彼らから大きな励ましと勇気を与えられた2011/02/01 22:02:10

わたしの昨年の舞台を見に来てくださった、ろう学校の先生から封書が届いた。
それはあのわたしの舞台を録画したDVDを鑑賞されたろう学校の生徒さんからの感想文などだった。

ここに公開することはできないのだが、いただいた感想文からは、聞こえないことの苦しみ悲しみ、友人が少なかったりいじめられたりした経験悲しみ、それを乗り越えられた周囲の支えなどが書かれていた。ある者は「先生がいたから」と周囲の支えを感謝している。わたしもいじめにあったことがあるが、もし大人や周囲からの理解がなかったらいまごろ、どうなっていただろう。いじめの苦しみは加害者は忘れるかもしれないが、被害者は一生消えることがない。その思いはどれだけ深く厳しいことか、わたしも理解できる。

「汝の若いときに主なる神を知れ」という聖書の言葉があるように、若い時期というのは人生形成において大きな影響をもたらすといって過言ではない。
わたしの取り組みが若者たちに何かを与え残すことができたのなら、これ以上の喜びはないかもしれない。

若者たちが試練や苦しみを超えて希望を見いだせるように。
わたしたちもまた、彼らから大きな励ましと勇気を与えられた思いでいる。

しっかり着実に前進していこう2011/02/02 00:27:15

会社内の有志を対象にひらいている、手話勉強会。
不定期ながら月1~2回開催していて人数は社外からの参加者も含めて現在、8人。よくここまで増えたね。
場所はこれまで、会社から離れたところのビル内の喫茶店を借りていたが、将来人数が増えたときに手狭になることを見越して、会社内の会議室を借りれないか相談してみた。その結果、使わせてもらえるめどがたった。
とてもうれしいことだ。

しっかり着実に1ヤード1ヤード前進していこう。

健康に気をつけなくては2011/02/03 23:18:26

なさけないことに、腰が痛いとか肩こりがしんどいとか、要するにだんだんからだの無理がきかなくなりはじめたらしい。そりゃそうだ、あんな重い荷物を持って歩いているのだから(苦笑)。

写真は、荷物を預けたコインロッカーのキー番号。気づかなかったけれど13番だ。おいおい。

弁当が豚肉とごはんにサラダというありきたりの食事。豚肉は好きだからよく口にする。
けれどもうちょっと、たとえばカルシウムだとかとらないといけないなあと、健康に気をつけなくては。ただでさえ独り暮らしなのだから、だれも支えてくれる人がいない以上、自分でコントロールできることはしないとね。

じかに教わることほど、生きた教材はない2011/02/04 22:20:22

いくら辞典や本で学ぶことはできる時代だけれど、生きた言葉はやっぱりその人からしか学べないものだ。

今日用事があって、いつも行く都内の福祉会館へ行った帰り、ロビーでろう者の人たちと話をした。
そのなかで「km」「cm」の表現が出た。

中途難聴者は空文字、空間に書いた文字でそれぞれ「km」「cm」と表す。ろう者は人によって違うけれど、空間に書いた文字の人もいれば、左手人差し指を立ててそれをkの縦の字に見立てて、「く」を右手で空文字で書いて表す人もいる。「cm」ならkではなくcの字で表す。
つい最近わたしが購入した辞書では左手で指文字「k」、「c」、右手親指と人差し指で小さな丸をつくりそれを目元から向こうへやる。つまり目元から向こうへやるのは「遠い距離」という意味を込めている。
だが、この表現は今日お会いしたろう者に聞いたら「おかしいよ」というのだ。

「世紀」という表現がある。
両手とも、人差し指と親指で「c」のかたちをつくり、利き腕のほうを動かさず、反対の手を横にずらす。片手の位置を動かさないのは「いま」「現在」という意味である。この応用で、「18世紀」「20世紀」というときは動かすほうの手で数字を表してから「世紀」を表すのだそうだ。

聞こえる人の世界でも、言葉はまちまち、日々変わっていく。
まして手話は「毎年辞書に載ったり発表されたりしたなかで、使われ残っていくのは10%あるかないか」だと、わたしの先生は教えてくださった。
手話も日々変化していく生き物なのだ。いまこうしてDVDだ本だと手話関連の学習教材がたくさんあるが、わたしの先生が手話を学んだいまから30年前は、そんなテキストなどなく、直接ろう者に聞いて覚えるしかなかったのだ。

