どちらもあり、だと思う2012/05/08 23:57:07

先週書いたように、日本手話の短文表現をいったん中断して、今日から、9月29日に世田谷区下北沢で開かれる、「第7回コスモス朗読会」でわたしが演じる『最後だとわかっていたなら』(ノーマ・コーネット・マレック著、佐川睦訳)の手話表現づくりが始まった。

声に出して読むと5分もかからないだろうが、手話を入れるためにやや長くなる。
手話訳はろう者や中途難聴者にもわかるように、そして詩の世界や内容をイメージするようにつくる。

毎年と同じように手話通訳士先生と相談してすすめていく作業が、本当に楽しくやりがいを感じる。
意見を出し合い、今回は英語が原作でもあるので、原文とも突き合わせながらつくっていく。

今回も新しい発見があった。
訳文で「そしてまたもう一度呼び寄せて」とあるのをわたしはそのまま、「また再び手招きをして」とやってみた。だがいまひとつ、描写に説得力がない。
あごに手をあてて「待つ」+手招き(呼び寄せて)+手招きをした手の人差し指を立てて人に見立てて+その指をこちらへもってくる(やってくる)、というように。
そう、一度は離れた人が戻ってくるような描写表現だ。

ろう者からみれば声つき手話なんておかしい、と思うかもしれない。
反対に聴者にしてみれば朗読で、なんで手話なの? と思うだろう。
だが、どちらもあり、だと思う。どちらかだけ、ではなく。

詩そのものは長くはないので手話表現はひと月もあればできるだろうが、こなれたものに仕上げたいから、じっくり時間をかけたい。

手話つき落語とあわせて、大事な取り組みだ。4カ月の大事な取り組み。