朗読に手話ダンスに2006/07/02 23:15:20

 一年の半分をすぎ、新しい月に入った。あまりにもいろいろなことがありすぎて、これほどめまぐるしい思いを味わったことがない。まさかといいたいことの連続。うれしかったことは3月から4月にかけてのワールドベースボールクラッシックでのジャパン優勝。がっかりしたのはサッカーワールドカップ。そして悲しかったことは………いうまでもないね。

 手話ソングダンス、10月には朗読の発表会が予定されている。
 40歳になったのだけれど、この年齢を迎えて、いろいろな経験を積むことが大事なことだと思う。年齢が問題なのではなく、年齢をへたからこそみえることがあるのではないだろうか。

 最近のニュースを見ると、若い人に先を見通す力、想像力が欠けているのではないかと思わされることが目につく。軽率な行動が思いがけない結果を生む。そんなことがわからないのかと思うような。

 しかし若い人だけではない。
 年齢を積み重ねたからこそ、自戒したい。いつまでもバカをやってはいけないぞ、と。

手話を学んで2006/07/06 23:33:43

 手話ソングダンスグループ・フライングハンズに入団して3年がたった。初めての海外公演に臨むつもりで、今回はサポート兼応援のつもりでいろいろ協力したりしてきたのだが、実にバカバカしいことのために、フランスへ行けなくなってしまった。ここに書くのも恥ずかしい情けない、怒りを隠しきれない思いがからだじゅうを駆け回ったこの2日間だった。理由? とても公にできないこと、ただひとつ言えるのは体調不良ではないことだけ。今日も卓球でからだを動かしてきたのだ。

 で、あきらめて別予定で、今年の夏休みを送ることを考えている。

 さて不機嫌な思いを書くのは心身によくないだけではなく、社会に向けた発信であるこのブログの目的からもそぐわない。このフランス行きの話はもうやめて、切り替えて明るい話題にしよう。

 古寺蛙鳴(ふるてら・けいめい)という1942年、千葉県匝瑳市生まれ、同市在住の作家がいる。自身も突然の中途難聴という経験をもとに、失聴者と健常者の交流を描いた小説を執筆しているという。
 その作品「心輝く時」を購入して読んだ。

 作品自体は文章に硬軟があり、ストーリー進行がやや急すぎるきらいがある。たとえば表題作「心輝く時」では主人公・和夫が市民会館前を通りがかったときにみた「初級手話講座」の看板にひかれて手話を学んだというが、看板を見てすぐに学びたいと思うだろうか。和夫は聞こえる人なのだ。家族に障碍者がいるわけでもない設定だ。さらには、涼子という難聴のある女性にひかれ恋するのだが、手話講座に入って間もないときに恋するように読める。いくらひと目ぼれでも、すぐに恋するだろうか。障碍者と健常者、聞こえる人と聞こえない人のあいだに恋愛が成り立たないとは思わないが、急すぎて、読者からすると置いてきぼりにされたような、もっとふたりのあいだに葛藤や苦悩や、問題がなかったのかという気もする。ロミオとジュリエット以来、恋愛に壁や困難がつきもの、障壁が恋を熱く燃やすものにさせるとはいえ、いくらなんでもこの小説では不自然に感じられる。わたしの実生活でもそういう出会いと恋愛があったら、どんなにいいかなと思うが。これは半分冗談。

 しかし中途難聴者の経験が生かされている部分もある。
 たとえば手話についてのくだりだ。

 ろうあ者の会話は日本手話が圧倒的に多い。文法や形よりも実用性に富み、意味が通じることが大事だという。言葉ではなく意味で話す。具体的に説明すると、ろうあ者と聞こえる人では、同じ経験でも感じ取るイメージが違う。音を聞く経験がないために、見ることだけからのイメージが大きいのだ。しかしわたしも含めて中途難聴者の使う、日本語対応手話(本小説では「日本語手話」)は、文章通りに手話を表現する。聞こえなくなるまでに言葉を覚え文章表現を身につけているからだ。筆者である古寺蛙鳴さんは、日本語手話は表現に乏しいと書いておられる。

 先日手話サークルで手話表現を覚え、みんなの前でやってみたときのこと。
 手話ソングダンスをやっているからだろうか、流れるような踊るような表現になって読み取りにくいと言われた。もっとゆっくりはっきり表してほしいとも言われた。
 う~ん。わたしはどうも、全身をフルに使って表現するのがくせになっているようだ。というか、からだを目いっぱい使って表現するのが合っている。