やはり言葉はそれを使っている人からじかに学ぶに限る。
じかに教わることほど、生きた教材はない。

楽しかったからそれでよし2011/02/05 23:38:09

朗読、久しぶりの(というより今年最初の)手話サークルと続けて参加。
サークル後の飲み会では、ノンアルコールとはいえビール小びんを4本空けてきた。めったに飲まないわたしが4本も空けるなんて、天と地がひっくりかえったかのように思ったかもしれない。会話も弾んだし楽しかったし、帰りの地下鉄では疲れて居眠りしてしまった。

朗読の前に、現地時間で明日6日、日本時間では7日朝にある第45回スーパーボウルのゲームプログラムを買ってきた。
じっくり読みながら大舞台を楽しみにしよう。

買い替える必要がない2011/02/06 21:38:46

いよいよ明日朝8時から、第45回スーパーボウルが放送される。
自宅のデッキ内にある、DVDへダビングしていない録画した番組をダビングして、デッキ内の容量を増やしておかないと。容量を増やしておかないまま録画してしり切れにでもなってごらん。目もあてられないぶざまなことになる。見ていないのは昨年秋に話題になった「セカンド・バージン」と「嬢王3」。あとはドキュメンタリー番組があるだけ。

話はずれるけど、DVDで「すごいなあ」と言っているわたしのレベルでは追いつかないほど、時代は進んでいるようだ。いまやブルーレイディスクだもんねえ。いやはやまいった。かといっていまあるDVDデッキはまだ使える(そもそもがおととしに買ったばかり)なので、買い替える気がしない。壊れたとか機能的に使い物にならないとかいうのならわかるけれど使えるあいだは、買い替える必要がないと思っている。

DVDで思い出した。
昨年のわたしの舞台を録画したDVDを追加制作をお願いしたものが
今日、手元に届いた。
「ほしい」という方が何人かいらっしゃるので、今月中に発送するか手渡しでお届けしたい。

これぞフットボール!2011/02/07 23:36:56

仕事中は職場においてあったテレビからの画面にもほとんど目もくれなかったが、あとで結果を知って、とても納得できた。日本時間でけさ8時30分にキックオフの第45回スーパーボウルである。

戦前から言われていたように、今回のピッツバーグとグリーンベイの対戦は、派手なパスの投げ合いだとか、極端な得点差だとか、まして奇跡的なビッグプレーなどという素人向けの試合にはならないとみられていた。素人が期待するような、とんでもないビッグプレーではなく、僅差競り合った試合になるのではないか。そんな予想があった。

数字を挙げよう。
レギュラーシーズン中の1試合平均失点はピッツバーグが14.5失点。グリーンベイは15.0失点。ともにNFL全体の1位と2位の成績である。
反対に1試合平均得点は1試合平均23.4得点、24.3得点と、そう多くない。多くないからこそ守備がどれだけ踏ん張れるかがかぎとなる。
そういえば、この両チームに共通する点がまだあった。
チアガールチームを持たないことだ。NFLでチアガールを持たないのはほかにクリーブランド・ブラウンズくらいしかない。

試合は前半で、グリーンベイが2つのタッチダウンパスとインタセプトリターンタッチダウンで、21点。ピッツバーグはキックだけの3点。だがこれくらいで勝負が決まるわけはなく、後半に入ってピッツバーグがパスとランでそれぞれ2つのタッチダウンをあげて4点差まで追い上げる。しかしピッツバーグのRBがタックルをくらってボールを落としてしまう痛恨のミス。グリーンベイがタッチダウンをあげて突き放しにかかるも、ピッツバーグがタッチダウンをあげ、3点コンバージョンも決められて点差が3点にまで迫られた。だがフィールドゴールで点差を6に広げ、ピッツバーグの攻撃をしのいでファイナルスコアは31-25。グリーンベイが4度目のスーパーボウルチャンピオンに輝いた。これでNFLは2010-2011年の全日程を終了した。

今後のスーパーボウル予定をあげて、この記事を終えたい。
第46回大会 2012年2月5日 インディアナ州インディアナポリス
第47回大会 日時未定     ルイジアナ州ニューオーリンズ
第48回大会 日時未定     ニューヨーク・ニュージャージー

ひときわ耳の奥に残る歌2011/02/08 23:22:52

会社を出て、日本手話の勉強に向かう。とても充実した内容というとありきたりの言い方だけれど、生きた勉強がわたしの血となり肉となっていく。一瞬もムダにできないとさえ感じるからだ。

終わって居酒屋で朗読のこと、会社の手話教室についてなどひとしきり会話を終えて帰る途中。わたしたちのそばを、何人ものランナーが行き交っていた。こんな夜遅くに、それも雨が降り出そうというときに、マラソンランナーだろうか、ジョギングだろうか。ニューヨークでもそういう光景を見たことがあるけれど、あれは昼間だけの話。夜なんてとても走れない。つくづく日本は恵まれていると感じる。

