新しい年度に入って2008/04/01 23:14:58

2008年度が今日から始まった。
待ちかまえていたかのように、今日の夕刊一面では日本銀行が発表した、3月の企業短期経済観測調査で、企業の景況感を示す業況判断指数が主要指標の大企業・製造業でプラス11と、昨年12月の前回調査(プラス19)から大幅に悪化したと伝えられた。
外食中心の生活は本当はよくないんだけど、これからは食料品なども値上がりするのだろう。厳しい時代に入ったことだけは間違いないね。

そのなかで楽しみは、メジャーリーグベースボール。今日からアメリカ本土で公式戦が本格的に始まった。日本人選手が今年も活躍してくれると楽しみだし、励みになる。わたしと同世代の選手がまだわずかながら現役でやっているし、彼らのプレーしている姿を見ると、負けられないという思いがわき上がってくる。

久し振りに2008/04/02 23:25:58

昼食をとりに、数年ぶりに近くにある劇場そばのレストランへ行った。まあ混んでいること混んでいること。たばこがだめなわたしは席をたばこから遠いところへ変えてもらった。
食事はおいしかったから、よしとしましょう。

少しずつ暖かくなってきた。そろそろジャンパーもコートもいらないね。
明日は卓球の練習日。

不安が解消された2008/04/03 23:28:09

手術後の検査で執刀医でもある担当医から卓球練習を始めてもいいと許可はいただいていたが、コンタクトレンズは検査から一週間待つようにと言われていた。メガネを着けてもできないことはないが、練習でも試合でも、メガネではなくコンタクトレンズを着けていたし、いきなりやるのではなく、日常生活で目を慣らしてからでもいいのではないか、コンタクトではっきり球が見えていたからなおのこと、コンタクトレンズなしには練習をしたくなかったという理由から、一週間がまんしていた。
今日はその、2週間ぶりの練習日。

初めはおっかなびっくりで、緩い球をゆっくり、目慣らしのつもりで打っていたのがだんだん、何度もラリーが続き、いつものような強く速い打球が打てると分かって、これなら大丈夫と判断して、トップギアに入った。

今月コーチが来てくださるときに、思い切って全力で打ってみよう。コーチにも速い球をお願いしてみて、目が慣れていけたら、もう大丈夫だろう。

大丈夫といえばもうひとつ。
昨年から会社内の歯科医に通い続けて、歯の治療とあわせて、マウスガードをつくれないかと相談していた。
以前も書いたと思うが、肩こりや頭痛に悩まされていて、今年に入っても1月に都内であった「中途難聴者の集い」終了直後に激しい頭痛と吐き気に襲われて90分もマッサージを受けたことがあった。翌月も同じようなことがあったのだけれど、長年こういった肩こりや頭痛、吐き気の原因が分からず困っていた。ひょっとして歯のかみ合わせではないか。斜視の手術を受けるのと合わせて、歯を治療しながらマウスガードの製作もお願いした。石膏をとってできた自分の歯型は、なんとなく不気味でもあり、いとおしくもあり。わたしが死んだらこの歯型から骨格がわかるのかしらね。恐竜は小さな化石からでもだいたいのからだの大きさや骨格が分かるそうだけど。

で、昨日からマウスガードをつけて仕事や卓球練習に臨んでいる。

肩こりはともかく、頭痛がない。
斜視がなくなったからなのかマウスガードをつけたからか。あるいは両方なのか。

卓球練習でも、仲間から「きれいになったね」と言われて、恥ずかしいやらうれしいやら。この年で「きれい」と言われたのは初めてだ。

ともあれ、不安が解消されて、生きる意欲がわいてきた。

思い切って全力投球してみよう。
明日からまたキックオフだ。

すさんだこころ2008/04/04 23:55:05

もうなにがおきても驚かないくらい、連日のように暗いニュースが飛び込んでくる。しかしそれに慣れてしまってはいけない、というか慣れたら終わりだろうと思う。

ここ2週間あまりに起きた、いつくかの事件で共通するキーワードがある。
「誰でもいいから」

いったいなんだろう。
誰でもいいから殺したかった、刑務所へ行けると思った、複数の人間を殺せば死刑になると思った……。

これらの言葉には、人命への尊敬とか畏敬がまったく感じられない。さらには自分の欲望だけでしか行動できない、自分を抑えられない心理が透けて見える。自分さえよければ、他人がどうなろうが知ったこっちゃない、といわんばかりだ。なんともいえない寒々とした思いを味わう。

ゲームにこれらの原因を求める声がある。さらにはゲームへの規制を訴える人もいる。暴力的な内容のゲームをつくることを禁止する、という具合にである。
だが、いったん快楽を得てしまったものが、そう簡単に捨てられるわけがない。武器とゲームは異なるかもしれないが、共通しているのは「これでもか、これでもか」と際限ない、終わりのない開発であろう。

