想像力2008/04/14 23:34:07

個人的な文書、ここでもわたしは「障害者」とは書かずに「障碍者」と書いている。別のところでは「障がい者」と単語登録をしておいた。昔書いたことだけれど、「害」というたった一字に強い嫌悪感を抱いたからだ。

最近のニュースでもよく出てくる「後期高齢者医療制度」。
75歳以上の全員を対象に独立した医療制度を創設し、保険料を新たに本人から徴収する。保険料は原則年金から天引きする。で、今年年明けから対象者に「後期高齢者医療被保険者証」が届いたというのだ。

しかし正直言って、マスコミも最近になってようやく報道するようになったのであって、この制度ができたおととしからの報道が不十分だ、という指摘もある。
なによりもこのネーミング、「後期高齢者」という名称に、抵抗があると訴える声を、投書欄などでよく読む。「後期」という言い方にまるで「あんたたちはもう先々ないからね」と人生の末期と宣告されたような気分になった人が多かったのだろう。余談だが、新聞を読むとき、ニュース記事や社説を読むのが大切なことはいうまでもないが、市井の人たちの声や思いを知る、考えるという観点から、投書欄を読むことも忘れてはならない。同じごく普通の人が何を、どう考えているのか。ニュース記事だけが社会の動きを伝えているわけではない。市井の人の声や存在も、社会を動かし社会をつくっているからだ。

「後期高齢者」という表現は、以前ここで書いた、ろう学校を「特別支援~」とするという話にも共通項があるのではないだろうか。お役所といえばそれまでだけれど、ごく普通の、ごく当たり前に生きている、世の中の人がどんな思いでいるか。どんなことで怒り、悲しみ、喜んでいるか。それを想像し、考え、できるだけ寄り添って考えているかいないか。もし自分が「後期高齢者」「障害者」と言われ、マイナスな存在、生きていても意味がないと思われかねない立場におかれたら。そういう意味ではない、という考え方意見もあるだろうが、自分は「そうではない、そういう意味ではない」と思っていても、生きていても意味がないと受け取るかもしれない人たちへの想像力を思いめぐらすこと。それが大事ではないだろうか。
75歳以上を年齢で分けるために「後期高齢者」という用語が使われてきたのだそうだ。けれど年齢で区分していいのか? という素朴な問題意識やひいては疑問、嫌悪感、をなんらもたないことこそがおかしいとわたしは思う。卓球を見ても、70歳以上でもバリバリ現役のプレーヤーがたくさんいる。わたしなんか、まだまだヒヨっ子だとしかみられないときさえある。そんな人たちに「後期高齢者」とは失礼千万ではないか。

世の中に影響を与えたい、なにかを伝えたいと志をもっている人はみな、エリートばかりではない。優秀な、五体満足なひとばかりではない。
障碍があっても、はたからみれば欠けの多いかもしれないが、なにか光り輝いているものをもっているはずだ。
社会がそうした人たちをもっと生かすようであってほしいとおもう。障碍者を雇用する企業や団体が増えてほしい。わたしたち障碍者も甘んずることなく、チャレンジしていこう。

「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」という言葉を思い出す。

   この世の子らは、己が時代の事には光の子らよりも巧なり。
                        (文語体、ルカ傳福音書16:8)

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