教会と手話賛美歌と手話ソングと2009/05/17 22:51:48

猛烈な風に揺れる
昨日の手話サークルのときのこと。納涼会でわたしたちが学びをともにしているクラスの仲間と一緒に、手話ソングパフォーマンスをやりませんか? と話を出してみた。わたしがこれまで練習してきた曲、水前寺清子さんの「ありがとうの歌」ではなく「三百六十五歩のマーチ」をやりたいという話になった。あらら、想定外だねと思いつつ、さっそくこの曲がはいっているCDを借りてきて練習用にダビングをする。もちろん手話訳をつくらなくてはならない。元気のいいマーチ風の曲だからやるなら元気よく! 朗読もあるし時間も限られているけれど、手話ソングや朗読と同様、本気でやりたいという思いが強くなってきた。ぜひサークルの仲間といっしょにやりたい!

日付が変わって今日。
ひと月遅れたけれど2009年度の青年の会が始まり、手話賛美歌を一緒にやろうという案が出ていたので、本田路津子さんの「ひとりの小さな手」をやることにした。
歌詞にリフレイン部分があり、曲も歌詞もシンプルなために、覚えやすいかもしれない。残念なのはこの賛美歌がいま使われている「讃美歌21」には収められていないこと。旧賛美歌の続編「ともにうたおう」に掲載されていたのだけれど「讃美歌21」では、カットされてしまった。この曲以外にもカットされたものがあり、個人的にはとても残念な思いである。

と、手話ソングや手話賛美歌をめぐってのここ数日を書いてみた。

断わっておきたいのは、手話ソングや朗読や手話を使った歌というのは手遊び、遊びではないということだ。
手話ソングそのものについていろいろな意見があり、手話で歌うことへの否定的な意見から、肯定的なものまでさまざま、多岐にわたる。
わたしはこれまでにも書いたように、表現することへのこだわりから、手話による歌やパフォーマンスは自己表現の一部であり、文化活動としてあるべきだと思っている。
教会でも牧師や信徒から手話についてきかれたり難聴者について話したりした。わたしを見た人のほとんどが、「難聴者だとはみえない思えない」と言ってくださる。そりゃそうだ、補聴器をつけているけれど明りょうに話せるから。

でも聞こえないのは事実。
だからこそ聞こえる人が手話に関心を抱いて、手話をきっかけに難聴者やろう者に対する理解を深めてくれたらと思う。
わたしは職場でも教会でも朗読でも家族でも、はっきり言って少数者の立場だ。周りは聞こえる人ばかりで、わたしだけが聞こえない。ただひとつ、難聴者の集まりの中では同じ障碍者がいるために少数者としての悲しみ苦しみを感じることがない。いつかはわたしも、少数者ではなく、手話で思いを伝えあえる家族と巡り合いたい。

ほんとうは青年会レベルではなく、教会のなかで手話から、要約筆記やコミュニケーションなどについて理解をもっていただけるようになれば。
教会での手話は、一般とは違い、信仰理解や聖書理解など、信仰に関する知識がないと成り立たない。クリスチャンの手話通訳士が少ないのがとても残念だ。
手始めはこれでいいとして、ゆくゆくは地域、教区、他教会とのつながりで手話通訳士を迎えて手話を学べる会に育てたい。