いくらゲームを規制したり製造を禁止したりしても、おそらくどこかで裏をかこうとするだろうし、規制すればするほどかえって裏にもぐってしまうだろう。規制したからことが解決するほど、単純なものではない。

ゲームの世界と現実の世界を混同しない、混同させないための社会と人間のつながりを築いていくこと。ゲームが現実世界と同じと錯覚しないための、現実世界にしかない、人間関係をつくる楽しみを小さいころから育てていくこと。

文明や科学技術が発達した末にこころがすさむのか、技術の発達がこころをすさむ原因なのか。

バーチャルな世界だけでは、人は生きられないはずなのだが。

新しい朗読2008/04/05 09:56:43

いまさきほど、コメントをいただいた。とても貴重な、有意義なコメントだったのでご返事を差し上げようと思っていたのだが、間違えて削除してしまった。何度か修復を試みたが戻らない。
せっかくコメントをいただいたのに、たいへん申し訳ないことをしてしまいました。本当に申しわけありませんでした。
コメントをいただいた方がまたこれをお読み下さったら、恐れ入りますが、またコメントをいただけませんでしょうか。
ご迷惑と不快な思いをお与えしましてまことに申しわけありませんでした。
次回、いただいたときには必ずアップいたします。

さて。
今日から、また新しいテキストで朗読が始まった。
ラブドラマがテキスト。角田光代さんの「だれかのいとしいひと」と「誕生日休暇」のふたつだ。

世の中には実際に、誕生日をはさんで休暇をくれる会社があるらしいが、誕生日休暇をひとり、ハワイで送るはめになった女性。一週間のローテーション通りの決まった生活に慣れていたのが、あてのないままゴーストタウンのような、ハワイのある街で休暇を送ることになった。
男性心理から見るとちょっと理解しがたいところもあるけれど、それはそれでなるほど、こういうものなんだと知らない世界を知る、そんなゆったり落ちついた気持ちで接してみたい。

これが終わればいよいよ、発表会に向けた取り組みが始まる。
何を読もうかまだ決めていない。音楽と手話つき朗読、できたら映像も入れたいと思っているが。

あらためて。
コメントをおよせ下さったにもかかわらずたいへん失礼をしてしまい、まことに申しわけありませんでした。
あらためていただければ幸いに存じます。

貧しいとは? 幸いとは? 豊かさとは?2008/04/06 22:46:03

幸福(さいはひ)なるかな、貧(まづ)しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。
幸福(さいはひ)なる哉(かな)、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。
幸福(さいはひ)なる哉(かな)、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。

                  (文語体、ルカ傳福音書6章20~21節)

格差社会だとか、中高一貫教育だとか、わたしが子どものころには考えられなかった新たな状況が生まれている。わたしのころも、受験戦争があったし、出世だとか社会的地位を持つことが成功だと教えられてきた。わたし自身はどうも出世とは縁がないらしい。無理に他人をけ落とすだけの力量もないから、出世したいとは思わないけれど。

「誰でもよかった」というだけの身勝手な理由でひとのいのちを奪い傷つける事件が相次いだ。
この「誰でもよかった」という言葉は、本当に恐ろしい響きだ。自分さえよければいい、他人の状況を考え顧みないという意味で恐ろしさを感じる。

あるカトリックの神父が、こう言っている。
「人間にとって大切なのは、良い人になることでも、立派な大人になることでもなく、人の痛みを放っておけない心を持つこと」

生きていく上で大切なことは、立派な大人になることだろうか? と思う。
立派な大人になれば事件は起こらない、のだろうか?

人の痛みを知ること。良かれと思った行為が相手を傷つけてしまうことがある。善意の押しつけが相手の尊厳を傷つけ、差別や偏見の元になることもある。だからといって向き合った相手とかかわるのをやめるのではなく、相手より下に立つこと。下手に出て見下したりひねくれたりやゆしたりするのではなく、相手の気持ちに寄り添うこと。

簡単にできることではないけれど、自分がえらそうにごう慢に陥りやすいことを自覚していれば、そこから始まるのではないだろうか。

あまり触れない方がいいけれど、今回目を手術したことで、視覚障碍者の気持ちの一端が分かった。けれどそれは視覚障碍者の立場に立つことができたなどと思い上がってはいけない。見えないということがどれほど苦しく厳しいことか。その見えないというなかで見えない人のためにしてあげようと思い上がるのではなく、もしかしたら、相手がしてほしいことは自分のしていることとは違うのかもしれない、と想像しながらかかわること。

