新しい年度が始まった2010/04/01 23:13:23

新年度がはじまり、わたしの会社でも新入社員の入社式があった。
ン何十年前の、若くて希望に燃えていたころをふと、思い出す。

いろいろな体験をして、いいことも悪いこともあった。しかしふりかえってみれば、そのひとつひとつがいまにつながっているのだ、とあらためて思う。

先が見えない混迷と不安の時代であるいま、希望を胸に抱いて社会人に、あるいは新しい学び舎にすすんだけれど、やはり答えが見えないゆえに、やめたり去ったりしていく人もいるだろう。
でも、もったいないよなあ。たしかに悩み苦しんでいるいまはしんどくて逃げ出したいけれど、その苦しみつらさが永遠に続くとは限らない。もしかしたらその苦しみやつらさがあとになってよかったと思えるかもしれない。

「神のなさることはみな、そのときにかなって美しい」という聖書の言葉を思う。

だから人生はおもしろいとも言えるし、わからないものだとも言える。
先が見える人生だったらどんなにつまらないだろう。いい学校を出ていい会社に勤めて、いい人と出会える。それはいいことかもしれないが、いいことづくめがはたして幸せなのだろうか。

ともあれ新しい年度が今日から始まった。
2011年の4月1日に笑っていられるように、歩みのひとつひとつを大事にしていこう。

花見の準備2010/04/02 23:00:50

風が強い天気。あちこちで交通機関が遅れるなどの影響が出た。

明日は久しぶりに江戸川の仲間たちとお花見をする。
そのため自宅に帰ってから、冷蔵庫に入れてあったジンギスカン肉を焼いて野菜炒めと一緒に透明容器へ入れておいた。もちろん明日出かける前にレンジで温めなおす。

ひとりより、みんなとわいわい食べるのが楽しみだ。

久しぶりに花見に参加してきた2010/04/03 23:01:08

久しぶりの、花見に参加してきた。以前住んでいた区の難聴者の集まりで花見があり、参加してきたのだ。

自宅にあったラム肉に加えて野菜をいためて、ジンギスカンをつくってもっていった。ほとんどみなさんが食べてくださったようで、あっというまになくなったのがうれしい。

夜は夜で手話サークル。
こちらは終わってから居酒屋へ移動して、コミュニケーションのことなどいろいろ話を交わした。

楽しいねえ、手話のおしゃべりは。

香りが部屋いっぱいに2010/04/04 23:09:28

広尾で買ったタイ米の残り、2合くらいあるかな。
今日サフランを入れてサフランライスをつくってみた。

夜に京都から来た知人を見送りのため、東京駅まで行って再会、世間話などに興じてきた。
遅くに自宅へ戻ってみたら、サフランの香りが部屋いっぱいに広がっている。

今晩は当然、ラムカレーだ。

どんどん使っていこう2010/04/05 23:51:59

この4日から放送が始まったNHK教育テレビの『みんなの手話』第1回目をやっとみることができた。余談だけれど、DVDに録画して毎週見ることにしている。1回目をみて失敗したのは、アナログ放送で録画したこと。地上波デジタルでも録画できたのだ。見慣れてしまったからだろうけれど、アナログだとやはり画像が粗い。録画設定をやり直して、あらためて2回目からは地上波デジタルで毎週録画を設定した。

ひととおり見た感じでは、新鮮なカラーが出ていて好感がもてる。
今井絵理子さんは親しみやすいキャラクターだし、手話表現もスムーズ。
絵本を手話で表すコーナーがあったり手話パフォーマーを紹介するコーナーがあったり、前回とはまた違った演出、色を出そうとしている。
今回は大きさ、重さを表す表現。内容はすぐに読み取れて理解できた。
次回以降も楽しみにしている。

職場のひとりが簡単なあいさつを手話でしてくださるようになって、うれしい。
今日はヘアカットの理髪師の方に、「おはよう」「こんばんは」のあいさつをお教えした。

身近に聞こえない人がいないと、手話と親しむ機会がない。
このあいだ手話サークルの仲間と雑談で話したことだけれど、聞こえる人と話すときでも、手話を使っていれば、親しんでもらえるかもしれない、と言われた。
押しつけは論外だが、せっかく手話が使えるのだから、聞こえる人といるときでも、どんどん使っていきたいものだ。

楽しさとうれしさが交じった一日2010/04/06 21:45:06

昨日に続いて今日も、職場の同僚が手話で話しかけてくれた。とてもきれいな手の動きでスムーズに読み取れたからうれしくて、つい「ありがとう」と返事が出てしまった。

合間に用事を済ませて席へ戻る途中、会社内の手話教室の仲間がわたしのヘアスタイルを「似合ってる」と。「似合う」の表現を教えて、このヘアスタイルについてあんまりからかうんじゃないの! と言ったら「お似合いよ」と。からかわれているのは分かっていたけど、手話でからかわれてまあ、悪い気はしないね。

