おにぎりあたためますか2010/03/01 23:12:19

おにぎりあたためますか
わたしの故郷、北海道の民間テレビ局・北海道テレビ放送(HTB)が「おにぎりあたためますか」という番組を放送している。番組から出た商品、はしを手に入れた。

北海道というと、冬の厳しい寒さが言われるけれど、最近は中国や韓国からの観光客が増えているそうだ。HTBもアジアに積極的に打って出て番組を台湾などのテレビ局に売りり込んでいるという。放送をみた視聴者が北海道を訪れるという効果もあるらしい。

さてこのはし。
なかなか握った感じは優しいし、手にしっくりくる。色合いもとてもいい。

北海道テレビ放送のウェブサイトから注文して、全国のローソンで手に入れることができる。
みなさんもいかがだろう。

HTBと「おにぎりあたためますか」のウェブサイトは、以下の通り。
http://www.htb.co.jp/  (HTB)

http://www.htb.co.jp/goods/goods/onigiri/index.html (GOODS おにぎりあたためますか)

主の山に備えあり2010/03/02 23:05:24

今日一日、くしゃみと鼻水があってきつかった。いまは大丈夫。寒さと暖かさが交互にやってきたために風邪をひいたのだろう。

昨日夜に豚肉をしょうがとたれをつけて一晩つけておき、今日夜と明日朝、弁当のためにしょうが焼きにした。
いままでよりしっかりしょうがとたれが肉についていい味。焼き上げる前に砂糖を少しまぶしたのもよかったか。

うまく言い表せないのだけれど、希望は失望に終わることはない、という聖書の言葉は、真実だとあらためて思う。

こうありたい、こうしたい、こうなりたい。
わたしは祈ることも聖書を読むことも、ほんとうに足りないクリスチャンだが、できるかぎり通勤や帰宅途中の地下鉄車内であれ、教会へ向かう途中であれ、手話サークルや集会の行き帰りであれ、祈り聖書を読むようにしている。

自分がこうなりたい、こうありたいという思い以上に、主が導いて下さるのだと。自分中心にではなく、主がさきに立って導いて下さる。わたしの思う通りにはならないかもしれないが、どこかで必ず備えてくださるのだと。
と同時に、なりたい、ありたい自分のイメージを失わずに保つこともまた大事なのだろう。それが祈りや日々の行動や生きざまなりに表われるのだろう。

主の山に備えあり。

1カ月前倒しして2010/03/02 23:40:40

今年秋にひらかれる「コスモス朗読会」。5回目になるが、手話つき朗読としては4回目。

今年のテキストを選択して講師に台本を添付ファイルにしてメールでお送りしてまもなく、「これでいいのではないですか」というご返事をいただいた。

今年は昨年映画になった『ゆずり葉』から、一部を抜粋して読むことに決めた。

毎年やっていて難しいと感じているけれど、だからこそやりがいがある。
わたしの思いは、聞こえない人にも聞こえる人にも楽しんでもらえる舞台をつくりたいということ。声だけの表現は聞こえない人にはわからない。逆に手話だけでは、手話の分からない人には楽しんでもらえない。
わたしはたまたま声で話せて、手話もできる。だからこの2つをフルに生かして表現活動に取り組みたいのだ。

例年、6月から手話づくりにとりかかるのだけれど、それでは遅い。なぜぜかというと声と手話が自然に出るように、極端な話台本を見なくてもすらすらと出るようになるようにしたい。
1カ月前倒しして、声のご指導をいただく6月からではなく5月から始める予定だ。

つかのまの晴れ間2010/03/03 23:03:10

今週末はまだまだ寒いらしい。
つかの間の晴れ間。

気高く凛とした人間性を失うことなく2010/03/04 23:40:26

昨日のある全国紙の夕刊
わたしも生きていればいつかはこの世を去っていく。新たに生を受けた赤ちゃんから高齢者まで、ひとしく生から死へ続いていく。言い換えれば、生まれたということは死へまっしぐらに進んでいるということなのだ。

と、こんなことを考えたのは、昨日の新聞を読んだことがきっかけだ。

写真は、昨日のある全国紙の夕刊。
右にあるのは古今、昔から現在までの日本の名作マンガを取り上げて、作者や作品、さらにはその背景などについて紹介している連載物。今回は忍者を取り上げている。
左にあるのは著名人にインタビューして来歴や人生の中で得た出会いなどを語ってもらう「人生の贈りもの」という連載だ。今回は藤木久志さんを取り上げている。