「恋人よ」。五輪真弓さんが歌った名曲であり、カラオケでまともに歌いこなすにはとても難しい曲のひとつ、といわれる。
このなかに、「砂利道を駆け足で マラソン人が行き過ぎる」というくだりがある。わたしが手話を学ぶ都内には砂利道がないけれど、たぶん歌詞から、晩秋か冬を舞台にしているのではないだろうか。ともあれ、歌いこなすには難しいからこそ、ひときわ耳の奥に残る歌である。

体力づくり2011/02/09 23:10:13

卓球をはじめてもう9年になるかな。それまで太めだったのがかなりやせた。本音を言うと、もっとやせたいのだけどね。けれどもラケットを握っているだけが運動ではない。もう少したって暖かくなったら、久しぶりにボールを持ち出して(もちろんフットボールだ)パス投球練習をしたい。
その前にいろいろな意味で体力をつけたい、とスクワットを始めた。

からだに無理をさせないために、まず自分の年齢の数を目標にして、徐々に回数を上げていくこと。プロレスラーやフットボーラーならこんな回数はお話にならないけれど、あくまでも体力づくりであって、無理無茶をするためではない。

何度もいうけれど、「継続は力」だと確信している。
やり続けていけば必ず卓球の動きだけではなく、からだにいい効果が現れるからね。

手話言語法2011/02/10 23:53:58

週の初めに、昨年の舞台を見に来てくださった方やこのブログをいつも読んでくださる方から注文をいただいていた、昨年の舞台を収録したDVDをお送りすることができた。時間がかかったけれどお約束を果たすことができて、とてもうれしい。手元にはまだ8枚予備が残っている。

今日の新聞朝刊に、とてもうれしい記事があった。
「手話は言語 法で認めて」

全日本ろうあ連盟 手話言語法に関するサイト
http://www.jfd.or.jp/category/sgh

この「手話言語法」(仮称)は「手話は言語だ、と明確に位置づける法律」である。
いまでもまだまだろう学校は相手の口の動きを見て話を理解する教え方が主流だ。それは聞こえる人の社会に出たときに、聞こえない人が聞こえる人に合わせるというねらいがある。だが、中途難聴者でもろう者でも、主流といわれる「口の動きを見て話を理解する」のはとてもたいへんだ。はっきり言ってしまおう。聞こえる人からの一方的なコミュニケーション方法の押し付けである。
ということは、逆に言ってしまうと手話の社会普及、聞こえない人たちの社会参加をを妨げている理由のひとつでもある、ということだ。徐々にろう学校でも手話を教えてはいるけれど、教えられる先生が少ない。公共機関でなどに手話のできる人が少ない。駅や銀行などで「筆談ができます」というボードを置いたり手話のできる人がいます、などと掲示してくれるところも増えたけれど、手話のできる人はまだまだ足りない。

正直本音を言ってしまうと、悩む。筆談ボードの利点は否定しないけれど、それがあるために、それに頼ってしまう。わたしのコミュニケーション方法のひとつではあるけれど、わたしにとっての「公用語」は手話もあるのだ。たどたどしくてもつたなくてもいいから「『この仕事はいついつまでにみてください』という言い方は手話でなんというの?」と、仕事の合間に聞いてくれたほうが、アイドルなんかのつまらないくだらない雑談よりずっと楽しい。こちらも身を乗り出してしまうだろうし。
そういう意味では、手話が使えないというのは苦痛なのだ。

断っておくが、関心や興味のない人にまで押し付けようとは思わないし考えてもいない。それはかつてのろう教育と同じ過ちの再現にしかならない。
ただ、手話が言語として認知されていれば、ずっとずっと聞こえない人たちにとって生きやすい過ごしやすい社会になることは間違いないし、それは聞こえる人たちにとっても同じことなのだ。聞こえない人が聞こえる人に合わせるのではなく、わたしたちの「公用語」である手話も日本語と同じ言語であること、そこからお互いを理解する糸口になるのではないか。お互いが生きやすい社会になるのではないか。

たまたま同じ新聞の1面に、TOEICの試験で800点以上を社員の義務にしているという銀行の話があった。

めざせTOEIC800点 三井住友銀、総合職全員に
http://www.asahi.com/business/update/0209/TKY201102090462.html

たしかに国際ビジネスの面で英語ができ、なおかつ単なる読み書きやスピーチ以上の能力があればこしたことはない。
ここまでやるかという思いと、聴覚障がい者を雇用する会社にも、手話を義務とは言わないが、仕事上どうしてもやらなくてはならない、というようになったら、少しは違ってくるのかなとも思ってしまう。

ともあれ、手話言語法にはわたしも賛成であり、この実現のために力を尽くしたいと思う。