怒とうのような3月が終わる2011/03/31 23:07:49

まさに怒とうのようなとしか言いようがない、今月だった。

明日から年度が変わる。けれども被災地にいる人たちにとっては、また新入学生や新社会人になる人たちにとっては、とても喜べない月であることを忘れないようにしたい。

それにしてもだ。
安全だ、といいながら一方で出荷停止などというのはどうかしている。
この国を引っ張っていく人たちは、ご自分の言葉がどういうふうに受け止められあるいは理解されているのか、ご自分でお分かりだろうか。
昨日の東京電力の記者会見で、いま大問題になっている福島第一原子力発電所を、5・6号機を除き廃炉にせざるを得ない、という。これだけの大問題を生んだのだからやむをえないというより当然のこと。
それ以上に気になったのは、対応が後手に回っているのではないかという記者の問いに、「まずさというものは感じられなかった」と反論したこと。言い分はあるだろうけれど、あまりにも現状を直視していないとしか思えない。

連日報道されているように、被災者のみなさんの悲しみ苦しみを思うとき、とても胸が張り裂けんばかりの思いがする。実は仕事でなくても、たとえば聴こえる人だったらボランティアだとか現地に入って応援するとか、いろいろな方法があるだろう。だがわたしは聴こえない。なにかしら誰かのためになりたい力になりたい、と思っていても、できない無力感にかられている。
そんなとき、自分を責めるのではなく、今できること将来できることに目を向けたほうがいい、という。
今日、秋の朗読舞台の台本を製本してきた。あさっての朗読の教室で、講師先生にお渡しすることにしている。これも生きていく中での希望といっていいのかもしれない、

自粛自粛で、たとえばこの時期だったらお花見があるはずだけれどできなくなったり、宴会や送別会もなくなってしまった、という方もおられることだろう。演劇や舞台芸術の世界でも、暗黙裏に自粛するべきだ、という「無言の強制」もあるやに聞く。
それらを、また中止したり自粛したりすることを、一律に否定するつもりも考えもない。
しかし、自粛する一方で、やっぱり悲しみに浸ってばかりでは希望も未来も、まして「がんばろう! 日本」とは言えない。
いまわたしが被災者ではないし被災地にいないけれど、もしかしたら明日あさってわたしの身になにかあって、この世にいないかもしれない。
真っ暗な東京の街を歩いていて、ふと、もし明日がなくなったら、という言い知れぬ恐怖を覚えた。
だからこそ、いま生かされていること生きていることに感謝して、明日もあさっても精いっぱい生きなくては。

こころからそう思うのだ。