119552009/06/01 21:38:50

http://mainichi.jp/select/world/news/20090601k0000e030056000c.html

http://www.cnn.co.jp/world/CNN200905310016.html

NFL、ピッツバーグ・スティーラーズでプレーしている、ベン・ロスリスバーガー(Ben Roethlisberger)につけられたあだ名は「ビッグ・ベン」という。196㌢、109㌔、マイアミ大学オハイオ校出身の彼は、名のとおり「大きなベン」だが、こちらはフットボールではない。ロンドンにある国会議事堂の時計塔の大時計をさす。

ビッグ・ベンで思い出すのがふたつ。

タイトルにあるのは、短波放送の周波数だ。わたしと同世代なら多くが子どものころに一度はやったことがあるのではないだろうか。BCL(Broad Casting Listener)ブーム、海外短波放送を聴くのがはやっていた。そのなかでもBBC日本語放送が1、2を争う人気放送局だった。そのBBC日本語放送の周波数が11955。<ヒビクゴンゴン ビッグベン>と語呂合わせで覚えていたものだ。余談ながら、わたしが初めて手に入れた海外短波放送用ラジオは、そのころ画期的な機能として周波数がデジタル表示されたものだった。当時はまだアナログラジオが主流で、周波数をダイヤルで合わせたり、2つのダイヤルを組み合わせて受信した周波数を読み取る、いわば手作業と玄人の勘が頼りだった。ところがこのデジタル表示のおかげで、短波放送が身近なものになり、5万円を切った価格もあって、多くのファンをつかむことができた。

もう聞こえなくなったわたしにはアマチュア無線もBCLもラジオも、縁遠くなってしまったけれど、ビッグベンというとどうしてもわたしにはNFLのクオーターバックではなく、写真でしか見たことのない、1859年5月31日に時を刻み始めた、時計盤の直径7㍍、振り子の重りが203㌔、30分に1回の時報の鐘が13・7㌧の重量だというこの時計を思い出す。

そういえば、BBC日本語放送の、ある年のエープリル・フールで、「ビッグベンがデジタル時計になります。ご希望の方には時計の針を差し上げますので、お手紙をください」とアナウンスをしたら、世界各国から(ホントに)「針をください」というリクエストの手紙が来たというニュースを聴いて、思わず笑ってしまった。

わたしの使っている腕時計は社会人になって2年目ごろに買った1000円の安物デジタル時計だ。ビッグベンとは比べ物にならないけれど、でもビッグベンだけは、世界中のあらゆる時計がデジタル表示に変わったとしても、2本の針と、鐘を鳴らして正確な時を知らせてほしい。
かすかに耳の奥に残っている、BBC日本語放送開始を知らせるビッグベンの鐘の音とともに、いつかは訪れてみたいところのひとつだ。

振りだしに戻って2009/06/02 23:27:30

今日から朗読の取り組みに入る。

とまではいいのだけれど、テキストに決めた「最後の一葉」の手話訳に、つまづいてしまった。なにせ外国の話で、しかもつながりがうまく出ない。
ご指導くださった手話通訳士の方とも相談して、「最後の一葉」をやめて「塩狩峠」に戻すかどうか、ただし春に決めた部分のままでは長すぎて使えないため、カットするか補加筆するかをしないといけない。

朗読にはまだ時間があるから、今週にもさっそくテキストを作りなおすことにする。

やれやれ、といいたい半面、こうした苦労や取り組みができることをとてもうれしいと思う。

もうひとつの課題、「三百六十五歩のマーチ」は、だいたい完成した。
何度か曲に合わせてみて、次回あたりで決めたいと思う。

日々の歩みを地道にあきらめない2009/06/03 20:56:40

結局、「最後の一葉」をあきらめて「塩狩峠」に戻すことにした、朗読への取り組みだけれど、決してあきらめたり投げ出したりする気持ちはまったくない。むしろ取り組みを続けようという意欲がわいてくる。

