イメージで伝えるということ2009/05/01 23:10:15

あと1回を残すだけになった手話ソングの練習。
ほとんど完成に近いけれど、まだ少し表現など工夫や研究が必要だという。
手話ソングの場合は、ただ単に単語をあてはめるだけではいけない。歌の、歌詞の説明をするな、ということだ。
歌に込められた世界なり状況なりをイメージで伝える。たとえば『学生時代』の歌詞でいうなら「つたがからまる」を、指文字でつたとする、からまるを指をからませる、というのは単語としては正確でも、イメージとしてはつかみにくい。ではどうするか。両手をひらいて葉のように。親指を片手の親指の根っこにくっつけて両手を上へ重ね交差して上げていく。からまるというイメージだ。

これが会話とは異なる難しいところ。
会話ならある程度の説明がなくてはいけないけれど、歌は曲に合わせなければならないから、イメージがどうしても重要になる。
同じ『学生時代』の歌詞に、重いかばんをかかえて、というのがあるが、手話ではないけれどかばんを振ったり下から上げるように重さを伝えると。いわばパントマイムのようなパフォーマンス性も要求される。
こういう世界はわたしのとても好きなものだ。口で話したり説明したりする代わりに、どうやったら伝わるか。もしかしたら日本手話の学びにも生かせるかもしれない。

さて検査。
胃カメラは鎮静剤を打ってもらって半分どころか9割眠った状態で受けた。だから胃カメラを通す苦しみは全く記憶にない。 
検査医師は「大丈夫でしたよ」と言ってくださったが、検査が大丈夫だったのか、からだに異常がなかったのかは、この言葉だけでは何とも言えない。実際けさ病院に着くまではお腹が痛かったし、手話ソングに行ってからものどが違和感を感じていたのだ。昨日今日の話ではないから、不安がないほうがおかしい。

明日はゆっくり休もう。

手話で話をしているとき2009/05/02 23:47:47

やはりいちばん落ち着くというときは、手話で話をしている時だ。
会話をしているとどんなに苦しいときでもつらいときでも、痛みも苦しみもどこかへ飛んでいく。

昨日未明の3時ごろにまたおなかが痛くなり、そのまま3時間も眠れず。出かけるときも痛くて少々つらい。
会話をしているときは痛みなど感じない。

こういう楽しい時をどんどん自分のなかにためていこう。

手話で話をしている。それがわたしの夢であり楽しみだ。

試行錯誤……お互いを理解しあうことにつながれば2009/05/03 21:35:23

2009年春、わたしたちの教会に起きた変化の中で、とてもうれしいことのひとつは、礼拝説教をプリントでも読むことができることだ。
これまでわたしが28年あまりの教会とのかかわりのなかで、当日の礼拝説教をプリントでもらった記憶はあまりない。どうしてかわからないけれど、神の言葉を語るという視点、牧師の立場から、また事前にプリントを配るのはおかしいとか、わたしのような、情報弱者以外の人たちに不公平であるとかいう理由だろうと思う。
けれども、聞こえない人にとって聞き取るというのは、まるで雲のなかに手を入れて手さぐりで空気を感じなさいというに等しい。わたしの難聴である感音性難聴は、音が音として認識できていても、それがどういう音なのかつかめない。それだけに、いくら口の動きを読みとろうとしても限界があり、正直疲れてしまうのだ。それを思うとき、不公平だとかおかしいとかいうのは理由になるだろうか。

事前にいただいたプリントを読むことができるのは、ほんとうに助かるし、うれしいことである。礼拝にいながら、何を言っているのかさっぱりわからない、取り残されたような寂寥感を始終味わっていたのが、このプリントのおかげで、礼拝に参加している、かかわっているという意識が高まってきた。普通に話せるわたしとしては、礼拝司会などの奉仕もしてみたいなどと厚かましいことを思ったりもするが。

さておき、しかしこれも限界がある。
プリントを目で追いながら牧師の語る内容をつかむ。「あれ? いまどこを話しているのかな」と説教中に、周囲に聞くわけにはいかない。人名や地名など固有名詞が聞こえたところで当てずっぽうにたぶんここだろうと、プリントを読むしかない。で、外れたらまた同じように繰り返しプリントを読み返す。

ここで思う。秋に予定されている手話つき朗読舞台だ。
手話を使って語るのはわたしだけである。もちろん何人か難聴者やろう者が見に来て下さると思う。手話をつけたから大丈夫、とはいえない。今回は難聴者やろう者の希望者に限って台本を事前にお渡しする方法も考えているが、それとてはたして、完全に内容を理解してもらえるだろうか。