たまたま偶然だろうが、右にあるマンガを取り上げた今回の記事は、小学生新聞に掲載されているギャグ漫画であり、左にあるのは、歴史を通して人間とは何かを見つめておられる先生だ。室町時代が設定だというギャグ漫画とはいえ、しっかりした歴史考証に基づき忍者をきちんと描いているだけではなく、主人公の両親が殺されたというストーリーから、単なるギャグ漫画ではなく、歴史を子どもに考えさせる、しっかりしたつくりになっているという。

藤木久志さんは大坂夏の陣を描いた屏風をテーマに、当時の戦乱と、女性や子どもたちが武士集団の暴力行為に巻き込まれて、身ぐるみはがされたり暴行されたり、はては売られたりしたというできごとを語っている。巨大な暴力という意志によって、最も弱い人たちが最も悲惨な状況におかれることを強いられたのだ、と。

アウシュビッツを見てきたり、アンネの日記を読んだり語ったりしてきたけれど、いまなお暴力によって女性や子どもが悲惨な状況におかれている状況は変わらない。

アフリカや中東も戦乱で学校に行けない子どもがたくさんいる。アジアにおいて少年少女がポルノの対象にされていること。最も多く子どものポルノを愛好しているのは、なんと日本人だという。
わたしも男性だから、大きなことは言えないかもしれない。

ハイチやチリの地震のあとで、略奪行為が相次いでいるという報道を聞いて、災害というどうしようもない極限状況の中で、人間性が如実に表れるのだとつくづく感じさせられた。

ひとしく生から死へ続いていく。死へまっしぐらに進んでいるこのわたしは、いつか来る自分の死を前に、どうしようもないかもしれないけれど、気高く凛とした人間性を失うことなく、生の終わりまで生きたい。

実に言い得て妙なタイトル2010/03/05 07:05:22

しあわせの隠れ場所―The Blind Side―  パンフレット
洋画の原題と日本公開にあたって、日本の配給会社が決める日本語のタイトルを突き合わせて「しっくりこないなあ」とか「なんだこれは」と毒づきたくなるものが多い、とわたしはいつも思う。センスが悪いのかそれとも日本向けに考え、へんにひねくりまわし過ぎなのか。
けれど今回わたしが見た「しあわせの隠れ場所」――原題は「The Blind Side」という――は、悪くないどころか、なかなかよくできている。近年まれにみる、いいタイトルだと感じた。

Blind Sideとは、フットボールでいう、クオーターバック(QB)の背後や横など、QBにとって死角であり見えない場所をさす。もう少しわかりやすく説明するなら、右利きのQBがパスを投げようとするとき、スクリメージラインから下がるにせよ、スクリメージラインのすぐそばにとどまるにせよ、目の前にいる巨大なオフェンスラインとディフェンスラインのぶつかり合いの向こうにパスを投げるターゲットを見分け探しだすだけでも容易ではない。パスを投げるとき、背中は無防備状態で、それこそディフェンスタックル(DT)やラインの後ろから、猛スピードで迫るラインバッカー(LB)にタックルでもされたら万事休す、だ。そのQBの見えない死角を守るのはオフェンスライン、レフトタックル(LT)だ。

長くなったが、2009年のNFLドラフトで、Baltimore RAVENSから1巡23位で指名されたマイケル・オアーの実話をもとにした作品だ。マイケル・オアーのポジションはLT――。QBのBlind Sideを守るのが彼の仕事。

中学時代に父親が殺人事件に巻き込まれて殺され、母親はドラッグにおぼれ、兄はレストランのウェーター。9年間で10ものの学校を転々とするすさんだ生活を送っていた、マイケル・オアー。高校2年になってブライアクレスト・クリスチャン・スクールに特例で入学が許されたが、黒人ということで誰も相手にしない。
感謝祭の寒い夜、ポロシャツに短パン姿で歩く彼を見かけたリー・アンとショーンのチューイ夫妻はオアーを自宅に泊めて、養子にすることを決意する……。