今日の新聞に、こんな記事が出ていた。

<人生って楽しいことより苦しいことのほうが多いですよね。でも、苦しさって神様が与えてくれる宿題のようなもので、きっと解けない宿題は与えられない。宿題が大きいほど、その人に対する期待も大きいということだと思います>

もうひとつ。
<希望とは何かという問いにも、働く意味と同じく「これしかない」というきまった答えはない。答えが定かではない問いを、意味がないと切り捨てるのか。それとも、わからないことこそ重要と受け止め、どっちつかずの状況をあえて漂いながら、少しでもよい方向を求め、地道な行動をあきらめないか>

前者は今日の毎日新聞朝刊、料理人の松久信幸さんへのインタビュー。後者は同じく今日の朝日新聞夕刊。玄田有史さん(東京大学教授)の文だ。

舞台について言えば、昨年、多くの人に見に来てくださったように、今年も舞台を、見に来ていただきたい。大切な、生涯大事だと思っている人にも、今年も来てほしい。それはわたしを誇るのではなく、またほめてもらいたいというのでもなく、来てくださった方にわたしの舞台を楽しんでもらいたいと思うからだ。

「宿題が大きいほど、その人に対する期待も大きいということだ」「どっちつかずの状況をあえて漂いながら、少しでもよい方向を求め、地道な行動をあきらめない」

朗読舞台に限らずこれからの人生を見つめて、どうなるかわからない不安の中で、困難が多くやってくるだろうけれども、かならず実現するのだ、少しでもいい舞台、終わったときによかったと思える人生をつくれるように、これから9月までの取り組みを、日々の歩みを地道にあきらめないこと。

希望は失望に終わることはない。
いまも信じている。

明日もまた2009/06/04 22:22:44

とりあえず、昨晩朗読原稿を4つ、案をつくり、朗読の先生と手話をご指導くださる手話通訳士にそれぞれメールでお送りした。

いま、聖書とは別に、こんな本を読み始めている。

「聖書をめぐる三十一夜話  現代に生きるイエスの言葉」
太田愛人 著 バジリコ刊   1500円(税別)

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに平和を
いさかいのあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしたちがみずから与えることによって受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから

これはフランチェスコによる「フランチェスコの祈り」として知られている祈りである。
ついついわたしたちは自分本位の、自分中心の祈りに陥ってしまいがちである。自分の希望をまず第一に持ってきて、その次に誰かのため、となってしまう。
フランチェスコの祈りを見ると、逆であることに気づかされる。
自分のことは後回し。まず神さまのために用いてください、理解されること愛されることより理解すること愛することを求めている。口先や理想ではこう言えても、なかなか実際にはそう言い切れる人はどれだけいるだろう。

「自分を捨てて死に」。ヨハネ福音書12章24節の「一粒の麦」を思い出すし、朗読テキスト「塩狩峠」のテーマでもある。
自分が死んでもなお多くの実を結ぶためには、どうあるべきなのだろう。
自分を第一にしない、と理想ではわかっているけれど、なかなか実現できることではない。
だからこそ、一日一日をどれだけ生きたか。大切にしてきたか。
明日もまた、新しい日がやってくる。

さまざまな思いをこめた旅ゆえに2009/06/05 22:48:33

振り出しに戻って、「塩狩峠」の原稿を――今回は4つの案を、手話通訳士と朗読の講師にそれぞれ提出する。大きな違いは、一番最後の、主人公の友人とその妹で主人公の婚約者が、殉職事故現場を訪れる場面。小さな違いは、カットした個所がいくつか異なること。

次回の手話のご指導前にも、テキストを最終決定しておきたい。それと、三浦綾子記念文学館にも、連絡をしなければならない。2月に旭川を訪れたときに朗読使用はかまわないと言われてはいるけれど、念のために連絡をしておかなければならないからだ。

