楽天的と悲愴的2009/04/01 23:06:49

エープリル・フールの今日。新入社員の新しい門出を祝う一方で、新聞には、日本銀行が、3月の企業短期経済観測調査の結果を発表したが、景況感は過去最悪、という記事が出た。とても4月バカを言っていられる雰囲気ではない、というのかもしれない。
そうだろうなと、心理はよくわかる。とても喜んでなんかいられないのも。

クリスチャンはよく「みこころのままにという言葉を口にする。これを裏側から見ると、とても「バカ冗談を言う余裕はないよ」ということではないだろうか。つまり神さまにおゆだねおまかせするという安寧安らぎの対照に不安や焦燥があるのだろう。

「みこころのままに」というのも、すべて神のお導き、というのも信仰としてはそのとおりだ。だが、一歩待てよ。神さまのお導きと言って、全責任を神さまにお預けするのならまだしも、無責任な態度でいるのはどうだろう。無責任を、適当その場しのぎと言い換えてもいい。
やはりみこころであれ導きであれ、そこに人間の責任というか、ゆだねたなりの神さまへの応答というか、なにかがあるはずだ。

Optimism, Optimstic過ぎても困る。またPathetic,very mournfulでもいけない。
やはり神さまにおこたえする。精いっぱい、なすべきことしなければならないことをやりとおしていく。それがないと責任応答を自ら放棄したことになる。だからわたしは、「みこころのままに」だとか、「すべて神のお導き」だとか「聖霊におすがりして」などと安易に口にしたくないし、そういう人を見ると一瞬であれ疑ってしまう。「ホントに分かって話しているのかな」と。

さて今日のエープリル・フール。
わたしは難聴者の友人に「今日一日、わたしは補聴器使用を禁止された」とメールを送った。案の定、ひっかかってくれた。そんなの、あるわけないじゃないか。驚かせるにはとてもレベルが低いものだ。
でも、そういうバカげたくだらないユーモアも、楽しむくらいでちょうどいい。
Optimism, Optimstic過ぎず。Pathetic,very mournful過ぎず。
ユーモアの中からまた明日、がんばろう、歩こう。
そんな意欲が生まれてくる。

先行きの見えない中で2009/04/02 08:25:25

いきなりで恐縮だが今日の新聞夕刊に、こんな記事が出ていた。

「自殺者3万2249人 08年 11年連続3万人超」

警察庁が今日発表した、2008年1年間に全国で自殺した人の数が32249人だという。2007年の33093人より844人減ったとはいえ、11年連続の3万人超である。男性は22831人。女性は9418人。だがサブプライム破たん、景気悪化が起きた昨年秋以降の影響が出始めている可能性を指摘している新聞もあった。

昨年まで使われていた、広島東洋カープの本拠、広島市民球場は31984人が定員だったという。
けれど数字がいくら何人であろうと、1年でこんなにも人が死んでいくのは、とても尋常ではない。

たしかにとても先の見えない状況である。不安がつのるばかりの2009年だ。

わたしも例外ではない。耳は少しずつ確実に衰えて聞こえなくなっている。電話をかけてもよく聞こえないだけではなく、職場では筆談がメーンの会話だ。
けれどそういった自分のからだのことも含めて、生きているということはとてもかけがえのない、というか自分にしかできない貴重なものだということを強く感じるのだ。

32249人のひとりひとりにはそれぞれのご事情がおありなのだろうし、それを非難したり批判したりする資格も立場もない。
おひとりおひとり、ほんとうは生きたかったやりたかったことがあったはず。それを実現できないまま、この世とお別れするのはどんなにつらかっただろうと思う。

生きているということはほんとうにかけがえのない一度限りのもの。
それを精いっぱい生きて、いい時も悪いときも楽しいときうれしいときも悲しいときつらいときも、下を向かずに前を向いて、最期の瞬間を「よりよく生きた」日として遺したい。

