人間として誇りを取り戻す2007/03/06 23:29:29

夜空の雲間にみえた月
雲間にみえる月を見て、こんなことを考えた。

昨年からいじめを理由にした、少年少女の自殺や、いじめそのものの報道が相次いでいる。
いじめというと、わたしはどうしても自分のことを思い出す。
中学に入ってまもなく、東京から故郷北海道へ帰って、学校になじめずまた、聴覚障碍を理由にものすごいいじめにあった。靴を隠されたなどというのは序の口。書道の時間に墨汁を投げつけられたり靴裏に画びょうを刺されたりしたこともある。修学旅行の時は寝ているわたしをカメラのフラッシュをたいて撮影し、旅行から帰って黒板にその写真をはられたということも。

いまのいじめはどうなのか。たぶんわたしのころより陰湿、かつ見えないものが多いのではないだろうか。それだけに、自殺を選ぶ少年少女の気持ちや、残された人たちのやりきれなさは想像するにあまりある。

けれども。
ふりかえって思うに、いじめは、あっているそのあいだは嵐のようなものなのだけれど、嵐を乗り越えたところに希望がみえる。止まない雨はないし、明けない夜もない。

今年2月にフロリダ州マイアミのドルフィン・スタジアムで開催された、第41回スーパーボウルは、NFL史上初の、黒人ヘッドコーチの対決ともいわれた。インディアナポリス・コルツのTony Dungy、シカゴ・ベアーズのLovie Smith、ともに黒人のヘッドコーチ。
現役プレーヤーでは人種の壁が低くなってきたが、チームを率いるヘッドコーチではまだまだ、人種の壁が厚い。ルールとしてヘッドコーチを採用するにあたって、各チームとも最低一人は黒人コーチと面接しなければならないというのがあるが、それだって建前として「黒人と面接しましたよ」という理由付けにされる、有り体でいえば利用されたということもいえる。学生時代のいじめ以上の陰湿な、はっきりいって差別だ。
しかしTony Dungy、Lovie Smithともに、苦労しながらも、それを誰かのせいにしたり責めたりはしなかった。ふたりともキリスト教信仰に立って「苦しいときは神の導きがある。なんらかの意味があるのだ」と、しっかり前を見据えていた。

一時期の苦しみなど、人生を終えるときになにほどのことがあろう。一番難しいことは、成功することではなく、いかにいいかたちで人生を終えるということだ。

いまもいじめで苦しんでいる人がいるだろう。
彼ら彼女らに軽々しいことを言ってはいけないけれど、ひとつだけ。
生きろ! いじめをするということは、自分の次元の低さを示しているようなもの。いじめを乗り越えることは、自分の人間としての誇りを取り戻すことなのだ。

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