本音を言うとやっぱり「塩狩峠」を読みたかった。「最後の一葉」でもよかったけれど、もしこれでやっていたら、後味がすっきりしない思いをずっと引きずっていただろう。なぜなら2月に、事故から100年目のイベントに参加してきたこと。さまざまな思いをこめた旅ゆえに、どうしても「塩狩峠」にこだわりがあった。
偶然だけれど手話ソングで発表することになっている「学生時代」も「塩狩峠」も同じ年に世に出た。「塩狩峠」の事故から今年は100年目だが、愛読者の多い太宰治さんも今年が生誕100年目だとか。

「学生時代」「塩狩峠」発表から44年がたって、今度は手話がらみで語り歌う。
なにかの偶然だろうか。

ともあれ、明日、手話通訳士と朗読の講師にそれぞれ、同じ個所の4つの案を提出する。講師のご意見をうかがってからだけれど、4つのうちどれかに決まったら、いよいよ本格的な取り組みになる。

あと3カ月あまり後――。

自分をありのままに受け入れられる2009/06/06 23:05:26

やれやれ。突然補聴器の電池が切れてしまい、あわててコンビニで空気電池ではなく、通常の電池を購入する。なんとか自宅に戻るまで、補聴器がもった。
朗読と手話と、わたしにとってはどちらも大切なもの。自分の何ものであるかをたしかめ、自分をありのままに受け入れられるときでもある。

自分を肯定的に受け入れることなくして、他者を受け入れることなどできるわけがない。

夜はいつものようにおしゃべり。楽しくあっという間に過ぎた。
明日からまた、新しい新しい週が始まる。

2週間ぶりの礼拝2009/06/07 08:06:49

卓球大会などのために離れていたが2週間ぶりに礼拝に出席する。自宅へ戻る前に、行きつけの喫茶店で過ごして撮影したのが、これ。

昨日買ったばかりの補聴器の電池は今日で切れてしまった。たった一日でだよ。空気電池かデジタル補聴器専用でないと長く持たない。
しかたないから自宅へ戻るまで、いっさい音が聞こえないまま。

昨日の会話でも出たことだけれど、他者を理解するのは本当に難しいことだ。
難聴とひとくちにいうけれど、聞こえの具合はまちまち。高齢になってから聞こえなくなった人や、病気のために聞こえなくなった人。補聴器が素晴らしい効果をもたらす人がいて、補聴器では効果がない、ほとんど役に立たない人もいる。手話ができる人もいればできない人もいる。
そういう多様さのなかでお互いを理解し合うのは、口ではなんぼでも言えるけれど、実際にはなかなか容易なことではない。ついわたしたちは手話ができればと思ってしまいがち。いくら気をつけていても「上から目線」になってしまう弱さをもっている。その弱さと多様さをどう分かち合えるか。

今月また青年会で手話賛美をともに学ぶ予定である。とりあえずの課題である「ひとりの小さな手」(本田路津子さん)をいきなり全部覚えようとするのはっきり言って無理。まず前回の繰り返しをやってから、次に手話の基本である指文字などに入っていこう。
ある人が「ひとりの小さな手」を制覇する、と意気込んでおられたけれど、意気込みは大切な一歩であって、手話ソングを覚えたから手話ができるというほど生易しいものでも簡単なものでもない。
大事なこと、それは手話はあくまでも入り口のひとつであって、すべてではないということだ。手話をきっかけに聞こえない人への関心を向け、どうしたらコミュニケーションが豊かになるかということ。そして聞こえない人の不利益である、情報を手に入れられない、社会から排除されてしまう孤独、といった問題にも目を向けていきたい。

まとめ買い2009/06/08 23:03:37

昨日、補聴器の電池が切れたということを書いたのだけど、ほんとうに補聴器の電池は、ユーザーにとって切実な問題だ。
パックに入っているボタン型の電池は、使用するまではパックから取り出さないほうがいいと知ったのはつい3年前のこと。それまではまるで薬の錠剤のごとく、パックから取り出してケースに入れて持ち歩いていた。
ところがボタン電池は、振動を加えると電池内の電極、要するにプラスとマイナスが激しくぶつかり合って、電池の消耗が速くなるのだそうだ。そして持ち歩いているうちに電池が減ってしまい、いざ使おうと思ったときはもう役に立たなくなってしまう。