32249人おひとりおひとりに、慰めと平安が豊かにありますように。

夢多かりしあのころ なつかしい日々は帰らず2009/04/03 07:06:51

青山学院大学本部前にある「学生時代」歌碑 
仕事が終わってから、わたしがこの夏にも発表してみたいと考えている手話ソングのレッスンをいただく。
「ありがとうの歌」の手話訳をもう少し変えたり加えたり、ご高齢の方でも表わしやすいようにしてみる。実際にやって、おおむねこれでいいと納得できた。

今日は新しく、ペギー葉山さんの「学生時代」をつくってみる。

この日のためにわたしも、自分なりの手話表現を考えてみた。だが、なんといえばいいのか、詩的なイメージの歌詞ゆえ、ただ単に単語をあてはめるだけでは伝わりにくい。やってみてとても難しいと感じた。

たとえば――。
「つたのからまる」。もう少し具体的にイメージするなら、高校野球で知られる阪神甲子園球場の外壁にあるつた。あれと同じように考える。指文字で「つた」とやって両手で上へ広がるさまを表わしてもいい。あるいは葉っぱが上へ伸びていくさまでもいいだろうか。
「枯葉の散る窓辺」。紅葉でもいいだろうし、葉が散ってるでもいいだろうか。
「なつかしい友の顔が ひとりひとり浮かぶ」。「ひとりひとり」を数字で1人1人、としてもいいが、わたしは数字ではなく、脳裏に自然に浮かんできた、と言う意味で「自然に」と訳してみた。
まだまだ研究や検討の余地があり、次回またご指導をいただくことになっている。

完全な表現ではないけれど、つくってみた表現を、ご指導くださった手話通訳士の方と一緒に、CDの曲に合わせてやってみた。
……。とても涙が出て、ウルウル泣いてしまった。この歌は青山学院大学がモデルだそうだが、わたしも青山学院ではないがミッションスクールの卒業生で、在学時代、チャペルに通ったことがあるし誰もいないチャペルでひとり祈ったこともある。若かったから賛美歌を歌い、いろんなあこがれを抱いたものだ。この歌詞のもつイメージや歌詞そのものに共感と実体験があるのだ。
いろいろな思いがこころにわきあふれて、手話でやっているうちにとめどもなく涙が流れてきたのだ。……年とったかな。

学生時代に限ったことではない。みんなひとりひとり、生きているあいだに、宝のように大切な思い出があるはずだ。
「なつかしい日々は帰らず」。手話では「なつかしい、いつも」と訳してみた。
遠くはるか忘却の彼方にある、その懐かしい日々を胸に、いまこれからを大切に生きたい。

朗読と手話サークルと2009/04/04 23:53:21

今日から始まった朗読のレッスン。
短いパートを指名されて「よくまとめて読みました」とおほめをいただく。
6月からはいよいよ舞台に向けた取り組みが始まる。2カ月なんてあっというまだ。

夜は手話サークル。
まったくお酒がのめないうえに、体調から食べ物をあまりうけつけない。ほどよいところではしをしまって、あとはみなさんのおしゃべりをみたり聞いたりしてゆっくりすごす。そう、無理やり輪に入る必要なんかない。雰囲気を楽しんで味わえば、それだけで十分わたしは楽しい。

桜がとてもきれいだ。
美しいものを美しいとすなおに感じられる、新鮮な感性をもてる喜び。

きついなあ2009/04/05 18:13:10

朝からまた下痢をおこして少々きつい。昨日も居酒屋であまり食べなかったのだが、朝コンビニで買い求めた、たった1個のおすしにぎりを食べただけでもういっぱい。

教会から帰って銀座へ行き、喫茶店でコーヒーをのんでからいつも旅行で利用する国内航空会社のオフィスへ行ってきた。
それは、昨年10月29日~11月3日までトロントとサンフランシスコを訪れた際、国内航空会社のマイレージが反映されていない問題を確かめるためだった。春に旭川へ旅行に行ったときも利用した同航空会社だが、海外航空会社と共同運航便だった、この国内航空会社の半券チケットがないためにマイレージが足りない。
この航空会社のサイトはEメールがないらしい。電話しか問い合わせ方法がないために、少々大変だけれどオフィスへ直接行くしかない。