どう考えてもこれで「完全完ぺき」というものはありえないのかもしれない。あるとしたらただひとつ、神さまのなされることだけしかないのだろう。
けれど、試行錯誤しつつ、これまで挙げた取り組みが、聞こえる人と聞こえない人とのお互いを理解しあうことにつながればと思う。
朗読舞台でもわたしの教会でも、聞こえないのはわたしだけ。その現実から、何かが変わっていけたら。
いつか実現させたい、「難聴者やろう者にも楽しめる朗読舞台」のためにも。

2009年房総半島13時間の旅2009/05/04 23:18:41

「ツァラトゥストラはかく語りき」をここでBGMとしてかけるのは……タイトルが映画『2001年宇宙の旅』にひっかけたからとはいえ、ユーモアにもならないだろう。

さておき、連休の今日、わたしは朝6時に起きて7時過ぎに自宅を出た。130円で房総半島を回る、13時間の旅である。

ルールがある。
「定められた区間内で乗車経路を重複したり同じ駅を2度通ったりしなければ、実際の経路にかかわらず運賃を最安値で計算できる。途中下車は不可」という、JRの特例である。
もうひとつ、ローカル電車しか利用しないこと。当然ながら改札をくぐってはいけない。

という前提で、房総半島を回ってみた。
けっこうこれは楽しい旅。たしかに観光名所を回るわけでも温泉にはいるわけでもない。ただ電車に乗って途中改札を通らず、東京駅に戻るだけ。つまらないかもしれないが、たまにはこんな旅もあっていい。

で、ルートである。
東京駅→蘇我駅→木更津駅→館山駅→安房鴨川駅→大網駅→松岸駅→千葉駅→東京駅

食事は蘇我駅で購入したペットボトルと豚肉弁当、大網駅でアイスクリームを購入しただけ。カメラと聖書を荷物に。こういう旅はやたらめったら荷物を持たないほうがいいけれど、せっかくのローカル線だからゆっくり聖書を読みたい。

学校帰りか、高校生のカップルがいたり、温泉から帰る人たちがいたり、普段の生活ではまず経験できない、ゆったりのんびりした旅。東京駅に戻ったのは夜8時30分。遅い夕食を外で済ませて自宅に着いたのは出発から半日以上が過ぎた午後10時30分。
またいつか時間があったときにチャレンジしてみたい。

久々に楽しめた、半日を超す旅だった。

せかせかした旅もいいけれど2009/05/05 20:52:47

昨日の旅行を振り返って。

たいへんとまではいかないけれど、しんどかったのは、まずトイレに入る時、せっけんがなかったこと。
コンタクトレンズをつけているのだけれど、出かけるときはつけず、途中のトイレでつけようと思ったのだが、トイレにせっけんがない。手を念入りに洗っておかないと、手に細菌がついていたら、もしレンズについてしまったら、目にはいったらと気が気ではなかった。
いたずらやトイレを壊される事件もあることから、せっけんを撤去したのかもしれないが、ちょっと困った。
で、今日になって、せっけんではないけれど外出時に手を洗える消毒用アルコールジェルを購入して、長距離長時間の外出に備えることにした。災害時などにも必要かもしれないし、ひとつはあってもいいかもしれない。実際、災害のときはせっけんどころかふろにも入れない日々が続くだろう。快速電車も高速道路も運行していなかったり寸断されていたり、行動範囲が狭まったり思うようにままならなかったりすることが予想される。
そういうとき、なにもないのと何か用意しておいたのとではまるっきり違ってくる。言いかえれば、半日間のこの旅で、災害時にどうしたらよいか何が必要かを考えることができた。

もうひとつ。携帯電話だ。
阪神大震災のとき、公衆電話の前に多くの人が並んだときいたことがある。携帯電話が通じなかったからだ。
今回、充電可能な予備電池を持って行ったけれど、東京へ戻る途中に予備電池も本体の電池も使えなくなってしまった。さあ困った。
予備電池を数本持って行ったほうがいいかもしれない。可能なら事前に充電しておきたいものだ。

ゆっくりのんびり、何も考えずにボ~ッと景色を眺めたり、持ってきた本をひろげたり、車内で弁当を食べたり。
無人駅も走るローカル線をゆく半日間があっという間だった。たまにはこんな旅もいいもんだと、旅本来の「非日常」らしさをじっくり堪能できた。