当然激しいフットボールシーンもあるし、ルー・ホルツ(元ノートルダム大学ヘッドコーチ)などカレッジフットボールの名監督も出演している。スポーツ好きにはたまらないけれども、単なるスポーツの感動話ではない。また、貧しい黒人を裕福な白人の家庭が助けてあげたという美談でもない。
断わっておくが、この作品の舞台であるテネシー州メンフィスは、いまでも人種差別が残っている(表面に現れないだけで)州のひとつなのだ。ドラッグ、人種差別、貧困、性差別。
黒人男性が白人女性とセックスをしたかというセリフが出る。マイケルを探すために単身、黒人が多く住む公営住宅を訪れたリー・アン・チューイにレイプまがいの暴言を吐いた黒人に向かって「わたしは全米ライフル協会の会員でもあるのよ」と銃を向けることもいとわないとやり返す場面もある。マイケルがミシシッピ大学への進学を決めた直後、チューイ夫妻が自分たちの母校でもあるミシシッピ大学へ進ませたくて不正を働いたのではないか、とマイケルに詰問する弁護士は、黒人の女性だ。貧しい黒人男性と有能な黒人女性。
さらには、マイケルの個人教師としてチューイ夫妻が雇ったのは、ミス・スーという、白人で民主党支持。南部はフットボールファンが多く、敬けんなクリスチャン、そして熱心な共和党支持者が多い。

フットボールの有能な選手は奨学金を得て大学へ進む。言い換えれば、スポーツの才能がなければ、貧しい若者は大学へ進学できない。そして大学にとっては有能な選手を多く抱え、プロに進む選手を多く出し、試合のテレビ中継をしてもらうことで収入につながるという経済構造。大学とはいっても日本のプロ野球なんか足元にも及ばない収入があるのだ。スタジアムはプロのそれに勝るとも劣らないレベルだ。
……そういった、アメリカの光と影も描いている。

なによりわたしが感じるのは、美談ではなく、白人と黒人の壁でもなく、人間とは何か、という問いだ。たしかに南部はそういう土地柄だけれど、率直かつ気立てのよいリー・アンの、利害関係だとかあわれみだとかを超えた、品位ある優しさの行為だ。
こんなセリフが出てくる。「わたしたち(チューイ夫妻)が彼(オアー)に何かをしてあげたのではなく、彼がわたしたちを変えてくれたのだ」と。そこには肌の色も男も女もない。フットボールもない。ただただ、人間として何をしたかしなかったか、その一点しかない。そして人間は、誰かのために生きたいと思ったとき、大きな成長と変化をなすことができるのだ、と。大きなケミカル、化学反応にたとえられるなにかを、人間はなすことができるのだ。

しあわせの隠れ場所――The Blind Side。タイトルは実に言い得て妙だ。

みなさんもできたら、一度ご覧になることをおすすめします。

いいリメイクと悪いリメイク2010/03/06 10:00:41

「幸せの黄色いハンカチ」と「YELLOW HANDKERCHIEF」。
仕事帰りの途中、通りかかった映画館の入口で、懐かしい作品のポスターを見た。

「幸せの黄色いハンカチ」――わたしにとってはどうしても山田洋次監督であり高倉健さんであり、武田鉄矢さんなのだけれど。
ところが、アメリカでこのほどリメイクされた作品は、ウィリアム・ハート(「愛は静けさの中に」などで知られる)が出演したという。英語のタイトルは「YELLOW HANDKERCHIEF」。
もともとはピート・ハミルの小説を山田さんが日本の映画で製作したのだから、厳密には里帰りなのかもしれないけれどね。

とはいえ、山田さんはアメリカ版をつくるにあたって許可を出すとともに、オリジナル――山田さんのつくった作品のイメージを壊さないように、とだけ、念を押したのだそうだ。

ハリウッドも近年はいい脚本や原作に恵まれず、日本の小説などにアイデアを求めたり、アニメに力を入れたりしている。加えてリーマン・ショック以後、全体的に興行収入が振るわず、インターネットなどの影響もあって凋落に陥りかけているという。

日本だってハリウッドに題材を求めたり、「スター・ウォーズ」以後、CGを取り入れたりしているから、エラそうなことはとても言えないけれど、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、リメイクに走るのは結構だけれど、オリジナルのもつ文化というか、オリジナルが醸し出す世界を勝手に壊したり脚色しないでほしいな、とは思う。さらには異文化をどうみているのか、気になる。