筆談を介して、半券チケットがないことが原因だと分かり、問題はチケットを購入した旅行会社に問い合わせることが必要だとわかった。

けっこう面倒だけれど、やっぱり行ってよかったね。

帰ってからも体調はすっきりしない。
やれやれ、である。

少しでも完全に近づけるようにはできるはずだ2009/04/06 22:49:31

今日、帰りの地下鉄都営浅草線に乗ってみたら、ドア上に行き先と到着駅を知らせる文字掲示がついた。これまで都営浅草線には、電光文字表示のついた車両はあまりなかった。ところが今日乗った車両には、きれいな表示がついていたのだ。とてもうれしいのは言うまでもない。

完ぺき完全な情報保障はありえない。
けれど少しでも完全に近づけるようにはできるはずだ。
昨日、わたしたちの浦安教会に赴任された新しい牧師は礼拝説教をプリント化してくださっただけではなく、初めての人には聖書の個所までプリントを配ってくださった。
こういう取り組みがあると、ホッとするだけではなく、居心地の良い教会に変わっていくだろう。

とはいえ、浦安教会で聞こえない難聴者はわたしだけ。
わたしはやっぱり手話でコミュニケーションがしたい。筆談で通じるからいい、ではなく、手話で会話がしたい。自分の手話のレベルを上げたいのだ。

いくら気持ちいいといっても2009/04/07 23:18:35

もうコートはいらないくらいに暖かくなってきた。ついこのあいだ「寒いねえ」と言っていたのに。

さてみなさんも、耳かきをしたことがおありでしょう。
子どものころひざまくらの上で耳を掃除してもらったものですが、補聴器をつけていて耳せんに違和感をおぼえるとき、ついつい耳の奥まで耳かきをいれたり、耳たぶのふちをかきすぎたりしてしまいます。やりすぎてしまったわたしの今日の耳は、右だけ真っ赤にはれてしまいました。

こうなると補聴器の耳せんをつけるのさえ痛くてとてもしんどい。痛いなんてものではなくて、中途半端に耳せんを入れようものならハウリングを起こすし、かといって無理やり押し込めようとすると耳の奥が痛くなるわで、夜までほとんど補聴器をはずしませんでした。

ほんとうは一週間に1回くらいがちょうどいいらしいのだけれど、耳をそうじするときの気持ちよさといったら! けれどいくら気持ちがいいといってもねえ。

真っ赤になった耳たぶを鏡で見ながら、あきれてしまいます。

どんなことにも言えるものだけれど、やりすぎはほどほどに。
みなさんも耳かきのときはくれぐれも気をつけて下さいね!

やるなら、楽しくやりたい2009/04/08 20:12:21

自宅に帰ってから手話ソングの練習。何度も何度も聞いて曲のタイミングをつかむことから正確な表現まで、とにかく反復を何度も重ねて繰り返し繰り返しからだで覚えるしかない。

自分のためというよりは聞こえない人にも聞こえる人にも楽しんでもらえるようになりたい、というのが目的だ。
だからやるなら、楽しくやらないとね。

まだ先は長いけれど、あせらずゆっくり。必ず道は開かれると確信している。

世界で活躍する日本人2009/04/09 23:00:14

今日は暖かいというより暑いくらいの天気だったらしい。新聞の気象欄をみると23℃とある。そろそろ夏用スーツの出番だろうか。

野茂英雄氏がロサンゼルス・ドジャースに入団、日本人のメジャーリーガーとして活躍してから、何人もの日本人選手が太平洋を越えていった。そのなかにはマイナーリーガーで終わった人もいれば、まだメジャーで現役という人もいる。
今日、ボルティモアであった、ボルティモア・オリオールズ対ニューヨーク・ヤンキース戦。ボルティモアの先発投手は日本の巨人から移籍した上原浩治。対するニューヨークには日本でチームメートだった松井秀喜がいる。

