25回目のクリスマス2008/12/21 22:25:26

今日はクリスマス礼拝。
わたしにとっては25回目のクリスマス礼拝である。

わたしがプロテスタント・キリスト者として洗礼を受けたのは、1984年12月23日。札幌にある日本キリスト教団札幌北光教会で、川谷威郎牧師からだった。
キリスト教系の幼稚園ですごし、一応聖書との出会いはあったわけだけれど、いざ信仰を、となると家族からの反対も強く、一時は冷戦状態だった。無理もない。若い時に宗教に目覚めることのメリットとデメリット、さらには宗教に走ることで人生を台無しにしてしまうのではないか、という不安や心配があったろう。確かにその通りだが、問題は信仰に入った後である。
信仰をもつということは社会に対する自分の姿勢を明らかにするという責任を伴う。自己満足や自分たちだけの世界でしか通用しない思考に固執するのは、あるべき信仰のすがたではない。
プロテスタント・キリスト系高校時代からのわたしをみて、家族も信頼したのだろう。

今日の礼拝後のクリスマス祝会で、9月の朗読舞台を再演する予定だった。
ところがスピーチやあいさつが長くなったために、予定していたその再演がなくなってしまった。苦笑しつつ、まあこういうこともあるよ。
クリスマス祝会でわたしに与えられたのは、朗読の再演とお祝いの言葉の二つ。だがお祝いの場のスピーチほど、長くなってこころにも耳にも残らないことを知っているから、手短にすることに徹した。

25年前に洗礼を受けてからここまできた。
いいことも悪いこともあったが、よくここまで来たなと自分でも思う。
あのころ、よくわかっていないまま、感じたままで洗礼を受けていたのではないか。しかし25年のいろいろな経験や歩みのなかで理屈でも観念でも知識でもない、信仰がようやくわかった。

信仰をもつということは、自分の願望や希望を満たしてくれるというだけではなく、他者や社会世界にまで目を向けていく。
そして未来の子供たちに、生きていく希望を伝えることだ。

どんどん未来が暗くなっていくように感じられる、この一カ月だけれど、だからといって絶望してばかりでは、クリスマスの喜びなどどこにも見いだせない。

乏しいように見えるけど、ろうそくの火が灯るあいだは、希望もまたたしかにあるのだ。