合は外すとほとんど聞こえないぶんだけ、耳に入れる音量が大きい。周囲の何気ない会話や音でもわたしにとってはとても耐えられないような音量で聞こえる。
仕事中はしかたないとして、終わって自宅へ帰ったら補聴器をはずすしかない。
自分のからだは自分でまもらなくては。
だからだろうか、どうも今日一日すっきりしない体調が続いた。頭の前部分がひどく痛んだかと思えば軽くなったりの繰り返し。さらには耳鳴り、肩こりもあってさんざんな一日だった。
けっして連休疲れではない。
補聴器をつけていると、とくにわたしの場合は外すとほとんど聞こえないぶんだけ、耳に入れる音量が大きい。周囲の何気ない会話や音でもわたしにとってはとても耐えられないような音量で聞こえる。
仕事中はしかたないとして、終わって自宅へ帰ったら補聴器をはずすしかない。
自分のからだは自分でまもらなくては。
|
最近のコメント