今日からまた再開2011/03/29 23:04:51

今日仕事を終えてから、都内へ移動して、数週間ぶりに日本手話の学びをいただくことができた。震災による計画節電にともない、いままで使っていた施設が夜間使用禁止のために、別の場所で行うことになったのだ。

よもやま話などを交えながら、先生である手話通訳士から短文表現と単語を学ぶ。いつも以上にあっというまに学びの時間が進んだ。充実しているから楽しい。

学びの後で、春から取り組む手話つき朗読舞台の台本を先生とともにチェックする。今週土曜日からまた朗読の学びが始まるにあたり、朗読の先生にも台本を手渡しする予定だ。

震災の被害やこれからを思うと、ほんとうにどうしたらいいのかわからない思いだ。
けれどわたしには手話があって舞台があって、表現者になりたいという思いがある。その学びと発表の機会も与えられている。
その喜びを精いっぱい豊かに用いて、与えられ生かされているいのちといまという時間を大切に生きていきたい。

こんな時期に選挙?2011/03/30 23:30:10

新浦安駅前のエレベーター。当然、立ち入り禁止
政策訴えるより御用聞き 液状化深刻な浦安の県議選
http://www.asahi.com/politics/update/0330/TKY201103300459.html

浦安市「災害復旧中、統一選できない」 県選管と対立中
http://www.asahi.com/politics/update/0330/TKY201103300101.html?ref=reca

27日の日曜日、わたしはいつものように千葉県浦安市の教会へ礼拝に行ってきた。
礼拝の後の会議を終えて、車に乗せてもらい、JR新浦安駅から都内へ入る前に、新浦安駅近辺の被災状況を少しだけスケッチ撮影してきた。

浦安は東京メトロ東西線が走る北側と、ディズニーシーや高層マンションが立ち並ぶ南側とで異なる姿だ。若いころすぐ隣の市川市南行徳に住んでいたこともあって、浦安市は身近な存在だが、北側は昔「あおべか物語」で描かれたように漁業で栄えた町並みなのに対して、南側は結婚してまもないカップルや子連れなどの家庭や、退職金で高層マンションを買った老夫婦といった人たちが人口を占めているときく。わたしも都内に住むまでは、新浦安に居を構えたいなと思ったこともあった。
だが、今回の災害で浦安市は液状化という問題に直面することになり、それはそのまま統一地方選挙の実施か延期かという問題にもつながっていった。

宮城や福島といったテレビで連日伝えられる被災地とは異なり、浦安市や茨城などはあまり被災状況が伝えられない。住民からは「もっと状況を伝えてください」と強く訴えられる。
記事にもあるように、地震で壊れた家はいったい誰がみてくれるのか。北関東のある市の住民は、「傾いた家を直すだけで1000万円もかかる」という。その市の担当者は「民家はその家の持ち主が直すべき」だと言う。市民と行政のあいだでトラブルも起きているそうだ。浦安市に話を戻すと、電力を大量に使うデイズニーシーも近々営業を再開するものの、計画節電などのために営業時間を短縮する、という。

そんななかでの、統一地方選挙。
浦安市は選挙の実施をめぐり、千葉県選挙管理委員会と対立している、と記事で伝えられている。

市民ではないので口をはさむ権利も立場もないのだが、市民が復興に向けて取り組んでいるあいだは、選挙を延期するべきではないか。予算執行や法律上の問題はあるだろうけれど、市民の目線になって考えることも必要ではないだろうか。

怒とうのような3月が終わる2011/03/31 23:07:49

まさに怒とうのようなとしか言いようがない、今月だった。

明日から年度が変わる。けれども被災地にいる人たちにとっては、また新入学生や新社会人になる人たちにとっては、とても喜べない月であることを忘れないようにしたい。

それにしてもだ。
安全だ、といいながら一方で出荷停止などというのはどうかしている。
この国を引っ張っていく人たちは、ご自分の言葉がどういうふうに受け止められあるいは理解されているのか、ご自分でお分かりだろうか。
昨日の東京電力の記者会見で、いま大問題になっている福島第一原子力発電所を、5・6号機を除き廃炉にせざるを得ない、という。これだけの大問題を生んだのだからやむをえないというより当然のこと。
それ以上に気になったのは、対応が後手に回っているのではないかという記者の問いに、「まずさというものは感じられなかった」と反論したこと。言い分はあるだろうけれど、あまりにも現状を直視していないとしか思えない。

連日報道されているように、被災者のみなさんの悲しみ苦しみを思うとき、とても胸が張り裂けんばかりの思いがする。実は仕事でなくても、たとえば聴こえる人だったらボランティアだとか現地に入って応援するとか、いろいろな方法があるだろう。だがわたしは聴こえない。なにかしら誰かのためになりたい力になりたい、と思っていても、できない無力感にかられている。
そんなとき、自分を責めるのではなく、今できること将来できることに目を向けたほうがいい、という。
今日、秋の朗読舞台の台本を製本してきた。あさっての朗読の教室で、講師先生にお渡しすることにしている。これも生きていく中での希望といっていいのかもしれない、

自粛自粛で、たとえばこの時期だったらお花見があるはずだけれどできなくなったり、宴会や送別会もなくなってしまった、という方もおられることだろう。演劇や舞台芸術の世界でも、暗黙裏に自粛するべきだ、という「無言の強制」もあるやに聞く。
それらを、また中止したり自粛したりすることを、一律に否定するつもりも考えもない。
しかし、自粛する一方で、やっぱり悲しみに浸ってばかりでは希望も未来も、まして「がんばろう! 日本」とは言えない。
いまわたしが被災者ではないし被災地にいないけれど、もしかしたら明日あさってわたしの身になにかあって、この世にいないかもしれない。
真っ暗な東京の街を歩いていて、ふと、もし明日がなくなったら、という言い知れぬ恐怖を覚えた。
だからこそ、いま生かされていること生きていることに感謝して、明日もあさっても精いっぱい生きなくては。

こころからそう思うのだ。