夜は場を移して手話教室。
こちらでもわたしの手話表現に、うまい切り返しの表現をかえしてきて、思わず手をたたいて「うまい!」とこたえた。

くだらない会話のなかに、楽しさとうれしさが交じった一日。

明日は日本手話を学ぶ。

疑問が解消してうれしい2010/04/07 23:18:46

昨日からまた気温が下がったからだろう。今日は終日ひどい疲れで体調が良くなかった。肩こりはもちろんのこと、ひざやくるぶしやすねまでもが痛い。仕事の合間もまるで肩に何十㌔もの鉛か鉄板が埋まりこんでいるかのような重さを感じた。

夜はいつものように手話学習へ。
前回教わった『ふしぎな馬』という民話を最後まで手話でやり通した。
前回のあとに疑問があり、手話通訳士に前もってメールで疑問点をお伝えしてあったのだが、今日教わってその疑問は解消された。

どういうことかというと、場所を絞って表す時の表現だ。
民話の出だしはこうだ。「昔々、群馬の沼田の老神のあたりに」。余談ながらこの民話は群馬県沼田地方に伝わるものらしい。そういえば昔、テレビのアニメ民話番組で見た記憶がある――。
群馬県沼田市老神と表すのだろうが、民話であり昔の話である。当然「市」などは存在しない。群馬の沼田地方の老神(地区)だろう。
2つ表す方法がある。
ひとつは上から下へ表していく。群馬、沼田、老神と順に表していき、最後に場所を示す。
もうひとつは「群馬」の手の幅を広げて表し、「沼田」を少し狭めて表し、「老神のあたり」は前と同じように。

場所を絞って表すのも、日本語対応手話と日本手話では異なる。対応手話なら群馬、沼田、老神をそのまま表していけばいいが、ろう者は文章通りではなくイメージで手話をつかんでいくから、範囲を狭めていくなら、上から下へ、あるいは大きさを手の動きで示していくのだろう。

今回学んだ民話は、実は秋の舞台の予行練習でもある。
ナレーションの場面とセリフの場面を使い分ける。ナレーションはからだを動かさない。反対にセリフの場面は登場人物を表すために左右にからだを向けるなどメリハリをつけていく。
秋の舞台でも同じようなことが求められるだろう。
まして声と手話を同時進行させていくのだから、声か手話かどちらか一方にだけ引きずられてはいけない。はっきりいって練習を何度も重ねていくしかない。

ともあれ、もともとパフォーマンスや演じることには興味がある。次回は『鶴の恩返し』を手話で教わることになった。

聞こえる人と聞こえない人が対等に会話を交わせる2010/04/08 23:40:20

火曜日に、会社の社員とその知人に手話を教えたのに続いて、今日は久しぶりにランチタイムで簡単な手話の勉強会も。

どうも気になるのは、手話を使っている人あるいは手話そのものを、まるで不思議なものを見るような目で見る人がまだいるということだ。

正直言うと、わたしも手話講習会に通うまでは、手話を基本からきちんと学ぶ機会がなかったし、手話で会話を交わす人を見てあまりの手のスムーズな動きについていけず見ているだけだった。だから手話を知らない人が手話を見て不思議に思う、それ自体は理解できないわけではない。

けれど先週のある新聞の、都内にある唯一の、ろう児が手話を母語として学べる学校を取材した記事に「小さな手 飛び交う魔法」という見出しがあったのを、とても残念に感じたのはわたしだけだろうか。さらにはそう感じるのはわたしが手話を使えるからだろうか。

その新聞記事にもちゃんと書かれている。「独自の文法体系を持つ手話は子どもが自然に身につけられる『視覚言語』」、「日本語習得の妨げになるとして、ろう教育から長く排除されながらも、ろう者に受け継がれてきた」
ろう者にとって手話がいかに大事で重要な言語であるか、なのに日本語習得の妨げになるという、聞こえる人や社会の側からの一方的な押しつけでろう者から手話を奪おう、取り上げようという教育が続けられてきたなかで、いかにろう者が手話を次代へつないできたか。短い文で正確に書いている。取材した人はちゃんと事実を理解しているのだ。
けれど見出しに「魔法」とあったのがとても残念。ろう学校について正確に書いた記事が、最後の最後に、ついた見出しですべてぶち壊しになってしまったと感じたのだ。さらには手話がまるで不思議なもの、ろう者だけの世界であるかのような、歪んだ間違ったイメージで語られてしまうかもしれない。手話サークルの仲間からも同じ声を聞いた。聞こえる人の立場で書いたからだ、とも言われた。