アメリカでもアジア人、特に女性を描くときはまだまだゲイシャ的なイメージで描かれることが多い。ことに異なる文化を描くとき、一面的なあるいは思い込みのようなイメージで描いていないか。しかしこれにはアメリカで活躍しているアジア人俳優が少ないこともあるのかもしれない。

話を戻す。
「幸せの黄色いハンカチ」と「YELLOW HANDKERCHIEF」。
それぞれ4月と6月に公開される。
ぜひ見比べてみたい。

新しい手話2010/03/07 23:02:12

新しい手話の本を数冊買った。「国名手話ガイドブック」、「わたしたちの手話 新しい手話2010」ほか、2冊だ。

いままで教わったり知っている表現ではない、違う表現があったり、新しい表現があったりと、ペラペラページをめくっているだけでもけっこうおもしろい。

たとえば――
カナダ。わたしが初めて訪れた国は生涯忘れられないだろう。
アメリカ手話では指を曲げて「C」の形をつくって横に、右胸にあてる。
だが、この本では握った右手を右胸に2度当てるのだそうだ。

また、昨今話題になっている北朝鮮。
わたしたちは人さし指、中指で「北」の字を空で書いてから右手を頭の上から斜めにおろして指先をこめかみにつける。韓国の人たちの帽子を表す。
けれど「伸ばして右に向けた左手人さし指の先に、右手親指と人さし指でつくった輪を付け、右手の指を開きながら下におろす」。文にするとわかりにくいが、要するにチマ・チョゴリ、民族衣装からきているのだそうだ。

わたしたちはとかく自分の知っている言葉や言い回し、表現にこだわりがちだ。聞こえる人も聞こえない人も。だから自分の表現が正しいと言い張ってがんとして譲らない人もいる。
言葉は生き物で、世代や時代で変わってくるし当然、変化があってあたりまえ。

こだわるとともに、異なる表現をする人のそれに対しては、頭ごなしに一方的に否定するのではなく、そういう表し方もあるね、というような柔軟さを持ち合わせていたい。

やっていて楽しいワークショップ2010/03/08 23:42:06

仕事のあと、渋谷へ移動して、手話ソングダンスのワークショップに参加してきた。昨年秋に知人に誘われて参加したのだが、実は、亡くなった真理子さんのつながりで誘われた。知っている人もいればお名前も知らない人もいる。真理子さんとのつながりで知っている方や手話をご指導してくださる先生がいるだけでもずっと居心地がいいというか、気まずい思いをすることがないのがうれしい。

今日のワークショップは途中からの参加だったが、着いてみると仲間でなにやらゲームをしているらしい。
わたしが着いてしばらくして、こんなゲームをやってみた。
波のしぐさと、両手をまっすぐ上にあげて壁をつくる。両腕を前に突き出して「ワープ」。左右の仲間から送られてきた「波」を受けて隣に波を出すか、両手を挙げて壁をつくって波を「拒否」するか、送られてきた波をワープ、「転送」するか。

ただしルールがある。
波が送られてきたからといってその波を送ってきた相手に返すのは禁止。壁をつくるのはかまわないが一度は波を受けること。
一瞬の判断力ととっさのしぐさに対応できるか否かが肝心。

で、これはとても楽しい。
なぜかというと、言葉を必要としないコミュニケーションであり、同時にチームワークを養うことにつながるからだ。
真理子さんがいたとき、こういう教え方はしてもらわなかった。真理子さんの教え方はそれはそれでやりがいも楽しさも十分あったけれど、チームワーク、一緒にやるという意味ではこういう遊びから入っていくのもいいだろう。
肝心のわたしは、やってはいけない、禁止といわれたことをやってしまい、みんなから笑われたのだけど、笑われてしまうほど失敗したことで、かえってみんなとの会話がスムーズにできたかもしれない。

真理子さんつながりでこういうワークショップから手話ソングダンスに入れたことを、あらためて感謝したい。
天国の真理子さん、ありがとう!

三寒四温というけれど2010/03/09 22:10:49

一日ずっと気温が低く、お昼前から雨模様だったのが、夜に入って雪が降ってきた。札幌ではあたりまえのことだけれど東京ではめったに積もる雪を見ることがない。

寒いけれど、わたしにとってこれくらいはたいしたことではないね。
週末は晴れて気温も上がるそうだから、徐々に春はもうすぐやってくることだろう。