でも、本当に今回手術を受けた、目が見えなくなった経験は、とても貴重なことだった。大きな体験だった。こんな経験ができたことを、こころから感謝したい。

幸福(さいはひ)なるかな、貧(まづ)しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。

目が見えない、耳が聞こえない、貧しい、ということはこの格差社会、能力中心の社会では落伍者と見なされてしまう。
けれど本当にそうだろうか。
幼少時から障碍者として生まれ育ってきて、ダメなやつとみなされてきたかもしれないけれど、そのダメなゆえに、力がないゆえに、弱さゆえに、人の痛みを放っておけない、想像するということができる。同じ難聴者同士、苦しみを分かちあえる。

強い者ばかりの社会では、力が強調されてしまって、力のもつ恵みというか意味が薄れてしまう。力があたりまえになってしまうのだろう。
そうではなく、弱いものゆえに、力が弱さの中ではたらくからこそ、その力が恵みとなって光るのかもしれない。

自分を誇ったり自慢したり思い上がったりするのはなく、弱さがあるからこそ力を与えられていることを感謝したい。

久しぶりに昔を思い出した2008/04/07 23:22:56

帰りが遅くなってしまったので、途中の駅で食事を済ませる。

こんなになったのは仕事が長引いてしまったのが理由だ。
ある図表、グラフをチェックしていて、グラフに表れた数字とアンケートの数字が合っているかどうかをチェックするのだが、二人で読み合わせて再三再四のチェックを行った。聞こえないわたしには、聞くことが難しいため、わたしが原稿を読んで、数字を書き込んでもらい、それを突き合わせた。

昔もこんな仕事をしていたなあ。
普通に話せるから、ついつい原稿を読むときもニュースを読むような感じで読んでしまって怒られたことがあった。読むのも話すのも演じるのも好きなわたしである。

自分の持っているもの、力を最大限に生かすことができたら、それだけでまず大きな幸せを感じる。

とんでもない!2008/04/08 23:07:47

けさは強風と雨のために、交通網が混乱したことだろう。飛行機が欠航したり電車のダイヤが乱れたりしたようで、雨は帰りも降っていた。

その、仕事帰りに撮影した一枚。

……。わかるんだけど、ここに捨てることはないだろう。
わたしの会社でも折れたビニールかさを処分に困った人がいたようだけど、きちんと不燃物として出してあった。
使えなくなったからといって、路上に捨てるのはもってのほかだと思う。

あせらずゆっくりやってみよう2008/04/09 22:39:50

昨日の強風と雨から、今日は時折晴れ間がのぞいた天気だった。それでも夕方から曇りに変わり、新聞の天気予報欄を見ると明日は高い確率で終日雨になるらしい。卓球だが、さて。

大学時代に買ったフォークギターを、なんと10年以上も使わずそのまま放っておいたままにしてあった。
都内の楽器店に持っていって、ネックのゆがみや本体の異常はないかなど、微調整をお願いするとともに、弦を全部取り替えて、ギターケースも、もっと軽量かつ丈夫なものに取り替えたいと、しばらくのあいだギターを預かってもらった。
教会でもやったことがあるけれど、やっぱり一緒にやる人がいないからね。なんとなくギターを手にする意欲が失せてしまった。

それではいけないと、10年以上のブランクをへてもう一度、ギターをやってみよう。
弦の調整など聞こえないハンディがあるけれど、できないことはないだろう。そういえば真理子さんもギターを弾いていらしたことがあると生前うかがったことがある。
教会でゴスペルをやるのはさておき、自分の好きな曲だとか手話ソングのレパートリーだとかをギターで演奏したり、仲間の手話ソングパフォーマンスに合わせたり、実現できたらおもしろいのではないかと思う。そんな夢というか希望をもちながら、一度はほうりだした、ギターをしっかり身につけたいと思う。

もういちどやってみたいものは、まだほかにもある。アメリカ手話もその一つ。
ギターを預けたあとで、讃美歌にもなっている、ピート・シーガーの「One Man's Hand」の原詞全文を教えていただくことができた。いつか、アメリカ手話でやってみたい。
あせらずゆっくりやってみよう。

なさけないことがひとつ。
ギターを持って歩いたからか、腰がひどく痛む。
こればっかりはどうしようもない……?(笑)

雨の中2008/04/10 22:15:14

終日雨だった今日の夜は卓球練習。
といってもひとりで。

サーブ練習にはじまって、苦手な球、好きな球、打ちやすい球、打ちにくい球と、イメージしながら黙々と練習をする。

たしかにひとりでは試合を想定したり生きた球がかえってこなかったりと制約はあるかもしれない。
しかし、大切なことは何が何でもやろうとする気持ちと、実際にやり通すことだ。

続けていけばきっといつか実るときが来る。
見ている人がいないようでいて、どこかで誰かがみているものだ。