あなたも何者かになれる可能性がある2009/05/06 14:08:29

昨日夜から、おなかと背中がものすごく痛くて、けさには少し楽になったけれど。やれやれ、である。

しょっぱなから、女性の写真でごめんなさい。
気を悪くされた方がいらっしゃいましたら、こころから深くおわびします。

これはマンガ雑誌『漫画アクション』の5月2日発売号である。
この表紙下、黄色の部分を読んでみてほしい。「盲導犬ってスゴい!」とある。新連載、『ナオゴーストレート』という作品だ。
これは盲導犬歩行指導員を目指す女性、ナオの物語である。

「人には必ず人生を変える運命の出会いがある」――と誰かが言った そう……あたしにもあった……あの日――」で始まる。

人のこころを先読みして「相手が口に出さないキモチを敏感に感じ取ってしまう。で、相手が望むとおりに自分を合わせようとする。エスパーでも超人でもなく、おそらく長女(オーディション場面でグラビアタレントを目指すナオの妹が冒頭部に登場する)ゆえの性格だろう。わたしも長男で、聞こえないからついつい周りに合わせようとして気を遣いすぎてしまう。なんとなく共感できる人物、ナオ。
このナオがホテルの結婚パーティー披露宴担当だったときもそう。式を前にしたカップルをみてなんとなく、男性のほうが結婚したくないという様子なのを敏感にさとって「無理なさらないほうがいいのでは……」と発言しては、ビジネスチャンスを壊し、上司から叱責される。仕事を辞めてから彼氏からかかってきた電話もだ。「会えばまた顔色読まれてキモチ言い当てられて……面倒臭いカンジになるのも嫌だから」と別れを切り出される。「性格悪いうえに……何の才能もなし……あ――あ居場所ないなぁ」

雨の夜にナンパされそうになったナオを助けたのは、目の見えない男性だった。山崎という。
居酒屋でビールを囲み、山崎がその雰囲気をこころから楽しんでいることに気づくナオ。山崎はこう言った。「さっきからジョッキさぁ……オレが合わせているんじゃない。キミだよ、ナオちゃん。オレの気持ちを読み取って……無意識のうちに……ものすごく自然に……。キミ……すごい才能あるよナオちゃん」
それから盲導犬歩行訓練士になるまではまだ描かれていない。だが最後に「ゴーストレート」(まっすぐすすめ)という、盲導犬へのかけ声で第1回は終わった。ちなみに盲導犬へ声をかけるときは英語で「ゴー」「ストップ」などというのが基本だそうだ。

いままでにも手話をテーマにしたとか医療を描いたとかいう漫画があるけれど、そしてすぐれた作品もたくさんあるけれど、盲導犬訓練士を取り上げた作品はあるだろうか? ちょっと記憶にない。いつか手話を取り上げた(興味本位や美談ではない)漫画もでるといいね。

このマンガのモチーフ、テーマがあるとしたら冒頭に書いたように「人には必ず人生を変える運命の出会いがあり」、何の才能もないような人でも、何者かになれる可能性があるということだ。障がいがあろうがなかろうが……。

わたしは普通に話せる口と聞こえない耳を持って、いったい自分は何者なのか、聞こえないのか話せるのか、立ち位置があいまいなジレンマを抱えていた。
アナウンサーになりたかったけれど、聞こえないから無理。新聞記者にもなりたかったけれどこれも、聞こえないのは取材ができないから無理だという。学生時代の音楽の時間、合唱だとかカラオケも嫌いだった。音程をからかわれるのがいやで、いまでも合唱がトラウマになっている。そういえばこのあいだ「トラウマ」という手話表現を覚えた。
そんなわたしが、手話と出会って朗読つき手話だの、手話ソングだのという、自分らしさを取り戻せる場を見つけた。
だから、みんなにもそれぞれ、才能のあるなしに関係なく、何者かになれる可能性がある。
それを信じて生きていってほしい。

『漫画アクション』は双葉社から、第1と第3の火曜日発売である。あまりコンビニエンスストアに置いていないのは残念。
青年漫画誌だからセックスを取り上げた作品もあり、女性が手に取るにはためらいをおぼえるかもしれない。だとしたら、この、『ナオゴーストレート』が単行本になるまで待って、単行本になってからでも読んでみてほしい。ぜひ一読をおすすめする。