価格もけっこう問題で、6個入りで1000~1500円ほどする。1個当たりの単価を考えると、高いものだなと思う。
たまたま、販売店の春季バザールで、市価の半額で売っていたのを10パックまとめ買いしておいた。これだけあれば半年は無理でも、今秋まではもつだろう。東芝製の電池だが、販売店に聞くと間もなく製造中止になるという。まとめ買いしておいて損ではない。
ちなみに昨年カナダとアメリカを訪れたときも、同じような目にあい、日本から予備に持って行った電池も切れてしまって、トロント市内の電気店でアメリカ製の電池を購入したけれど、あれまあ、2~3日で切れてしまった。パックだったからだましだまし使ってみた。

補聴器ユーザーが旅行に出る時の必需品――補聴器を乾燥させるための乾燥剤と保存ケース。次いで予備の電池を数パック。あとは耳せんを掃除するための綿棒。赤ちゃん向けの小さなサイズがいい。
なぜ乾燥剤がいるのかというと、耳のなかに長いあいだ入れているために、耳穴のなかにいる雑菌やほこりなどが付着する、その消毒と清掃のためである。昔は冷蔵庫用の乾燥剤を使っていたけれどいまは電気式の乾燥剤入りケースを使っている。それでも耳せんにたまったごみやほこりなどを、綿棒で月に1~2度掃除しなければならないから、なかなか面倒でもある。

そんなこんなで、補聴器とこれからも付き合っていかなければならない。
やっかいではあるけれど、命綱でもある、大事な存在なのだ。

待つこと2009/06/09 23:45:48

人生、生きていればいろんなことがあるものだ。
思うようにならないことがあり、楽しいことがあり苦しいことがあり。

しかし、このごろふと思うのだけれど、その自分ではどうしようもない、いろんなことを楽しむというか、いろんなできごとのなかでそのひとつひとつの過程を楽しむ、というか。楽しむといってもいいし、待つことだといってもいい。

待つこと。とてもしんどい作業だし、忍耐力を要求される。
できるなら避けて通りたいものだけれど、待つしかないときもある。

3カ月後の舞台。これからの人生。大切にしたいと思っている人。
そのために何をしたいのか、どう生きたいのか。
その待つというプロセス時間を、ときには辛抱強く、ときにはそのさきにある何かを楽しみにしている。

NHK総合テレビの「爆問学問」という番組を見たばかり。
爆笑問題と盲ろう者で東大教授の福島智先生の対話でした。なかなか見ごたえある番組でしたね。
福島さんがこんなことを言っていました。
「わたしはいま、ここにいる」

苦しみやつらさの向こうにあるなにか。喜びや、希望を待ち続ける。実現するかどうかはわからないけれど、かならずやり遂げるのだ、実現させるのだ、という強い意志と、実現した時をイメージする。それが生きる希望なのかもしれない。
自分のためではなく、神さま、そして大切にしたいと思っている人を思いながら。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

              (新約聖書 ローマの信徒への手紙 8:24~25)

変わるということ2009/06/10 07:57:16

いま聖書日課で、使徒言行録を読み進めている。

イエスが十字架にかかり処刑された後、彼の弟子たちは一目散に逃げ散っていった。ローマの皇帝やユダヤ教の指導者から逃げるためでもあり、イエスを見捨てるためでもあった。
しかしイエスが復活され、彼らの目の前に現れてから、弟子たちはガラっと変わっていった。ペテロは口先だけ、口がうまい言動をしていたのが、復活後のイエスと出会ってから言葉遣いまで丁寧に穏やかになっていった。

はたしてわたしはそこまで、劇的に変われるだろうか。
変われたから弟子たちは世界各地へ福音を伝えていった。そしてわたしたちに信仰が受け継がれている。

わたしが変わるのではなく、神さまによって変えられるというか変わるというのか。