そういえば野茂氏とイチローが対戦したときも、日本人対決などと盛り上げられたけれど、当の両人はあまり意識していなかったそうだ。いつまでも日本人対決、という図式でみられたくないだろうし、チームスポーツである野球に、妙な個人同士の戦いというのは不釣り合いかもしれない。日本人のもつメンタリティーといえばそれまでだけれど、それを外国のなかにまで持ち込むのもどうかなあ。
むしろこれだけ日本人選手がたくさん活躍している時代だから、そういったメンタリティーからそろそろ卒業しないと。

ボルティモアにある、もうひとつのプロスポーツチーム。NFLのレイブンズ。チーム名の由来は、ボルティモア出身の作家、エドガー・アラン・ポーの作品「レイブン」から来ているという。オリオール(メリーランド州の州鳥でムクドリモドキ)、レイブン(ワタリガラス)、どちらも鳥からとっている。
で、そのレイブンズに、ハルキ・ナカムラという日系人プレーヤーがいる。日本人の父親とアメリカ人の母親のあいだに生まれ。ドラフト6巡、総合で206位でレイブンズ入りした。このラウンドで選ばれる選手はキャンプでよほどの活躍を見せないと、クビになるのがほとんどだ。
けれどもキャンプで認められてそのままロースター入り。2008年シーズンはプレーオフまですすむことができた。

日本人同士の対戦を盛り上げるのはどうかと書いたけれど、一方で過酷なプロスポーツの世界で活躍している日本人や日系プレーヤーを見ると、つい応援に力がはいる。
まだ日本人選手がいないNFL。多くの日本人がいるMLB。
手の届かない世界だからこそ、こころから応援したい。

生涯終わりがない学び2009/04/10 22:02:41

今日からまた、東京都身体障害者福祉会館で、中途難聴者向けの手話講習会が始まった。
わたしもかつて学んだこの講習会は、人生の途上で聞こえなくなった、あるいは幼少のころから聞こえなくなって、それまでは手話の必要性を感じていなかったけれど次第に手話を覚えようという人たちなどが多い。
今日から学びを始めた、講習会の受講生に、幸いが豊かにありますように。

中途難聴者は、聞こえの程度がまちまちで個人差があり、わたしのように普通に話せるけれど補聴器をはずすとまったく聞こえない人から、補聴器をつけているけれど聞こえる人と会話が可能な人まで、さまざまである。それだけにコミュニケーション手段では筆談、補聴器などの器具を使う人から、読話といって口の動きを読むなどと、これまたいろいろである。
けれどひとつしかないよりは、いくつもの会話コミュニケーション手段を持っていたほうが、広がりのある会話ができるし、自分がいくつものコミュニケーション手段を持っていることで、相手にもそれを伝えていくなかで、お互いの理解が広がればと思う。

矛盾しているのを承知でいえば、わたし個人は、手話を身につけてしまったし、読話には自信がない。静かなところでは分かっていても、騒音のあるところではたまごとなまこ、たばこの区別がつきにくい、というように実際失敗して恥をかいたことがある。
わたしにとってコミュニケーション手段の第一は手話である。手話のできる人と一緒にいられたらどんなに楽しいだろう。これからもずっと手話の学びを続けるつもりだ。生涯終わりがない学びである。

自宅に帰って手話ソングの練習。「学生時代」を続けている。まだ曲のタイミングがつかめない。間奏で失敗してしまう。
もっともっと練習を積み重ねたい。

明日は病院へ行く。筆談ノートと呼び出しベルを忘れずに。
早いので今日はこのへんで。