この一日は私の命2009/01/01 23:45:03

新年あけましておめでとうございます。

今年が皆さんにとって幸いと喜びの多い一年になりますように、こころからお祈りいたします。

ここをひらいてから3年目に入りました。
少しでも明るく希望に満ちたものを書き遺していきたいと思います。
お読みくださり、またコメントを書いてくださる、みなさまお一人おひとりにこころから深く感謝とお礼を申し上げます。
またコメントをいただければ、わたしにとってこの上ない励み宝になると思います。どうかよろしくお願いいたします。

さて。
新しい年の始まり。
いろいろ思うことこころに刻んでいることがある。
昨年からたびあるごとに口にしたりこころにとめたりしている言葉。
「今日はわたしの人生の終わりの最初の日である」

昨年の朗読舞台で台本にしようかと考えたこともある、元NFLシカゴ・ベアーズRB、ゲイル・セイヤーズ著「I am Third」(邦題は「スーパー・ランナー」。絶版)。

そのなかの「新しい日」という章にこんな詩が書かれている。
一部を引用しよう。

神が、今日という日をわたしに与えてくださった。
良きにも、悪しきにも使える。
今日私が何をするかは大切なことだ。
この一日は私の命
(中略)
失うのではなく、何かを得るために
悪しきではなく、良きことに
失敗ではなく、成功を得るために、
今日のために、命をかけたことを忘れぬために。

わたしが変わらなくてはならない。
けっして周りの人たちに何かを求めるとか、わたしを信じてくださいと押し付けたり要求したりすることではない。

日々の生活はたしかに厳しい現実があり、理想通りにはいかないものだけれど、自分ではなく自分を中心にするのではなく、神さまを、ついで友人や同僚や難聴・手話仲間を、そして最後に自分をおく。

「今日はわたしの人生の終わりの最初の日である」
いつかはわたしも神のもとに、真理子さんもインコもいるだろうところに帰る。
その日がいつかはわからないけれど、その瞬間まで、今日一日なにかのためにいのちをかけて打ち込み取り組み続け、生きていく。
そんな歩みでありたい。

時空を超えて2009/01/02 22:28:54

仕事の後に、注文していたものと取り置きをお願いしていたものの計3枚のCDを購入してきた。

2枚はベートーベンの「第9」。1枚はやはりベートーベンのピアノソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」、第21番ハ長調Op.53「ワルトシュタイン」、第23番ヘ短調Op.57「熱情」。仲道郁代さんの演奏だ。

2枚の「第9」は、いずれもわたしは生で聞いたことがない。1枚は1966年12月29日、東京厚生年金会館で録音された、ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮、NHK交響楽団のもの。聴いていてここで取り上げているいま1枚は1954年8月22日、ルツェルン・クンストハウスでの実況録音だ。指揮者はウィルヘルム・フルトヴェングラー(WILHELM FURTWANGLER、1886-1954)。

さすがに半世紀以上前の音源だし、最新の録音とは違うけれど、しかし聴いていて、耳の悪いわたしでも「何か違うんだよな」という感じを抱かせる。
何が、どう違うのだろう。

はっと気づかされるのは、あたかもわたしが1954年8月22日、日曜日。ルツェルン・クンストハウスでシートに座っているかのような錯覚に陥ることだ。CDについているノートに「今から50年以上前の当演奏会場に私どもを連れて行ってくれます」とあるが、それに引きずられたりまどわされたりするのではなく、ほんとうに時空を超えてそこに居合わせているような印象を受けるのだ。
具体的にいえば、たとえばいま聴いている第4楽章。
導入部の太鼓の響き。バイオリンなどの弦楽器。合唱部に入る前のあの有名な導入部。音がそのまま臨場感をもって聞こえてくるのだ。
おしむらくはソリスト4人の声が鮮明にきこえないこと。無理もないだろうことは理解しているけれど。

なんてすごいんだろう。50年以上たっているのに、まったく古さを感じさせない。いや、最新の録音では、50年後にこんな感じは出せないかもしれない。とても重厚な響きなのだ。

人間のもっている力というか、芸術の力をまざまざと示している。
当時ほとんどもう耳が聞こえなくなっていたベートーベンが、これを書いたあと1世紀以上もひとのこころをひきつけている。そして50年がたったいまもなお、色あせない、フルトヴェングラーの指揮と表現力。

人間ってこんなにもすごいものなんだ。
有名無名は問題ではない。
生きていれば誰にも、色あせない、すばらしいなにかを遺すこと、遺す可能性が与えられているのだ。
生きていく、生きるなかから、生きた証を遺していけばそれでいい。評価は神さまが示してくださるから。

明日もまた、できることを精いっぱいやっていこう。

Beethoven Symphoy No.9 “Choral”
    FURTWANGLER 22.Ⅷ.1954 Lucerne   TKC-307

 Schwarzkopf(Soprano) Caveti(Contralto) 
 Haefiger(Tenor) Edelmann(Bass)
 Chorus of the 1954 Lucerne Festival Philharmonia Orchestra