 どちらがいい悪いではない。日本手話と日本語手話にもいえる。
 しかし、視覚に訴える言語である手話である以上、伝わらなければ意味がない。
 いい悪いではなく、伝わるようにわかってもらえるようになりたい。

 フランス行きの話はもう話すことも書くこともしない。
 しかしいろいろなことを考えさせられた。
 これからどうなるだろう。わたしはフライングハンズを続けられるだろうか。必要とされる存在でありたい。もっともっと練習してうまくなりたい。ステージに立ちたい。

 体調というよりは心理的な部分、こころのコントロールが難しい。
 人間関係などでうつ状態に引き戻されそうな苦しみを感じる。

 けれどわたしには目標がある。
 手話を使った表現、芸術活動は一生かけても続けていきたい。

夜に歩いて2006/07/08 23:35:32

 まったくどうかしている、と思う今日このごろ。

 梅雨と夏が一緒に来たような、おかしな天気ばかり続き、いったいどうなってしまったのだろう。

 夜に街を歩いて、子どものころ「夜鷹」と怒られたものだけどいまは、生活時間が夜型になって、小さい子どもを連れた親子を見るのは当たり前のことになってしまった。

 これでいいのかと考え込んでしまう。
 ある科学調査では、子どものころにきちんと生活時間を身につけなかった人は成長して太りやすいという結果が出ているそうだ。

 いったいどうなってしまったのだろうね。

少し気持ちが戻ったけれど2006/07/10 23:31:41

 フランス行きがだめになってしまったというバカバカしい出来事から一週間。手話ソングダンスの練習日。仲間とおしゃべりをして少しだけ気持ちが楽になった。けれどまだまだ、回復には遠い。仲間のひとりで手話通訳者からは、自分を守る、不愉快な言動に左右されずに自分を守ることも必要だと言われた。

 イライラのひとつだった、部屋の照明の修理を終えた。
 照明スイッチにつながる糸線が切れてしまい、いらついていたところにこんなバカバカしいトラブルが入ってキレた。家庭用品コーナーなどをまわってベンチとピンセット、代わりの糸線を購入、悪戦苦闘の末にようやく修理をし終えた。あきらめずに修理をやってよかった。

 1カ月にわたったサッカー、ワールドカップはイタリアの優勝で幕を閉じた。
PK戦で勝利を収めたが、イタリアはこれまでPK戦ではあまりいい結果がない。加えて2カ月前の八百長騒動が尾を引いて、けっしていい状態ではなかった。

 強い精神力といったらいいのだろうか。逆境に屈しない力。
 一昼一夜で身につくものではない。世界レベルではあれくらいの力がないとトップに立てないのだろう。

 アメリカではプロフットボールNFLのサマーキャンプトレーニングが始まった。

 あと2カ月でNFLが開幕。

 30年前に公開された映画「日本沈没」がリメークされてこの夏公開される。覚えているのは五木ひろしさんの主題歌と特撮だったが、今回は最新の学説などを交えてよりリアリティーを持たせた内容になっている。
 けれどやっぱり起きてほしくないのが地震だ。

 ここ数日を見ると東北、北関東、神津島などと相次いで地震が起きている。いつ起きてもおかしくない直下型地震。やっぱりいやだなと思う。

同世代の人がまたひとり………2006/07/12 23:08:05

 高校から大学時代をおくった1980年代は、アイドル全盛時代と重なり、いろんな思い出がある。いまはもう引退した人、現役だけれどテレビで見なくなった人、トップで活躍している人、立ち位置を変えて別の世界で活躍している人、さまざまである。

 そのなかの引退組のひとり、甲斐智恵美さんが今月10日心不全で亡くなったという。まだ43歳。お子さんとご主人を残しての早すぎる旅立ちだった。

 レコードを聴いたことはないけれど女優としていくつものテレビドラマに出演していたのを覚えている。明るさと健康さがいつも光っていた女性だった。

 亡くなってしまうとあらためて寂寥感が襲ってくる。
 死んでしまうとなにも言えないね。死んだ人はもうかえってこないしそばで声を聞いたり話をしたりすることはできない。

 わたしもいつかは死んでいく。
 どうなるかわからないけれど有名にならなくても財産を残さなくてもいいから、なにかを遺したといえる人生を生きたい、ただそれだけだ。

 同世代がまた、ひとり。

寛解2006/07/14 23:22:31

 生きていくということはストレスから逃れられないということでもあるのだと思う。たとえばおいしいものを食べたい。外で手に入れるにしろ自炊するにしろ、食材を買ったりつくったりお店を選んだりすることもストレスになり得る。
 そういったことを考えると、生きていくことからストレスは逃れられないのだね。

