常に変わらず もたせたまえ2008/12/15 22:28:05

昨日の続きである。

礼拝後、21日の教会クリスマスについて打ち合わせをしたほかはほとんど教会の人と会話を交わさずに教会を辞してきた。礼拝でさきにあげた詩篇116篇を読み、福音書のキリスト生誕の記事をもとにした説教を聞き、とても重くるしい苦しみを感じた。
わたしのからだやこころの苦しみ、いま抱えているどうしようもない、苦しんでいる思いを祈った。

その後、自宅から30分ほど離れたところで、難聴者の友人知人たちと交流会に参加してきた。
そこで、昨日初めて、ホッとする安らぎというか安ど感を得ることができた。
なぜかというと、手話でおしゃべりができたから。わたしの属する教会では手話のできる人はまったくいないために、さびしい。もちろん筆談もうれしいのだけれど、会社職場よりも、筆談をすることが少ない。だから正直、教会ではさびしい思いをいつも味わっている。

午後に参加した交流会。
難聴者の仲間とは、わたしのスーツについていたバッジ2つ、「耳マーク」と呼んでいる、難聴者であることを示すものと、ピンクのリボンをかたどったバッジ――乳がんに対する啓もう啓発を呼びかけるバッジについて聞かれた。とくにこちらが話すことがなくても、手話を使って話しているのをみて、とてもこころが落ち着いていられるのを実感できた。

そのあと。
渋谷へ、コンタクトレンズの話を聞くために移動する地下鉄車内でまた、こころが苦しくなり、とても苦しくなって、不覚にも居眠りをしてしまった。
渋谷では、眼科クリニックに勤めていらっしゃる方と、お互いの悩みや思いを打ち明けあったり、それに対して考えを出し合ったり。筆談がメーンではあったけれどさびしくない。濃密な会話と時間だった。

 わたしは信じる。
 「激しい苦しみに襲われている」と言うときも。不安がつのり、人は
 必ず欺く、と思うときも。
 
 われ大いになやめりといひつゝもなほ信じたり

少しだけ、こころが軽くなった。
昨年の朗読舞台の取材で訪れた、ドレスデンとアムステルダム。アンネの足跡と破壊からよみがえった、聖フラウエン教会。
秋に訪れた旭川の、三浦綾子記念館と作品のひとつ、「塩狩峠」の主人公のモデル、長野政雄さんを記念した「塩狩峠」記念館。
昨年と今年の、手話つき朗読舞台。そして……。

わたしは信じる。
わたしは変わっていくことができると。変わるのであり変えられるのであり、成熟成長できると。自分の力ではなく、主の力によって。

つまらない人生で終わりたくない。
誰かのために、誰かを愛し、いのちが終わったとしてもなお、生きづづける、そんな人生を遺したい。
聞こえないけれど、不幸ではない。誰かのために生きる、そんな存在になりたい。

主を信じつつ、「常に変わらず もたせたまえ」と、生きる目標を常に変わらないでもち続けられるように。

祈り続けよう。
まだまだ苦しみは続くけれど。