どちらにしてもコミュニケーション手段として重要であり大切なものである2009/04/16 08:27:35

障害者の権利条約(日本政府仮訳文)

第二条 定義

この条約の適用上、
「意思疎通」とは、言語、文字表記、点字、触覚を使った意思疎通、拡大文字、利用可能なマルチメディア並びに筆記、聴覚、平易な言葉及び朗読者による意思疎通の形態、手段及び様式並びに補助的及び代替的な意思疎通の形態、手段及び様式(利用可能な情報通信技術を含む。)をいう。
「言語」とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/rights/adhoc8/convention.html#article2

先日わたしは「よく手話を使ったパフォーマンスについて賛否両論の議論をきくことがある」と書いた。

以前にも書いたように、街中や交通機関のなかで手話を使って会話をしているとき、周りから奇異の目でみられることはかなりなくなってきた。チラチラと見る人はいるかもしれないけれど、なんだこいつ、とアタマから見下している人はほとんどいないだろう。
だが、伝統的な――言い方を変えれば、一般に言われる手話(日本手話)とは少し違った――日本語に基づいた手話(日本語対応手話)も、人生の途上で聞こえなくなった中途難聴者にとっては、大事な欠かせない言語であり手話である。
わたしは将来の目標として日本手話やアメリカ手話を身につけたいと思っているけれど、日本手話がすべてだとか正しいとかいう議論については、ナンセンスでしかないと思っている。
生まれた時から聞こえないろう者と、人生の途中で聞こえなくなった中途難聴者は、その基点から違う。違うけれどどちらが正しい悪いではなく、聞こえなくなったという点では同じである。出発点が違うことでどちらの使っている言語が正しいとか間違っているとかいうのは、無意味だ。大切なことは、手話は聞こえない人にとってコミュニケーション手段として重要であり大切なものであるということだ。それこそが社会に対して問い続け叫ばれ続けなくてはならない。わたしは無駄な対立を望んではいない。
日本手話(ろう者の手話)と日本語対応手話(中途難聴者の手話)のどちらが正しいとか、対応手話がうそであるとか言う発言や議論をきくと、ますます空しさを感じる。

障害者の権利条約の定義に含まれる「言語」に、難聴者の手話も含まれるとわたしは考えるのだが、手話通訳者や手話に関心を持っておられる方、ろう者難聴者、みなさんはいかがお考えだろうか。