季節がめぐり……また2009/05/07 23:20:20

けさ出かける前に、近くの一軒家の軒先でつつじの花を落としているのにでくわした。もう切り落とすらしい。そうして来月にはまた、夏。

疲れた一日2009/05/08 22:13:10

いま新型インフルエンザがニュースの中心を占めているけれど、実はまだまだ季節性インフルエンザも流行しているらしい。
昨日から体調が悪く、のどの扁桃腺が痛かったり手足の筋肉が痛かったり、一日きつかった。
それでも楽しめたのは、仕事が終わってから手話で、おしゃべりができたこと。男同士のディナー。行ったさきのレストランの方が少し手話ができるということで、話も弾み楽しめた。

そんなこんなで週末を迎える。
明日からは晴れて気温も上がるそうだ。

だからこそ2009/05/09 17:01:03

外を歩いてなにげなしに空を見上げたら、きれいな月。
3年前から、なにかあったときのためにとデジタルカメラを持ち歩いていて夜にはめったに見えない星空や月を撮影しているのだけれど、夜空を撮影するのもまた楽しい。

コズミックカレンダーというのがある。
以前ここにも書いた、故カール・セーガン博士が提唱したもので、宇宙の誕生、ビック・バンから現在までの時間を1年のカレンダーにあてはめたものだそうだ。
たとえば。起点(いまから137億年前)から、つまり人類の歴史は宇宙の歴史を1年に置き換えてみるならば、365日、大みそかの夜に始まったにすぎないのだ。それは大みそかの午後10時40分にあたるという。今年は国際天文年だそうだが、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡で宇宙を見たいまから400年前は、0.04万年前だという。
というぐあいに考えていくと、人類の歴史なんて宇宙の広大深遠な時間からすればたったの1時間にも満たない。わずか10年前=0.001万年前、ということは……。

その時間の長い長い歩みをへてわたしという人間がこの世に生を受けていま、こうして文を書いたり人と話したりメールを交わしたりしている。宇宙のスケールからすればわたしなぞはわずかな、ごくささいな存在でしかないのに。これはほんとうに貴重な、たいせつなことなのだ。

いつかはわたしも神さまのみもとに帰る。
その貴重な時間をいただいているのだから、その瞬間まで、まず一生懸命生きなさいよ、と神さまは言っておられるのだと、思う。あらためてそう命じられている、とさえ思う。
手話つき朗読や手話ソングダンスも含めて、やりたいこと目標がある。だからこそこの有限貴重な時間をいただいて生かされていることに感謝をもって、一日一日を神さまにおこたえできるようになりたい。

いい舞台をお見せできるように2009/05/10 07:06:22

まだ5月も半ばだが一日暑い天気が続いた。
洗濯物を干して、手話ソングの練習。ホールや大きな部屋では聞き取りにくい、曲の出だしや間奏の始めと終わりが、静かなわたしの自宅では、何度も何度も繰り返し聞いてようやくわかりかけてきた。たまに間奏の終わりを間違えるときがあるけれど、だいたいおおむねのところはつかむことができた。
いつもより長い時間をかけて練習することができて、納得いく内容だった。

終わってからあたらしいコンタクトレンズの購入ほか、用事で都内へ移動する。
今度のレンズは2週間装用、シリコンを使った材質で乱視用だ。
いままで4種類使った中で、一番気に入った。はっきりみえるだけではなく、両眼ともに違和感を感じないのだ。もっといい性能の新しい製品が出るまでは、これでいこうと思う。ただし、2週間装用だからといって14日間つけるのは目に良くない。当然のこと。
時間を決めて、半日つけたらはずしてめがねをつけるというように、目を守ることが大事。補聴器もそうだけれど、使わないときは思い切ってはずすこと。目も耳も自分で守るしかないから。

来週から、月1回の教会青年の会で、手話ソングをやってみようかという話が出た。
手元にある本の中から、「主の食卓を囲み」「ひとりの小さな手」と、「主の祈り」をコピーしておく。何人集まるかわからないけれど、やってみよう。あわせて朗読のテキストも、まだ正式に読む個所を決めたわけではないが、朗読の講師と手話表現をご指導いただく手話通訳士のおふたりにお送りしたものと同じ内容を、製本にする。あとで読む範囲が決まれば、カットするなり、対応はしやすいからだ。
朗読の手話表現は、実際の朗読のご指導が始まる7月から前倒しして、来月から始める。

いい舞台をお見せできるように。