ライスボウル 見ごたえある試合展開2009/01/03 20:40:51

2008年日本フットボールシーズンの最後を飾る、全日本選手権、第62回ライスボウルを観戦に行ってきた。
結果は学生代表の立命館大学パンサーズが社会人代表のパナソニック・インパルスを17-13で破り、5年ぶりの学生日本一についた。

試合前は社会人優位と伝えられ、実際立命館は不利と思われていたしインタビューでも社会人相手に終盤1TDくらいで追い付いていけたら、という声だった。
ところが試合開始後、立命館が10点を挙げて先制。対するパナソニックは最初の攻撃シリーズ、4回の攻撃を一度も更新することができず、お株を奪われたような立ち上がり。
その後パナソニックも点をとり、4点差まで追い上げて最終4クオーター、ヘイル・メリーと呼ぶ、エンドゾーンへレシーバーが飛び込んでロングパスキャッチプレーで一発逆転をねらったものの失敗。17-13の結果に終わった。

しかし、ロースコアだったけれどインタセプトが1回しかなかった。あったのは第3クオーター、4回目の攻撃権を狙ってパナソニックQBが投げたパスを立命館DBが奪ったインタセプトだけ。両チームとも対ラン、対パスともに守備がよく、見ごたえある試合展開だった。

これで日本のフットボールは終了。
春の社会人トーナメント、さらには7月に予定されている、日本代表とノートルダム大学OB“レジェンズ”の試合まで、しばしのオフに入る。

アメリカのプロはこれからが佳境だ。
2月にあるスーパーボウルへ向けて、一発勝負のトーナメントプレーオフがまもなく始まる。

正月休みが終わって2009/01/04 23:08:00

今年最初の礼拝に出席。
ううん。説教が1時間くらいあったかな(本音を言うとちょっと長すぎ!)。終わってから駆け足で昨年のクリスマス写真などをアルバムに入れるため、現像に出してきた。

昨日、急きょ飲み会をやるから、とお誘いをいただいたのだが、もちろん特に予定を入れていないから、断る理由はない。というよりわたしはからきしお酒はダメだけれど雰囲気を味わって楽しめればそれでよし、と考えている。

まあしかしそれにしてもピッチの速いこと速いこと。大ジョッキのウーロン茶2杯ですごしたわたしにくらべて、周りは3杯も4杯もお酒をのむ。
太刀打ちどころか勝負の同じフィールドに立つことも無理だ。

明日からは本格的に仕事を再開する。
正月気分は今日でおしまい。
明日からがいよいよ長丁場の勝負だ。

2月の旭川2009/01/05 23:48:24

秋の塩狩峠と三浦綾子旧宅
昨日のあるスポーツ新聞紙上に、小さなスペースではあったが、塩狩峠の記事があった。
100年前の1909年2月28日、塩狩峠で脱線事故を防いで乗客を救おうと、身を投げ出して列車を止めた長野政雄さんを記念した行事があるというのだ。

洗礼を受けて25年。いろいろあったけれどいま、ほんとうの意味で信仰をもって「キリストはわたしの救い主」と言い切れる。

小説「塩狩峠」の筆者、三浦綾子さんは天に帰られたけれど、三浦光世さんはじめ、この行事に参加される関係者がいらっしゃるそうだ。

これを逃したらもう三浦光世さんとはお目にかかる機会はたぶんないだろうし、もし訪れたら自分の信仰の歩みとこれからを見つめつつ、あらためて愛とは何か、生きるとは何かを考えることになるだろう。もちろん日々聖書を読みながら考え祈っていることだけれど、アウシュビッツやアンネ・フランクを訪れた時と同じように、じかにこの目で確かめ感じることは、なにものにも代えがたいものだ。

2月の旭川。
行けるかどうか。考え、祈ろう。

会話の楽しさ喜び2009/01/06 23:23:35

今日は仕事上の筆談を除き、夜になるまであまり人と会話を交わすことがなく、少々さびしさを感じた。

日曜日に、お酒がのめないわたしも交えて、難聴者4人でわいわいとおすしやからあげ、もつ鍋などを囲んで過ごしたのは、とても楽しいひとときだった。
難聴者、とひとくくりにいうけれど、聞こえの程度、聞こえなくなった時期など個人でまちまち。手話ができる人もできない人もいる。
共通しているのは、聞こえなくなったことを知られたくない、知られては困るという苦痛。そして仲間ができない、孤独な生活を味わっている、ということだろうか。
それだけに仲間づくりは重要だし、ひとりでも仲間ができるということ、まして手話ができるとさびしさは消し飛んでしまい、本来もっていた明るさや生き生きした魅力があらわれてくる。