わたしのまわりにいる、手話を学びたいという聞こえる人たちは、ひとつもそんな間違った歪んだ考えはもっていないのがうれしい。
わたしは声を大にしてはっきり言いたい。
手話は聞こえない人にとって大事な言語である。けっしておもしろおかしい、あるいは不思議なものでもない。
聞こえる人と聞こえない人が対等に会話を交わせる。そのために手話がある。

想像してごらん2010/04/09 21:19:23

「手話」について「魔法」とつけた新聞の見出しの話。

あらためて考えてみるのだけど、障がい者、聴覚障がいについて、理解があるとか接したことがある人なら、まず手話をそんな目ではみない。けれど手話なり聴覚障がい者を知らない人から見たら、そういうイメージで見る人もいるだろう。

ということは、こういうことだとはいえないか。つまり障がい者、聴覚障がいについて知識なり理解がある人は、手話がなんであるかどういうものであるかそれなりの理解もある。手話は視覚言語なのだ、ということを知っている。しかし知らない人からすれば、手話はただ不思議な、よくわからないものだ、ということだろう。だから悪意がなくても、「魔法」なんていうことを平気で言ったり書いたりする。
少なくとも手話が言語であるということについて、まだまだこの国の社会は理解が不足しているか、共通の認識になっていないかのいずれかなのだろう。

あなたは想像したことがないだろうか。一度でいいから想像してみてください。
もしあなたの家族に外国語ができる人がいるとしよう。その人が外国語を使って話しているのを、堪能であればあるほど、「すごいな」と思いはしても、魔法だと思うだろうか。それと同じことである。
聞こえる人にとっては音声による会話が「ふつうのこと」。
しかし聞こえない人、ろう者にとっては音声による会話が難しい代わりに、手で表す視覚言語である手話が第一言語である。その違いが重要であり、違いは音声であるか視覚であるかの違いなのだ。聞こえる人の論理だけで手話を奪おうとしたり、自分たちと異なるから不思議だへんだと言ったりするのはそれこそおかしな話である。だから「魔法」という言葉にわたしは敏感に反応したのだ。

今日夜の手話教室では、短い時間であったけれどお互いを知る会話ができた。
もしわたしに将来家族ができて、家族が手話を知らない人であったとしてもわたしは受け入れよう。けれどわたしの大切な言語である手話は知ってほしい。反対に家族になにか外国語ができるなら、それを教えてほしいと思う。

コミュニケーション、つまりお互いを知るためということが大事だ。
それは音声言語であれ視覚言語であれ、根っこのところでは変わりないはずだから。

臨場感と集中力と楽しみと2010/04/10 23:59:36

あまりテレビは見る方ではない。
なぜかというと観たい番組が少ないうえに、そのなかに字幕の付いているものが少ないからだ。字幕が増えてきたのはニュースやスポーツ中継だが、他ジャンルでもお笑い番組やトークショーなども字幕がつくようになった。けれどお笑いにはまったく興味がないから観たいとは思わない。残念だったのは、先日フジテレビで深夜に放送された「スター千一夜 2010」。子どものころに見た記憶がある「スター千一夜」という番組をいま風にアレンジしていま活躍している俳優さんたちを招くトーク番組。けれど字幕がなかったから、なにを言っているのかわからない。せっかくお気に入りの女優さんをみても楽しめなかった。

今日は巨人-中日のデーゲーム中継を観る。
スポーツ中継はアクションがあるから、字幕がなくてもまあ楽しめる。
2カ国語放送だったが、第1音声である、放送局のアナウンサーや解説者の音声ではなく、第2音声で東京ドーム内の音声だけを聞いてみたら、補聴器だけでも十分楽しめた。東京ドームの客席にいるようなとまでは言わないが、それなりの臨場感と集中力をもって楽しめたのだ。

余談だけれど、巨人応戦席ではトランペットや太鼓がなくなったのだろうか。ピンチやチャンスの応援で、球団のチームカラーであるオレンジのタオルを振り回しているのを何度も見た。
これはとてもいいことだとわたしは思っている。
かねがね、わたしは日本のプロ野球にいらないものとして、太鼓や鐘やトランペットなどの鳴り物を挙げていた。メジャーではほとんどの球場でそういった鳴り物に頼った応援をしない。ごくわずかに太鼓を使った応援もあるけれど、めったやたらにたたいているわけではないし、太鼓に合わせろという強制力もない。
スポーツを楽しみたいからスタジアムなりボールパークなりに来るのであって、太鼓やトランペットを楽しみに来ているわけではないだろう。

楽器を使った応援など見たくも聞きたくも付き合いたくもない。臨場感と集中力、さらには楽しみがそがれるだけだ。
まっぴらごめんである。