 うつから治ったと思ったら、またぶり返してきた。
 あまり真剣に人の言葉を受け止めないこと。こんなものだと割り切るというか受け流すというか。

 クリスチャンとしてはこうありたい。
 わたしを嫌い厳しく言う人も、神さまからみられているのだ。わたしを神さまがごらんになっておられるのと同じように。

 疲れたと思ったら休む。目いっぱい引き受けない。

 一進一退、寛解があたりまえなのだ。うつと共存、共に生きていくしかないのだね。

神さまはみておられる2006/07/16 23:10:12

 今日、10月に予定されている朗読の発表会でBGMに使う、ベートーベンのCDを探すため、夕方に銀座まで歩いてきた。
 当初吉永小百合さんの朗読を使おうと思ったけれど、前に何度も触れている「地球交響曲」という小説から、難聴を患ったベートーベンの苦悩を描いたくだりをピックアップして、ベートーベンの曲をバックに読んでみようと思う。
 この小説でもやはり第9交響曲の制作過程、ウィーンでの初演が描かれている。第9の合唱を使ってもいいけれど、なんだか最後にドンドコ騒ぎ立てるだけのような気がして、かえってよくない。先週土曜日の朗読のあとに、仲間と少し話したのは、感情を前面に押し出すのではなく、たんたんと穏やかに読んだ方がいいのではないか、ということだった。

 いま使おうと思っている、ベートーベンの曲は以下の2曲のうちのどれかだろ。

 ①恋人だったジュリエッタ・グッチャルディに献呈したといわれている、1801年に作曲された、ピアノソナタ第14番「月光」
 ②ベートーベンが40歳の時に書いた「不滅の恋人」あてといわれる3通の手紙のあて名人、アントニオ・ブレンターノが実質の献呈先だろう、ピアノソナタ第30番ホ長調作品109

 手話ソングダンスと並んで一生続けたいテーマである朗読。

 神さまはちゃんとみておられる。自分の努力を自分で続けようとする意志のある者に対しては、神さまはちゃんとこたえてくださるのだ。

自宅で久しぶりの2006/07/18 22:10:59

 朝と夕を自宅で、それも久しぶりに自炊(というほどではないが)食事を作って食べた。
 う~ん、とても気持ちがいい。

 自宅で過ごすとゆったり落ち着いていられる。

 インドネシア・ジャカルタを襲った地震は津波で300人以上の犠牲者を出した。スマトラ沖に続いて、また、というしかない。

 災害のために苦しむ多くの人たちを思う。嘆き悲しみはいかばかりか。
 犠牲になった人たちに、そのご遺族に、神さまの慰めがありますように。

生きているということのすばらしさ2006/07/20 23:21:52

 宇宙に人類を送り込むことができる21世紀のいま、しかしまだまだ知られていないことがたくさんあるのだな。
 というのは、脳についての記事を読んだことだ。

 皮質層には、シナプスの名で知られる接続部分が、およそ百兆個存在する。仮に1秒に1個の速度でシナプスを数えていくとして、3200万年かかる計算になる。

 これはG・M・エーデルマンという学者が発表した論文からの一部だという。
 脳の中にある接続部分を数えるだけで、3200万年か。しかし人の一生はどんなに長くても120年が限度。この深遠な時間の長さよ。

 たった120年しか生きられないとしても、生きていることそれ自体がすでに大きな恵みであり計り知れないできごとなのだね。
 
 生きているということを大切にしっかりかみしめて、明日も恐れずに気高く生きよう。

練習はウソをつかない2006/07/22 22:50:45

 今日は忙しい1日だった。
 お昼過ぎに朗読の発表会に使いたいと考えている原稿を先生に届けてもらうため、カルチャーセンターのオフィスへ行く。そのあと卓球の練習のため移動。午後5時まで3時間以上練習に励んだ。
 
 それなりに打ち返せるようになったと思うけれど、うぬぼれは禁物。
 しかし、苦手だったカットが、こつをつかんだような気がする。
 ひざを落としてボールの落下点をみること。
 もうひとつ、台から下がって打つとき、相手のラケットに当たったボールを見るのではなく、打ち返されてきたボールを見ること。

 ともあれ練習はウソをつかないと信じている。

 あとはなにをするか、分かっているね?