仕事を終えて、注文していた写真を受け取りに渋谷へ行く前に、行きつけの眼科クリニックへ立ち寄り、コンタクトの話や見え具合、新しいコンタクトの使用方法などを聞き、お互いの好きな音楽だとか共通の話題にまで話が広がった。相手は手話ができないので、筆談だけ。
うそだと思われるかもしれないが、コンタクトをつけて卓球をしているとき、球の回転や球に書かれているメーカー名などがはっきり見えるときがある。正面で向かい合ったとき、はっきり見えることがあって、驚くくらいだが、眼科クリニックの方にこの体験をお話ししたら「見えすぎ!」と笑いながら、コンタクトが目に合っていて使いこなしていることを知っていただけた。
筆談だけの会話でもあっというまに時計の針がまわっていった、楽しいひとときだった。

楽しいコミュニケーションはこころをおだやかに、優しい気持ちにさせてくれる。

自分が変わること2009/01/07 00:25:03

自分が変わることなしに、他者になにかを要求したり望んだりすることはできない、とこのごろ思う。
けれどここまでの人生で得てきたもの、身につけたものをそうそう変えたり取り換えたりすることもまたできない。

変わらなくていいものと変わらなければならないものを見極めて、変えられるものについては変えられるように。変える必要のないものは変えないという強い意志を。

自分が変わらずして周りに変わってもらうことを望んだり要求したりすることはできない。

たまに行くお店で、大皿の焼きそばを食べることができた。でも会話をしながらというように楽しいものではなかったからか、あとで吐きそうになる。

体調はいまひとつ。
うーん。

今日はきつくても明日は新しい日2009/01/08 23:02:43

2009年最初の卓球同好会の練習予定だったのが予定が合わずに急きょ中止。
仕事をがんばって続けてみたけれど、腹部がキリキリ痛くてどうにもこうにもしんどくなり、ギブアップ。食事も外で済ませたけれどおいしくない。

昨日から難聴者仲間にある相談ごとをしていて、気持ちはいくぶんかまた前向きになっている。
だというのに、食事がこうだと、なんともしんどい。

しんどいけれど、作り笑いでも無理やりするのでもなく、自然にこころから笑っていよう。

今日はきつくても明日はまた違う新しい日のはずだから。

厳しい現実の中で2009/01/09 23:06:33

バブル時期のあのころでも、障碍のある学生にとって就職というのはほんとうに大変なことだった。
いくつかあたってみたけれど、耳が悪いということで断られたものだ。
それを経験しているから、いまこんなひどい経済状況下にいる、就職を望んでいる障碍のある学生たちはもっともっとたいへんだろうなと思いを向ける。

「ほんとうにまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分のカネを、なんで私が払うんだ」

これはつい最近の政治家の言葉だ。

病気や障碍は、そのひとに責任があるわけではない。わたしだってまさか難聴者になりたくてなったわけではない。なっていろいろな経験をしたなかで、ようやく障碍があることを受け入れられるようになった。

いろいろな人がいて、なかには抗いがたい厳しい現実の中で過ごさざるを得ない人がいる。
障碍もそうだし就職もそうだ。
昨今報道されている、派遣の人たちが住む家も働くところも失ってしまい苦しんでいる状況は、ほんとうにたいへんなことだ。

それを、上から見下ろしたりさも知ったかのような口ぶりでいうのはどうだろう。
わたしも含めて、隣にいる人への思いやり想像力、痛み苦しみを受け止めるこころを失ってはいないか。

リラックスと苦しみの繰り返し2009/01/10 23:52:47

朝からパソコンをあけて、昨年中に書いたエッセーや雑文をまとめたり補加筆したりして午後まで過ごす。毎年しているように、CD-Rに移して保存しておいてある。まだ補加筆が終わっていないためにCDには移せない。ゆっくりやっていこう。

午後夕方から手話サークルの新年会に参加する。
やっぱり聞こえない仲間同士ですごすのはホッとして楽しい。2次会でカラオケに興じてきた。

歌ったのは「喝采」(ちあきなおみ)「わかれうた」(中島みゆき)「贈る言葉」「思えば遠くへ来たもんだ」「えきすとら」(以上、海援隊)「知床旅情」(加藤登紀子)ほか。

ううん。
いまの若い人が歌っている歌がまったく全部そうだとは思わないけれど、古い歌は聴いていて言葉と歌詞がうまくかみあっている。
いまの歌は何を言いたいんだか、歌詞がよくわからなかったり曲と歌詞がかみあっていなかったり。

言葉を大事にしているかな。
言葉を大事にするということは、とりもなおさず本を読んだり新聞を読んだり、言葉に対する感性を磨いているかいないかという小さいころからの、言葉や活字とのふれあいがあるかないかが大きな要素ではないか。

と書いて、自宅に戻ってからまた、気分が沈んだり暗くなったり。

明日はまた明日。神さまにおゆだねしよう。