貧しいとは? 幸いとは? 豊かさとは?2008/04/06 22:46:03

幸福(さいはひ)なるかな、貧(まづ)しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。
幸福(さいはひ)なる哉(かな)、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。
幸福(さいはひ)なる哉(かな)、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。

                  (文語体、ルカ傳福音書6章20~21節)

格差社会だとか、中高一貫教育だとか、わたしが子どものころには考えられなかった新たな状況が生まれている。わたしのころも、受験戦争があったし、出世だとか社会的地位を持つことが成功だと教えられてきた。わたし自身はどうも出世とは縁がないらしい。無理に他人をけ落とすだけの力量もないから、出世したいとは思わないけれど。

「誰でもよかった」というだけの身勝手な理由でひとのいのちを奪い傷つける事件が相次いだ。
この「誰でもよかった」という言葉は、本当に恐ろしい響きだ。自分さえよければいい、他人の状況を考え顧みないという意味で恐ろしさを感じる。

あるカトリックの神父が、こう言っている。
「人間にとって大切なのは、良い人になることでも、立派な大人になることでもなく、人の痛みを放っておけない心を持つこと」

生きていく上で大切なことは、立派な大人になることだろうか? と思う。
立派な大人になれば事件は起こらない、のだろうか?

人の痛みを知ること。良かれと思った行為が相手を傷つけてしまうことがある。善意の押しつけが相手の尊厳を傷つけ、差別や偏見の元になることもある。だからといって向き合った相手とかかわるのをやめるのではなく、相手より下に立つこと。下手に出て見下したりひねくれたりやゆしたりするのではなく、相手の気持ちに寄り添うこと。

簡単にできることではないけれど、自分がえらそうにごう慢に陥りやすいことを自覚していれば、そこから始まるのではないだろうか。

あまり触れない方がいいけれど、今回目を手術したことで、視覚障碍者の気持ちの一端が分かった。けれどそれは視覚障碍者の立場に立つことができたなどと思い上がってはいけない。見えないということがどれほど苦しく厳しいことか。その見えないというなかで見えない人のためにしてあげようと思い上がるのではなく、もしかしたら、相手がしてほしいことは自分のしていることとは違うのかもしれない、と想像しながらかかわること。

でも、本当に今回手術を受けた、目が見えなくなった経験は、とても貴重なことだった。大きな体験だった。こんな経験ができたことを、こころから感謝したい。

幸福(さいはひ)なるかな、貧(まづ)しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。

目が見えない、耳が聞こえない、貧しい、ということはこの格差社会、能力中心の社会では落伍者と見なされてしまう。
けれど本当にそうだろうか。
幼少時から障碍者として生まれ育ってきて、ダメなやつとみなされてきたかもしれないけれど、そのダメなゆえに、力がないゆえに、弱さゆえに、人の痛みを放っておけない、想像するということができる。同じ難聴者同士、苦しみを分かちあえる。

強い者ばかりの社会では、力が強調されてしまって、力のもつ恵みというか意味が薄れてしまう。力があたりまえになってしまうのだろう。
そうではなく、弱いものゆえに、力が弱さの中ではたらくからこそ、その力が恵みとなって光るのかもしれない。

自分を誇ったり自慢したり思い上がったりするのはなく、弱さがあるからこそ力を与えられていることを感謝したい。